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夕顔殿始末  作者: 自嘲亭
11/14

その11

 この様子を、見ている者がありました。

 菊でした。

 菊は、今日の父源之丞とのやり取りがあったものですから、すっかり寝付けずにいたのです。

 すると、奥方様の部屋から、かすかな物音がしました。

 そっと覗いてみると、奥方様が、部屋から出て行くのが見えました。

 こんな夜更けに、供も連れず、どこへ行くのだろう…。

 菊は胸騒ぎがしました。

 何かとても危険なにおいを、菊は本能的に、嗅ぎとっていました。

 見てはいけないものを見てしまった…という感じを覚えたのは、奥方様が薄絹の単衣一枚を見にまとっていただけだからでもありました。

 この薄絹の単衣が奥方様の衣類の中にあることは、菊はかねてから知ってはいました。

 しかし、それを奥方様が着ているところを、菊は見たことがありませんでした。

 先輩の女中たちに訊いても、含み笑いをして、「あなたも大人になればわかります」と云われるばかりなのでした。

 奥方様に直接訊く勇気は、菊にはありませんでした。

 菊は正直、この奥方様が苦手でした。

 厳しく叱られたりすることは全くありませんでした。

 なのに、苦手だったのです。

 なんというか、奥方様は、これまで菊が出会ったどの女の人とも違う女の人でした。

 それを上手く言い表すすべを、菊は持ちませんでした。

 ただ、どこかこの世のものではないような、ただならぬものを、奥方様はかもし出していました。

 だから菊は、奥方様の前に出ると、いつも何だか気後れしてしまうのでした。

 しかし今宵、奥方様がその薄絹の単衣を身に付けて、一人で部屋を出て行くのを見た時…。

 菊は先輩女中の云う「大人になればわかる」の意味を、本能的に悟っていました。

 そしてそれは、とても危険なにおいを、発しているのでした。

 見るべきではない、という心の声は、もう一つの、見たい、見て私も大人になりたい、という、好奇から来る心の声に負けました。

 菊は足音を忍ばせ、奥方様のあとを付けました。


「首尾は如何でした、源之丞」

 千代はもう一度云いました。

「ハッ…」千代の姿に呆然と幻惑されていた堀源之丞は、我に返って答えました。「仰せの通りに…いたしました」

「物盗りの仕業に見えるよう、ちゃんと部屋を荒らしてきましたか」

「ハッ、そのように…」

「源之丞、近う」

 千代は源之丞を手招きしました。

 源之丞はためらいましたが、一つ、膝を進めました。

「もっと近う」

 源之丞は、もはやそれ以上近付こうとはしませんでした。

 そこまで近付くと、千代の体温が、吐息が、直接感じられるほどの距離に、なってしまうからです。

「源之丞。私をどう思う」

 千代の問いに源之丞は答えず、相手の顔をじっと見やっておりました。

 視線を下げると、その胸元がはっきりと見えてしまうからでした。

 千代はフッ、と微笑みました。

「私を人の心を持たぬけだものか何かだと、思っていますか」

 源之丞は黙ったままです。

「云い訳はしません」千代は云いました。「確かに私は獣かも知れません。源之丞、私を斬りますか」

「いえ…」源之丞は、ようやく口を開きました。「滅相も、ございません…」

「一郎重次様を殺したのは、実は私なのです」

 こともなげに、千代は云いました。

 源之丞は、目を見張りましたが、何も云いません。

「以来私は、人の心をなくしたのかも知れません。そして自分がどうなって行くのか、わかりません。ただひとつわかるのは、私は、生きていたい、生き延びて行きたいということだけです」

 千代はじいっと堀源之丞を見つめたまま、云いました。

 源之丞もまた、呪縛にかかったように、千代から目を離すことが出来ずにいます。

 千代はふと寂しげな表情になり、云いました。

「私には、味方はいません」

「そんなことは…」源之丞は云いました。「三郎介様も、左近様も、それに、昨今では大殿様の覚えもめでたく…」

「しかし彼らが裏切れば、私は破滅です」千代は云いました。「私が欲しいのは、絶対に私を裏切らない、本当に心強い、味方なのです。それは…源之丞、あなたを置いて他にはありません」

 と、源之丞が身をひるがえす間もなく、千代は縁から飛び降り、源之丞の身体にしがみついていました。

 いつかと同じことでした。

「な、何を…」

「大声を出しますか」千代は、源之丞にむしゃぶりつきつつ、その耳元に囁きます。「私は、どんなにあなたに会いたかったことか。ここで、思いを遂げてしまわねば、私は狂い死にます」

 またも、いつぞやと同じことでした。

 源之丞は、妙にその行為のことだけは、くっきりと覚えているのでした。

 しかしそれは、何かボンヤリした靄の中にくるまれて、後先のことはよく覚えていないのでした。

 とにかくそれは、非常に短い時間のことでした。

 千代は慣れた鮮やかな手際で、たちまちに源之丞とのことを、為遂げて見せたのでした。

 ただ、前と違うことがありました。

 このことを見ていた者がいたのでした。

 それがよりによって菊だとは…源之丞は知る由もないのでした。


 支城の城下に住む、権三という一人暮らしの老人が殺されているのが見つかったのは、翌朝のことでした。

 物盗りに遭ったらしく、家の中は荒らされていました。

 権三は一刀のもとに斬り殺されておりました。

 権三はカッと目をひんむいたまま、その顔には無念とも、悲しみともつかぬ表情が、貼り付いていました。


「御方様。実のお父上が、昨夜、お亡くなりになりました」

 千代の前に伏した生田左近が、うやうやしくそう云いました。

「まあ」千代は、驚いた表情で左近を見やります。「なんですって」

 顔を上げた左近は、無表情でした。

「お父上は一刀のもとに斬り殺されていたそうです」左近は淡々と云います。「家の中は荒らされていたそうで。どうやら…物盗りの仕業らしいようですな」

 左近は無表情のままでしたが、目は探るようにじっと千代を見つめています。

「下手人は捕まったのですか」

 千代の問いに左近は首を横に振り、「いいえ」と答えました。

「ただ…」

 左近はそう続けて、言葉を切りました。

「ただ…何ですか?」

 千代は怪訝な顔をしました。

「お父上の骸の傍に、小柄(こづか)が落ちておりましてな。お父上はもう刀などお持ちではないから、これは下手人の物ということになりますな」

「小柄…」

「小柄というのは脇差についている物ですからな」左近は口髭を撫でながら云うのでした。「つまり、下手人は二本差しということになる。どこぞやから流れてきた浪人の仕業かと思えるが、しかし、人の家に押し入るのに二本差しで行くものかどうか…」

「何を云いたいのです」

「おお、これは失礼」左近は頭を下げました。「お父上を弑した者は、もしや物盗りに見せかけてそうではないということも有り得ると思いましてな。それで、御方様に、何かお心当たりはないものかと…」

「ありません」千代ははねつけるように云いました。「おとっつ…いえ、父とはここのところ、まったく会っておりませぬゆえ、町に暮らすようになってからの父のことは、知りません」

「ほう…」左近は口髭を撫でながら云います。「昨日、裏門に御方様を訪ねて参った者があったとか。…権三と、その者は名乗ったということですが」

 千代は、冷たいまなざしで左近を見やっておりました。

 左近も千代と冷然と向き合ったままでした。

 やがて、ニヤリと千代は笑いました。

「左近殿には隠し事が出来ませんね」千代は云いました。「そうです。昨日、確かに父は私を訪ねて参りました」

「一体何用で」

「父が娘に会いに来るのに、何用もあったものではございません」千代は溜息混じりに云いました。「あまりに私が無沙汰をしているものですから、情に負けて、禁を犯して、私に会いに来たのです」

「その後で、堀源之丞をお呼びになりましたな」

 千代のまなざしが、再び冷たく光りました。

「この城のことは岡目八目」左近が今度はニヤリと笑いました。「わしの耳に入って来ぬことはございませんぞ」

 千代はまた溜息をつき、そしてニヤリと笑いました。

「左近殿にはかないませんね。で、何をどこまでご存知なのですか」

 顔は余裕の笑みを浮かべていますが、千代のまなざしは必死に左近の表情を探っていました。

 一体本当に、左近は何をどこまで知っているのか…。

 すると、左近は再び、頭を下げたのでした。

「御方様、水臭うございますぞ」左近は頭を下げたまま云いました。「わしは、御方様のお味方でございます。何かございますれば、この左近にお命じ下され。さすれば、何事も御方様のご都合のよろしいように、為して御覧に入れまする」

 千代は、その左近の答えから、今彼が口にした以上のことは、知らないのだと確信しました。

 果たして、この生田左近にどこまで気を許すべきか。

 堀源之丞を篭絡したようなやり方は、この男には通用しない…。

 千代は左近と出会った当初から、そう感じていました。

 左近は三郎介の忠実な家来でありました。

 何事も、三郎介第一の男…。

 そのためには手段を選ばぬが、しかし三郎介の御為(おんため)、という一線は決して外さない。

 それが、千代がこれまで感じ続けていた、生田左近像でありました。

 それは逆に云うと、いくら左近が先のように「御方様の味方」などと云っても、それはあくまで千代が三郎介の妻であるからであって、千代そのものの味方ではない、ということでありました。

 ましてや、今の千代は三郎介から心が離れつつあります。

 それどころか、しゅうとである若月弾正とも、堀源之丞とも密通しています。

 そんな事実を知ったら、生田左近は自分を許さないでしょう。

 それに、左近は千代の義理の父でもあるのです。

 さらには…もしあの、権三が云っていたことが、事実であったなら…。

 もはや千代は、実の父や、異母兄とあってはならぬ関係に堕ちた、畜生であります。

 千代自身は、そのことに何の後悔もないのでしたが、世間はそうは見ないでしょう。

 この先、生き延びるためにも、そんなことは決して公にはできません。

 こんなことが、一瞬のうちに、千代の内部をよぎりました。

「それは、頼もしゅうございます」千代は鷹揚な笑みを浮かべて左近に云いました。「しかし、父が私を訪ねてきたことに関しては、それ以上申し上げることもございません。堀源之丞には、父が無事家に戻るか、確かめてもらったのです。父もだいぶ年を取り、足元がいささかおぼつかなく感じたものですから。それに、父権三の顔を見知っているのは、三郎介様と左近殿を除けば、源之丞しかおりませぬので」

 そこで千代は、袖で顔を覆いました。

「こんなことなら」涙声で千代は云いました。「そのまま源之丞に、父の家の守りを、させるのでした…」

「その源之丞ですが」左近は無表情な声で云いました。「身体の調子が優れぬということで、本日よりしばらくの間、いとまを頂戴したい旨の報せがありました」

 袖の陰から顔を出して、千代は左近をまた見つめました。

「そうですか」千代も無表情な声で云いました。「父の件を、源之丞も気に病んでのことでなければ良いのですが。後で、私からも何か見舞いの品を届けさせましょう。…左近殿、もう御用はよろしいか。実は、お屋形様から、また私に肩を揉めとの仰せがありまして、急ぎ向かわねばなりませんので。ではまた、ご機嫌よろしゅう」

 云い終わると千代は、頭を深々と下げる左近を残して、そそくさと部屋を退出して行きました。

 頭を上げた左近は、苦々しい顔付きで、呆れ半分の溜息をつきました。

 まったく、とんだ見込み違いだわい…。

 左近は腹の中で思いました。

 お屋形様とのこと、わしが知らぬと思ってか。

 さてはとんだ女狐を、家中に引っ張り込んでしまった。

 しかし、このわしに何もかも打ち明けてくれたなら、まだ味方のしようもあると云うもの。

 なのにあの女、わしを見くびりおって…。

 あの女、いささか思い上がっておるようだ。

 何事も自分一人の才覚で、ここまでのし上がって来たとでも思うておるのか。

 ふん、ならば、目に物見せてくれようぞ。

 千代よ、おまえなど捻り潰すのは、この生田左近には、造作もないことなのだ…。

 左近は一人不気味にニヤリと笑うのでした。 

 

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