その10
間もなく千代は三郎介のいる支城に戻りました。
千代は、腹に若月弾正の種が根付いたことを確信しておりました。
それがこれからどのような混乱をもたらすのか…などということは、千代にはどうでもよいことでした。
と云うより、もし何か混乱が起きても、自分は上手く乗り切れる…という自信が湧いていました。
自信の源は、腹に仕込んだ弾正の種でありました。
そうなると不思議なもので、これまで冷淡であった産んだ我が子、松に対しても、愛情が湧いてくるのでした。
本城から支城に戻る間、千代はこれまでその世話を任せっきりだった乳母や女中たちから松を取り上げ、ずっと抱いてゆきました。
一方で、乳母や女中たちは、表向きこそうやうやしく千代に接していましたが、しかしその態度はどこかよそよそしいものでした。
彼女たちの中で、若月弾正と千代との関係を知らぬ者は、菊だけでした。
菊の耳には入らないように、彼女たちが気を付けていたのです。
まだ年若い菊にこのような醜聞を聞かせるのは忍びない、という配慮もありましたが、まだ年若いゆえに城に戻ってみだりにこんなことを口走らぬとも限らない、という心配ゆえでもありました。
どうあれ千代は、支城に戻りました。
千代を迎えた三郎介は、驚きました。
千代がまるで、見違えたかのようになっていたからです。
肌はすっかり、抜けるように白くなっていました。
それだけではありません。
弾正から送られたというきらびやかな打掛を身にまとった千代は、美しいというより、妖艶でありました。
その微笑みには、王者の風格がありました。
千代から松を、三郎介は戸惑いの表情とともに、受け取りました。
すでに本城で我が子との対面は果たしていたのですが、その時には感じなかった戸惑いを、三郎介は感じていました。
その時の千代は産後まもなくで、ひどくやつれていたのです。
ところが今の千代は打って変わって、肌も艶々しく、目付きにも生気が漲っていました。
「何をそのような浮かぬお顔をなさっておいでですか」千代が元気の良い声で云いました。「あなた様のお子でございますよ。それとも、お顔があなたに似てらっしゃいませぬか? フフッ、むしろお父上に似てらっしゃるかも知れませぬわねえ」
この言葉に、女中たちは総毛だったのでした。
何も知らぬ菊だけが、ニコニコしておりました。
三郎介も、千代の言葉にギクリとしました。
ですが、あまりにあっけらかんと彼女がそう云うので、女中たちの手前もあり、三郎介は鷹揚な笑みを浮かべざるを得ませんでした。
もっともその笑みは鷹揚というにはほど遠い、引きつったものではありましたが。
「いや、そんなことはないぞ」精一杯の虚勢とともに、三郎介は云いました。「わしに、よく似ておる。そなたにも、似ておるぞ」
千代はニッコリと鷹揚に、そして妖艶に、微笑んだのでした。
しかし、そこから厄介なことになりました。
厄介な事とは、三郎介と千代の、夜の生活のことでありました。
すなわち、三郎介の男性が、役立たなくなってしまったのです。
褥で出来るあらゆる限りのことを、千代は尽くしてみましたが、だめでした。
皮肉なことに、この城での二人の夫婦の営みで、これほど熱が入ったことは、ありませんでした。
でも、だめでした。
千代は、内心焦りました。
三郎介と形だけでも出来ていれば、たとえ真の種の主が弾正であっても、云い訳が成り立つと、千代は高をくくっていました。
しかし、いつまでも三郎介がこの状態では、その云い訳が成り立たなくなります。
なのに、三郎介の男性は一向に回復しません。
千代はいろいろと手管を尽くすのですが、かえってそれが、ますます三郎介を萎えさせているようなのでした。
千代は、お手上げでした。
そんな折、もう一つ、面倒なことが起きました。
「あの」女中の一人が千代に云いました。「城の裏門に、男が一人、奥方様に会わせろと云って来ているそうなのですが」
「男?」
「権三と名乗っているとか。そう云えば奥方様にはわかると…」
「その者を、裏庭に通しなさい」千代は命じました。「誰の目にも触れぬように。そしてこのことは口外せぬように」
裏庭に連れて来られたのは、果たして権三でありました。
少し見ぬ間に、権三はずいぶん老け込んでいました。
美しく着飾った千代の姿に、権三は呆然と見入って、言葉も出ない様なのでした。
千代の心にいくばくかの憐れみと後ろめたさが起きましたが、それを押し隠して、千代は冷徹に云いました。
「ここへは来るなと云われているでしょう。どうしたのです。お金ですか。それとも他に何か欲しいのですか」
「久しぶりに会った父親に、なんてひどい言い草だ」
権三はめそめそ泣きだすのですが、千代は容赦せずさらに言葉を投げつけます。
「さあ、用事があるなら、さっさと云って、とっとと帰ってください。なんでも望み通りにしてあげますから」
「出るんだよ、また幽霊が」
「幽霊って、あの、おとっつぁんの気の迷いで見たって云う、あれかい?」
千代は溜息混じりの呆れ声で云いました。
権三はうなずきましたが、次いで慌てて首を横に振りました。
「いやいや、それだけじゃねえ。他にも…あいつらの他にも、出るんだよ」
「だから何が」千代はイライラして云います。「早くおっしゃいな」
「おまえのおっかさんが…俺の枕元に立つんだよ。で、云うんだ。あんた、あの子に本当の父親は誰か、教えてやっておくれ・・ってな」
千代は怪訝な顔になりました。
「一体、何のこと?」
「実はな…」権三は云うのでした。「今の今まで黙ってたんだが…おまえは、わしの実の子じゃあねえ」
「何だって?」
「おまえのおっかさんはな、実はどこか遠くで…どこだかはわしも良く分からねえんだが、宿屋の飯盛り女をやっていたんだ。その時に、どこぞやの身分の高えらしい侍とねんごろになって、身ごもった。しかし身ごもっちまっちゃ、ああいうのは商売にならねえから、その侍ってえのを頼ってここまで来たが…。しかし、一介の飯盛り女が頼るにゃあ、ちと相手の身分が高すぎた。その土地の、領主さまだったんだ、その侍ってえのは。そんでもって、知らぬ土地で途方に暮れているおまえのおっかさんを、俺がその、引き取って、女房にしたって…どうした、千代、顔色が悪いぜ」
「おとっつぁん」千代はすっかり蒼ざめた顔で、震え声で云いました。「その話、本当なのかい」
「わざわざつまらねえ嘘を付きに、ここへは来ねえよ」
「その話、誰かに話したのかい」
「おまえ以外の奴に話したって、しょうがねえよ」権三は半ば泣き顔で云うのでした。「毎晩毎晩、あいつがわしの枕元に立って、云うんだよ。他の奴の幽霊より、わしはそれがたまらなくてなあ。仕方なく、こうして来ちまったって訳だよ」
「今さら…」千代は吐き捨てるように云いました。「そんな話聞かされたって、しょうがないよ。…で、おとっつぁんはどうして欲しいんだい?」
「どうするって…わからねえよ」権三は云います。「ただ…幽霊になって出来る奴は、ちゃんと供養してやってねえからだって、聞いたことがある。だから、ちゃんと供養してやらねえとなあ…」
「おっかさんはちゃんと供養して埋めたじゃないか」
「でも前の家を壊してからは、ほったらかしだ。それで化けて出て来たのかもなあ。…しかし、だからってそれが何で、おまえに本当の父親のことを話せってことになるのかなあ」
権三は云いながら、首をひねりました。
「知らないよ」千代はまた苛立ってきました。「話は分かったよ。おっかさんの供養はどうにかするから、さあ、もう帰っておくれ。お金も物も、何不自由ない分だけ、送るから」
「ついでに、あの庭先に埋めたっきりの男の供養も、してやってくれ」権三は云いました。「あいつもいまだに出てきて、恨めしそうな顔してこっちを見るんだ。もっとも、こいつは何も云わねえから、おまえのおっかさんの幽霊よりマシなんだが」
「わかったよ」千代はうんざりしていました。「わかったから、さっさと帰っておくれ」
「しかし一郎重次様は、供養されてるんだろう? なんでわしんところにいまだ出て来るのかな」
「知らないよ」とうとう千代は声を荒げました。「とっととお帰り」
権三は千代の見幕にビクリと身体を震わせ、スゴスゴと庭先から立ち去って行きました。
寂しそうな後ろ姿でありました。
久しぶりに娘に会えて、ついうれしくてベラベラ喋ってしまったのです。
しかし千代はそんなことに頓着している余裕はありませんでした。
今の権三の話が、身体中に渦を巻いています。
話の内容の衝撃以上に、この話をうっかり権三が他の誰かに喋ったら…と云う恐怖が、千代の全身を、震わせているのでした。
しばらく千代は、震える己の身体を、己の腕で抱きしめておりました。
そのうち、震えが収まるとともに、ある決意を千代はしました。
千代は手を打って、人を呼びました。
女中の一人が参りました。
「堀源之丞を、ここへ」
千代は命じました。
「父上」
呼び止められて、堀源之丞はビクリとして、振り向きました。
たった今、千代から気の進まぬ命を受け、重い気分で城から下がろうとしていたところでした。
呼び止めた菊は、振り返った源之丞の表情があまりに暗い…それは陰惨と云って良いほどでした…ので、続く言葉を失ってしまいました。
菊の驚きの表情を見て、慌てて源之丞は、表情を改めました。
源之丞の表情は、菊にだけ見せる、優しく穏やかなものになりました。
「菊。元気そうで何よりだ」
源之丞は云いましたが、菊は心配げに訊くのでした。
「父上はお顔のいろが優れぬご様子です」
「いや…」源之丞は思わず顔を撫でまわしながら云いました。「ちと難しいお役目を、仰せつかっておるゆえな。お役目の中身は云えぬが、菊が心配することではない」
「そうですか」菊はニッコリ微笑みました。「どうぞ無理をなさらぬよう。あ、そうそう、これは、父上にだけ、こっそりお話しすることですから、誰にも云わないでくださいね」
楽しそうにそう云う菊に釣り込まれて、源之丞もついつい相好を崩してしまいます。
「どうした」
「松姫様のことでございます」菊は声を潜めました。「松姫様のお尻にも、あの痣があるんです。ほら、私たちのお尻にある、あの、狛犬のような形の痣が」
それを聞いた途端、源之丞の表情から、笑みが吹き飛びました。
源之丞は、思わず菊の肩をガシッとつかんでいました。
「アッ、父上、痛い」
「菊」源之丞の表情は、また厳しく陰惨なものに戻ってしまっていました。「そのこと、他の誰にも云うていないな」
「えっ、ええ…」菊はうろたえて答えます。「今初めて、人に話したのです…」
「このこと、決して他言無用ぞ」
そう厳しく云った源之丞は、菊の怯えた表情に気付き、ハッとして口調と表情を、また和らげました。
「いや、つまり、我々と同じ痣が松姫様にあるなどと人が知ったら、どういったいらぬ詮索をされぬとも限らない。おまえはまだ若いからわからぬかも知れぬが、人の世とはそういったものだ。特に城勤めをする身ならば、余計にそういったことに気を付けねば、我が堀家の命運に係わって来かねない。このことは、わしの胸にのみ納めておくゆえ、決して他言無用ぞ。重ねて申しておくぞ」
「はい…」
すっかりしょげ返ってそう返事する菊が気の毒ではありましたが、堀源之丞はそう云い置くと、その場を離れました。
同じ日の、夜も更けたころです。
月光が世界を青く照らしておりました。
支城の裏庭…権三が通されたのと同じところです…に忍ぶように控える人影がありました。
堀源之丞でした。
廊下を、足音を忍ばせ、供も連れずにやって来たのは千代でした。
その気配に源之丞は深く頭を下げました。
「面を上げよ」
千代に命じられて顔を上げた源之丞は、思わず目を見張りました。
千代は、薄絹の単衣を身にまとっただけの、軽装だったのです。
源之丞は思わず、また目を伏せてしまいました。
「源之丞」千代は厳しく云いました。「面を上げよと命じました。なぜ顔を伏せるのです」
「ハッ…」
源之丞は、渋々顔を上げました。
千代は、縁の上にしゃがみ込み、源之丞を上からのぞき込むような格好になっていました。
源之丞からは、千代の胸元がはっきりと見えてしまいました。
「で、首尾はいかがでした」
千代は云いました。