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9.サンザシ繁れるあわいにて

 ガイが回復するまでには多くの時間を必要とした。

 一番ひどいときには左足が一本まるごと腫れあがり、激しい痛みのために眠るのも難しかった。

 幸いというべきか、腫れと痛み以外の症状は噛まれた直後に熱を出した程度に収まり、命に関わるような事態は避けられた。

 しかし、腫れと痛みはなかなか治まらず、再び自由に歩きまわれるようになるまでにはずいぶん長く時間がかかった。

 外に出かけるのはおろか、家の中でのちょっとした移動にも困難を伴う生活は、活発な少年にとってつらいものだった。

 そんなガイの心の慰めとなったのは、読書だった。

 テーヌと会話する手段を求めて書物を手にした頃から、ガイは読書の楽しみを知り始めていた。病床にあって行動に制限を受けている今、書物の向こうに広がる世界は、ガイにとって大きな意味を持つものとなっていた。



 もうひとつ、ガイが求めたことがある。氏族の言葉を知ることだ。

 言葉が通じ合うということが、どれほど大きな意味を持つのかを、ガイは身をもって知るようになっていた。

 以前は氏族の言葉を知りたがっている理由を明かす勇気が持てなかった。だがテーヌとの一件が広く知れ渡った今なら、こみ入った説明をせずともその気持ちを理解し、受け入れてもらえるだろう。

 ガイはテーヌと直接に言葉を交わしたかった。

 クサリヘビに噛まれたあのとき、軍団兵リウィウスを介して、ガイはテーヌに自分の言葉を伝えた。

 氏族の言葉を知り、テーヌと直接会話を交わすことのできるリウィウスが羨ましくてならなかった。

 言葉と言葉でテーヌとやりとりをする。自分で思っていた以上にそのことを望んでいたのだと、ガイはあのときはっきりと知った。


 どうすれば氏族の言葉を知ることができるのか。思い悩んだ末、ガイはルキウスに相談した。

「旦那様なら氏族の言葉をご存知ですよ」

 そうルキウスは答えた。

 軍人だったころ、ガイの父は氏族の言葉を学ぶ機会があった――いや、氏族と戦い、交渉を持つために学ばねばならなかったのだ。

 父に教えを請うのはためらいがあった。何のために、と問われるのが怖くて恥ずかしかったし、ふたりきりで向き合わなければならないかと思うとどうにも気が重かった。

 そんなガイのために、ルキウスが父との間に立ってくれた。

「私も習いたいのですよ」

 そう言って、ルキウスとガイのふたりが、父ガイウス・ラエトリウスから氏族の言葉を習えるよう、手はずを整えてくれたのだ。

 たしかに農園の経営に深く携わるルキウスにとって、氏族の言葉を覚えるのは意味のないことではない。だが、何よりもガイのために、ルキウスはその申し出をしてくれたに違いない。

 こうしてガイとルキウスは、その父とひざを交え、氏族の言葉を学ぶようになったのだった。



 あの日以来、ガイはテーヌとは顔を合わせてはいない。

 彼女が無事に氏族の領域に戻っていったことは、あの後すぐに人づてに聞いた。

 だが、ガイの側の安否は、彼女に伝えられないままだった。

 よほどのことがない限り、氏族の民は帝国と接触を持とうとしない。

 彼女が見舞いに訪れるようなことは望めないし、誰かに伝言を頼むのも難しい。

 もどかしい思いを抱えつつ、ガイはただ自分の体が回復するのを待つばかりだった。



 ガイを診察するために、軍医サルスティウスがしばしばガイの家を訪れていた。

 交戦の絶えない激戦の地とは異なり、この『白き島』の辺境の駐屯地では、軍医はさほど忙しくはない。近隣の民家に病人が出れば、その診察に軍医が赴くのは珍しいことではなかった。最初に治療を施したことに加え、ガイの父と旧知の仲であったこともあり、サルスティウスはガイの治療に最後まで携わるつもりであるらしかった。

 サルスティウスはガイの診察をするだけでなく、父ガイウス・ラエトリウスと談笑を交わしていくのが常だった。最近の氏族の動向や今年の収穫の予測、本国の情勢に関する噂話など、サルスティウスのもたらす情報は多岐に渡った。

 そして、サルスティウスがもたらす噂話のひとつとして、ガイは『その話』を耳にしたのだった。



 ガイはあわいの柵の横に立ち、柵の上に覆いかぶさるように繁るサンザシの木を見上げていた。

 クサリヘビに噛まれたあの日から、すでに三ヶ月以上経っている。

 昨日、診察に訪れたサルスティウスから、制限なく出歩いてもいいという許可がようやくおりた。

 すでに秋も深まり、肌寒さを覚えるようになっていた。サンザシの枝には真っ赤に熟した小さな果実がびっしりと実り、金色に変わりかけた葉の間で鮮やかに輝いている。

 あの頃雛だったコマドリは、すでに姿を消していた。無事に巣立っていったのか、それとも外敵の餌食になったのか。今となっては知るすべもないが、できれば無事であって欲しいとガイは願った。

 テーヌの姿はなかった。会えない可能性はもちろん考えていた。それでも、そこにテーヌがいないことに、ガイは落胆していた。

 彼女に会いたかった。会って伝えたいことがあった。

 今ならガイは、言葉を使って、テーヌとやりとりができる。

 テーヌに元気な姿を見せたい。自分の口で、彼女への感謝を伝えたい。

 回復まで長い時間を必要としたが、今では普通に歩けるようになっている。まだ少し痺れを感じるときもあるが、そのうち問題なくなるだろうと軍医サルスティウスは言っている。

 クサリヘビの毒を受けても即座に死ぬことはない。だが手当てが遅れて全身に毒が回ってしまうと、死んでしまうこともある。死なないまでも、臓器が毒に冒されて長く苦しむことになったり、噛まれた箇所から壊死がひろがり切り落とすしかなくなる場合もあるという。ガイはそのどちらからも免れた。テーヌが助けを呼びに行ってくれたおかげで、手遅れにならずにすんだのだ。


(でも、もうテーヌには会えないかもしれない……)


 サルスティウスが言っていた。

 春になれば、いよいよこのあたりでも防壁の工事がはじまるのだと。

 この柵は、あくまで仮のものとして置かれている。いずれここには頑丈な石壁が築かれ、氏族の土地と帝国の土地は完全に分けられる。それは以前から決まっていたことだ。

 もうすぐ冬が訪れる。冬になれば外出もままならないだろう。

 そして春には工事が始まる。ふたつの世界は分かたれ、壁によって遮られるのだ。

 だから、できることなら今、テーヌに会いたかった。


 ただ、サルスティウスはこうも言った。

「あまり確かな話ではないのだが、いよいよ壁ができると知って、実は氏族の側から接触を求める動きが出ているともいう。まったく縁を切ってしまうのではなく、範囲を限って商売をしていきたいとか、そういったことらしい。まあどうなることか、今のところはわからないが」

 そうなのだろうか。たとえ壁に遮られても、氏族と帝国の間にはかすかながらも繋がりができていくのだろうか。

 だが、たとえそうだとしても、この場所に壁ができることには変わりない。壁が完成すれば互いの領域を見渡すことはできなくなるし、柵ごしに挨拶を交わすこともなくなるだろう。


 ガイは氏族の領域に視線を投げかける。なだらかな丘が連なり、枯れかけた丈の低い草が風になびいている。

 そのとき、はるか遠くに、ガイは白い影を見つけた。

 胸の高鳴りを抑え、ガイはその影に目を凝らす。

 影は次第にこちらへと近づいてきている。

 そしてガイははっきりと見分けた。

 頭上にぴんと立つ一対の獣の耳。鮮やかな緋色の髪。


「テーヌ!」


 ガイはその名を呼び、大きく手を振った。





 『白き島』のガイウスは十六歳で帝国本土に渡り、医師に弟子入りした。そして師のもとで学ぶこと七年、独り立ちした後は軍医となって従軍し、北方へと赴いた。

 長い年月を軍医として異郷の地で過ごした後、ガイウスは軍を離れて故郷に戻る。そしてルキウスに委ねていた実家に帰り、そこで残る年月を過ごした。

 彼はまた、文筆家としても知られた。任務の傍らに現地の地理や風俗を記録し、地誌としてまとめ上げ、世に送り出したのである。

 その代表作とされているのは、軍医として暮らした北方の様子を伝える『北方地誌』と、故郷である『白き島』の歴史や風俗をまとめた『白き島の物語』である。

 いずれの著作でも、その土地の動植物の生態に関するいきいきとした記述が見られるとともに、帝国が征服する以前から現地に住んでいた人々の言語や風習が詳細に記されている点が、きわめて特徴的である。

 また、ガイウスの記した『白き島の物語』には、狐の性を持つヴルペス種の獣人に関する記述が多く見られる。このことより、ガイウスは何らかの形で『白き島』の獣人の氏族と接触を保ち続けていたのではないかと推測されている。

 一説には、彼は赤毛のヴルペス種の獣人と生涯をともにしたとも言われている。ただし、この獣人の名は今日には伝わっておらず、その実在を示す史料も発見されていない。

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