8.コマドリの歌
「ガイウス・ラエトリウスの息子ガイウス、君に訊ねたいことがある」
司令官マルクス・ドミティウスの声は、低く静かでありながら、朗々と響いた。
深いしわの刻まれた浅黒い肌は、野外で多くのときを過ごしてきたことを、逆らいがたい力を持つ声は、この人物が命令を下すのに慣れた熟練の指揮官であることを物語っている。
ガイが目覚めたという知らせを受けた駐屯地の司令官は、すぐにガイと話をすることを望んだ。
ガイの状態を考慮して、マルクス・ドミティウスがガイの寝かされている部屋に足を運び、聞き取りを行うこととなった。
ガイの両親とルキウスは同室を許され、この場に立ち会っている。
「氏族の少女からあらかた話は聞き取ってある。だが今度は、君の側から見た話を聞きたい。なぜ、あの少女は君の名前を知っていた。なぜ、わざわざ柵を越え、君を助けようとした。彼女自身はほとんど帝国標準語を解さないにもかかわらず、だ」
「テーヌのことは、以前から柵のそばで見かけていました」
ガイは司令官に説明した。
初めて彼女を見かけたのは、今からふた月ほど前だったこと。
それからというもの、柵のそばでときどき彼女を見かけるようになったこと。見かけるうちに、互いの存在を意識するようになっていったこと。
柵越しに関わりを持とうとしたが、言葉がわからず難渋したこと。
ガイの持ってきたパンを分け合ったことをきっかけに、互いの名前を知るようになったこと。名前のほかにもわずかながら知る言葉ができたものの、会話らしい会話を交わすまでには至らなかったこと。
毒蛇に噛まれたガイを助けようとしたのは、見知った者が危険な状態にあるのを見過ごすことができなかったから。柵を越えたのは、そうしなければガイを助けられなかったから。
ときに考え込みながら訥々と話すガイを、マルクス・ドミティウスは冷静な瞳でじっと見つめていた。
「だからテーヌは、僕を助けるためだけに、柵を越えたんです。それ以前には一度もそんなことはしていない。少なくとも僕の知る限りでは」
「ふむ……」
マルクス・ドミティウスはきれいにひげをそり落とした顎に左手を押しあて、考え込むような表情を見せた。
「君の証言は、氏族の少女――そう、テーヌと言ったかな――彼女のものとほぼ一致している。偽りやごまかしはないようだ。だが、わからないことがある。そもそもなぜ君は、境界の柵のそばで遊んでいたのだ。境界の領域で氏族の者を見かけたことを、誰か大人に話そうとはしなかったのだ」
「それは……」
静かに、だが逃げる余地を残さずに問いかけてくる司令官を前にして、ガイは言葉を詰まらせた。
司令官の疑問は当然のものだ。ガイ自身が彼の立場にあったとしたら、やはり同じことを問うだろう。
そしてそれに答えるのはどうにも難しい。
どう説明したら、わかってもらえるのだろう。
あわいに枝を伸ばすサンザシの繁みが、どれほど心ひきつけてやまないかを。
澄んだ空気の中に響きわたる、コマドリの歌の美しさを。
繁みに隠された巣で親を呼ぶ、雛の声のいとしさを。
地を覆うスミレのかぐわしさを。枝に咲きほころぶ白い花のあまやかさを。
「サンザシの繁みに、コマドリが巣を作っていました。雛が孵ったその日、僕は初めてテーヌを見ました。テーヌはコマドリを見つめていました。そして僕は思ったんです。あの子は僕と同じなんだと。同じように、コマドリやハリネズミ、そういったちいさな生き物を見たくて、あの場所に来ているのだと」
ああだめだ。こんな馬鹿みたいな説明でわかってもらえるはずがない。
「柵は帝国の土地と氏族の土地との境目です。子供が遊び場にしていい場所じゃない。わかってなかったわけじゃありません。でも、僕にとっては、そしてたぶんテーヌにとっても、あそこはコマドリの住むサンザシの繁みがある場所で、だから……」
そこで言葉が尽きてしまった。
ガイの母が、不安そうな表情を浮かべて寝台の横に歩み寄る。
「マルクス・ドミティウス様、このあたりにしていただくわけにはいかないでしょうか。この子は今、普通の状態ではないのです。毒の抜けきらない体で熱も高く、これ以上無理をさせるのは……」
「母さん、いいよ」
「でも……」
「きちんと話をしないと。テーヌを早く家に帰さないと」
ガイはマルクス・ドミティウスのほうに向き直り、言葉を続けた。
「最初は疑うこともありました。氏族の間でなにかたくらみが行われていて、それでテーヌは柵のまわりを探っているのではないかと。でも、しばらく見ているうちにわかったんです。テーヌはただ、ちいさな生き物を見に来ているだけでした。誰にも話さなかったのは、それは……」
ガイは言いよどんだ。
あのときの自分の心の動きは、今、自分で思い返してみても理屈に合わない。司令官は到底納得しないだろう。だが、それらしく聞こえる言い訳を並べてごまかせるとも思えない。
「最初、テーヌは野に生きる動物のように思えました。悪だくみを抱えた人間じゃなくて、珍しい鳥とか獣みたいな、きれいで、簡単には捕えることのできない、そんなもののように。だから誰かに話す必要なんてない、そう思ったんです。いえ、思いたかったんです。でもそれは違ってました。しばらくして気づいたんです。テーヌは動物なんかじゃない、人間なのだと。僕と同じ気持ちを抱き、あの場所に来ることを望んでいる、そんな仲間なのだと……すみません」
何について謝ったのか、ガイは自分でもよくわからなかった。
司令官マルクス・ドミティウスは読み取りがたい表情でじっと静かにガイを見つめていたが、ふと口を開いて言った。
「君は大変正直なのだね」
意味をとらえあぐね、ガイウスはもの問いたげな視線をマルクス・ドミティウスに向けた。
「あの……?」
「君の言い分は、あまり筋が通っていないように聞こえる。だが、心情としては充分わかるものでもある。それに、あの氏族の娘も同じようなことを言っていた」
「テーヌはなんて?」
「しばらく様子をうかがい続けているうちにわかったのだと。この帝国の少年は敵ではない。自分と同じ気持ちを抱く、友達になれる相手なのだと」
友達。
テーヌがその言葉を使ったと伝え聞いて、ガイは身のうちに震えが走った。
そう、ガイも同じだった。野の獣にも似た獣人の少女は、友達になれる相手かもしれない。そう感じたからこそ、ガイはテーヌと意思を通わせたいと願ったのだ。
司令官マルクス・ドミティウスは淡々と言葉を続ける。
「君は、私が不当に厳しいと考えているのではないか? 害意を抱いているとは思えない氏族の少女を拘束して厳しく問いただすなど、本当に必要なことなのだろうか、そう思っているのではないか。だが、この地に住む帝国の民を守らねばならぬ者として、これは必要なことなのだ。単に法でそう定められているからというだけではなく」
ガイは司令官の顔を見上げた。
たしかにそう思っていた。
法によって定められていることとは言え、軍団兵たちのふるまいはテーヌに対して厳しすぎる。
あのとき、テーヌはまっすぐに駐屯地に向かっていたはずだ。こっそり悪事を働くことを望むならば、軍の兵士たちに見つからないように行動するのではないか。わざわざ兵士のいる場所に正面から入ろうとする者に後ろ暗い動機があるはずもない。どうしてそう考えてはくれないのだろう。
「今より二十年ちかく前の話だ。辺境のとある土地で、蛮族の子供が帝国の領内に入り込んだことがあった。子供のすることだからと安易に見逃した結果、その子供の手引きによって、武装した蛮族が帝国の村に夜襲をかけた。結果、多くの者が命を落とした」
マルクス・ドミティウスは謹厳な表情を崩さず、淡々と語る。その声は静かでありながらどこか張り詰め、苦しげですらあった。
「そういった悲劇を起こさぬよう、境界で何か異変があれば、必ずしっかりと取調べなくてはならないのだ。たとえ子供であっても容赦するわけにはいかない。あのとき、私は身をもってそのことを知った」
はっとして、ガイは司令官の顔を見直す。
――身をもってそのことを知った。
では、これはマルクス・ドミティウスが直接に体験した出来事だったのか。
問いかけるような少年のまなざしをマルクス・ドミティウスは正面から受け止め、まっすぐにガイを見返した。
「だが、その土地とここでは事情が異なる。このあたりの氏族と帝国は、かなり穏健な関係を保ってきた。約定を交わしてからの三年間、もめごとらしきものは何も起こっていない。せっかく今まで悪くない状態を保ってきたのだ。今ここで、氏族の少女に酷な扱いをして、氏族の信頼を失うのは得策ではない。それに……」
マルクス・ドミティウスは息を継ぎ、軽く瞑目する。
やがて目を開くと、ゆっくりと言葉を続けた。その声からは先ほどまでの厳しく硬い調子は消え去っていた。
「私もかつては少年だった。野に生きるものを追い、日暮れまで遊び呆けたことがある。輝く羽を持つ蝶に目を奪われ、響きわたるコマドリの歌に耳を傾けたことがある。だから、君の言わんとすることも充分理解できるのだよ。あの少女は氏族のもとに返そう。帝国に属する者の命を救ってくれたことに対して、丁重に礼を述べた上で」