7.掟と真実
家に着いたとき、ガイの容態はさらに悪化していた。
むりやり歩こうとしたのがよくなかったのだろうか。足はすでにひざの下あたりまで腫れあがっていたし、熱もだんだん高くなっている。
軍医サルスティウスの指示のもと、ガイはすぐに寝台に横たえられた。軍医はガイの足を湯で洗い清めると、もう一度丁寧に毒の吸い出しを行った。
家の者たちは落ちつかない様子で軍医の措置を見守っていた。普段は気丈な態度を崩さない母が動揺を隠せないでいるのが、ガイにもはっきりと感じられた。
サルスティウスの指示で用意された薬湯を飲むと少し気分が落ち着き、それと同時に眠気が押し寄せてくる。
ガイはとろとろと眠りに落ちていった。
目を覚ました時、最初に目に入ったのは、心配そうに見下ろしているルキウスの顔だった。
「目が覚めたんですね」
そう言って、ルキウスは水の入ったコップを差し出した。
「しっかり水分を取るようにと、サルスティウス先生がおっしゃっていました。気分はどうですか。吐き気や頭痛はありませんか」
「少し……でも、たいしたことはないよ」
「目がかすんだり、ものが重なって見えたりとかは」
「それは大丈夫……かな」
そう答えると、ルキウスは明らかにほっとしたような表情を浮かべた。
ガイは差し出されたコップを受け取って水を飲む。
発熱のせいか、ずいぶんと喉が渇いていた。あっという間に水を飲み干して、手にしたコップをルキウスに返す。ルキウスは受け取ったコップを寝台の横にある脇机の上に置くと、ガイウスに問いかけてきた。
「少しでも変なことがあったら、すぐに言ってください」
「母さんは……」
そばに母の姿がないのが意外だった。眠りに落ちる前に見た感じでは、ずっと付き添っていてもおかしくないような雰囲気だったのに。
「お客人がお見えになったのです。先ほどまでは坊ちゃんのそばにいらっしゃったのですが」
「お客……?」
「はい。マルクス・ドミティウス様が」
聞き覚えのある名前だった。
「駐屯地の司令官だよね?」
そう尋ねるガイに、ルキウスはうなずき返した。
「坊ちゃんが目を覚ましたら、聞きたいことがあるとおっしゃって」
駐屯地の責任者が自分を訪ねてきた。思い当たることはひとつしかない。
テーヌのことだ。それ以外には考えられない。
「僕、どれくらい寝てた?」
にわかに不安になって、ガイは訊ねる。
眠っていたせいで、時間の感覚がなくなっている。
窓のない室内は昼でも暗い。だから今が何時なのか、まったく見当がつかない。
「お戻りになられたのが昼下がりで……そろそろ日没でしょうか」
「そっか」
ではまださほど時間は経っていないのだ。ガイはほっと胸をなでおろす。
「お話し、しないと」
テーヌはまだ駐屯地に拘束されているのではないか。だとすれば、一刻も早く彼女が家に帰れるようにしなくては。
「しかし、サルスティウス先生は、少なくとも三日程度は絶対に安静にしているようにと」
「大丈夫。第一、目が覚めたら聞きたいことがあるって、そう言われてるんだよね。急がなくちゃ」
「あなたの身に万一のことがあってはみんなが悲しみます。それに、坊ちゃんは旦那様の後を継ぎ、この家を守っていくべき方なのですから」
その言葉が、なぜかひどく癇にさわった。
――胸の底に、澱のようにずっと沈み込んでいたものがある。
今までは吐き出すことなくなんとかやり過ごしてきた。でも、もう限界だ。
「……違う」
衝動に駆られて、思わずガイは口走っていた。
「父さんにはもうひとり息子がいる。僕がいなくても、ううん、僕なんかよりもずっと上手に、その人ならこの家を守っていける。そうでしょう?」
「坊ちゃん?」
「帝国の掟――そうサルスティウス先生は言ってたけど、でもそれって何のためにあるの? 自分の身を省みずに命を助けてくれた女の子をまるで重罪人みたいに捕まえる。それだけじゃない。ルキウス――いや、兄さん」
ぎょっとしたような表情を浮かべ、ルキウスは息を呑む。
「あなたは父さんの最初に生まれた息子で、しかも、農園を立派に切り盛りできる人だ。なのに帝国の法に従えば、あなたは父さんの跡継ぎにはなれない。でも、そんなのおかしいよ」
「知って……いらしたんですか」
かすれた声で、独り言のようにルキウスはつぶやいた。
「うん」
気づいたのは最近だった。
密やかではあるが、噂する声があった。
ガイウス・ラエトリウスが北方から連れてきた解放奴隷は、彼の私生児であるのだと。
噂を真実として認めるのは、最初はひどく難しいことのように思われた。だが目に映る様々な事柄をつなぎ合わせると、真実であると認めないわけにはいかなかった。
父は感情をあらわにする人ではない。だが、あからさまに見せないようにはしているが、ルキウスに対して、他の使用人とは一線を画した信頼と期待を抱いている。
そして母だ。決してルキウスと仲が悪いわけではない。だが、ある種の遠慮というか、距離感のようなものが、母とルキウスの間にはいつも存在している。
実のところ、ルキウスを兄と考えるのは不快ではなかった。幼いころからよく知り、それこそ兄のように慕っていた相手なのだ。むしろはっきり兄と呼びたい気持ちすらあった。
だが同時に、そこには苦く飲み込みがたく、重苦しくてひたすらにやるせない何かがつきまとってもいた。
「坊ちゃん……私は」
痛みを押し隠したような声で、ルキウスはなにかを言いかける。だが、途中で口を閉ざし、続く言葉を飲み込んだ。
「うん、ごめん。変なことを言って。でも、そうなんでしょう?」
「……ええ」
ルキウスが肯定したことに、ガイはほっと胸をなでおろす。
真実を確認しようとすれば、ルキウスを、いや周囲の人間すべてを困らせることになるだろう。そのことがわかっていたから、今まではっきりさせることができずにいた。
感情にまかせて、つい口走ってしまったことは否定できない。だが、不思議と後悔はなかった。
「……司令官閣下と、話をしなくちゃ」
身を起こし、寝台から降りようとするガイを、ルキウスは押しとどめて言った。
「起きないで――私がお知らせしてきますから」
「でも」
「動いていいような状態じゃないんです。本当は起きあがって話すべきでもない。でも、今、話さなくてはならないのでしょう?」
「うん。テーヌを、早く家に帰してあげないと」
「坊ちゃんを助けてくれた氏族の獣人ですね」
「うん」
「坊ちゃん――ガイウス」
ふわり、と、ガイの背に、ルキウスの腕がまわされる。
「無事で、よかった。本当によかった」
声を詰まらせながら、ルキウスがささやくように言う。
ルキウスが名前でガイを呼ぶ。軽くではあるが、ガイを抱きしめている。
それはもう何年もなかったことだった。
まだ幼い子供だったころは、ルキウスがガイに触れてくるのは珍しいことではなかった。
走り回る幼いガイを力ずくで捕まえて、危険ないたずらを防ごうとしたことがあった。
肩車をしてもらい、夕暮れの空に一緒に一番星を探したことがあった。
だが、ガイが成長するにつれて、ルキウスは一歩引いた態度を取るようになっていった。
決して冷淡ではない。ルキウスはいつも細やかに気を配り、温かい笑顔を保っている。
ただ、昔のような密接さは影を潜め、主人の跡継ぎと使用人という立場を崩すことなくガイに接している。
――もしかしたら、ルキウスは、本当は自分を疎んじているのではないか。
ルキウスもまた父の息子なのだ。なのに、ガイには与えられるのに、ルキウスには与えらないものがある。そのことにガイはなんともいえない後ろめたさを感じていた。
だからこそ不安だった。実はルキウスは不満を抱き、ガイを妬んでいるのではないか。にこやかで礼儀正しいのに、距離を取って近づいてこないのは、そんな気持ちを隠すためなのではないか。
だが今、ルキウスはガイを抱きしめている。幼いころのように名前で呼んでくれている。
この人は本当に自分を心配してくれていたのだ。
礼儀正しい態度の下に隠されていたのは、冷やかな憎しみではなく、温かな情愛であったのだ。
むろん、明るく温かい想いだけがその心を占めているとは限らない。わずらわしさや疎ましさ、時にはもっと暗い想いが混じることもあるだろう。
ガイはもはや幼子ではない。人の心の彩りがひとつの色で塗り固められているわけではないことを、すでに知り始めている。
それでも今、ガイはルキウスの真情を垣間見たと思った。そして、安堵と温もりがじんわりと胸の裡に広がっていくのを感じていた。
抱擁はほんの数秒だった。
ルキウスはすっと身を離すと、いつもどおりの態度で言った。
「……では、私はお客人のところへ参ります。坊ちゃんが目を覚まされたと、伝えてきましょう」