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6.帝国の掟

 結局、ガイはテーヌを追うことをあきらめた。

 左足の状態はひどくなるばかりだった。

 腫れている範囲はさらに広がっていたし、足の甲に穿たれた牙の跡からはだらだらと血がにじみ出していて、止まる気配がない。


 もしこのままテーヌが戻らなかったら。誰にも見つけられないまま放っておかれたら。


 テーヌはたぶん助け手を求めて走り去ったのだろう。だが実際問題として、彼女に助けを呼ぶことができるだろうか。

 駐屯地の兵士から見れば、彼女は不審な存在でしかない。

 言葉のわからない獣人。約定に反して帝国の領内に侵入した氏族の民。

 そんな者の求めを理解し、受け入れてくれるものだろうか。


 そもそも、テーヌは本当に助け手を求めて去っていったのか。

 ただガイを置き去りにしただけなのではないのか。


 いいや、そんなはずはない。

 テーヌは柵を越えてこちら側に来てくれた。帝国の領内に留まったまま、西を目指して走っていった。

 彼女を疑ってどうする。どのみち、まともに歩くこともままならないのだ。

 テーヌを信じたい。だが、テーヌでは力及ばないかもしれない。それもまた、ありうることだ。

 自分を守り、そしてテーヌを守るために、何ができるだろう。どうしたらいいのだろう。


 考えた末に、ガイは自分でも駐屯地に向かうことにした。

 このあたりは木立が少なく、草丈も低い。視界はひらけている。注意さえ払っていれば、向こうから来る人影を見逃すことはないはずだ。行き違いを恐れて動かないでいるのは、むしろ悪手かもしれない。

 ガイはゆっくりと歩き出す。のろのろと、時々立ち止まって休みを取りながら、それでも前に向かい続ける。

 左足の腫れはすでにふくらはぎまで広がっていた。心なしか体全体が熱っぽいような気がする。

 どれくらい前進できたのだろうか。

 痛みに耐えながら進むうちに、時間の感覚も、距離の感覚も、次第に定かではなくなってきていた。



 なにか、人の声のようなものが聞こえた気がして、ガイウスは頭を上げ、前方を見やる。

 少し離れたところに人影が見えた。

 三人、それとも四人か。

 人影は次第に近づいてくる。

 軍装に身を固めた兵士がふたりに、長いトーガを翻しながら走る男性。そして、小柄な獣人の少女。


(テーヌ!)


 彼女はやはり帝国の駐屯地に助けを求めたのだ。

 そして駐屯地の人々は彼女の意図を察し、こうして駆けつけてくれた。

 ガイは安堵の息をもらし、前方から近づいてくる人影に向かって、大きく手を振った。


「ガイ坊!」

 先頭を行く兵士が大声で叫びながらガイのそばに駆け寄ってくる。

 むき出しの腕は灰色の毛で薄く覆われ、背後ではやはり灰色をした太い尾が踊るように揺れている。

「アルディウス!」

 兜の下には、ガイのよく知っている兵士の顔があった。獣人の軍団兵アルディウスは快活で子ども好きな男で、今までにもずいぶんと世話になっている。

「大丈夫か。クサリヘビに噛まれたと聞いたが」

 心配そうに問いかけるアルディウスに、ガイはただ無言でうなずく。 

「怖かったろう。けどもう安心だ。軍医のサルスティウス先生も来てくれているから」

 そう言って、アルディウスは後ろを振り向き、トーガをまとった壮年の男性を指し示した。


「君がガイウスかな?」

 トーガ姿の男性――軍医サルスティウスはガイの横まで来ると、そう訊ねた。

 ガイがうなずくのを見て、軍医は言葉を続ける。

「腰をおろして、噛まれたほうの足を伸ばしなさい。とりあえずの処置をしておきたいから」

 指示に従い、ガイはその場に腰を下ろす。

 サルスティウスはガイのサンダルを脱がせて傷口をたしかめると、顔をしかめながら言った。

「だいぶ無茶をしたようだね……できれば安静にしていて欲しかったのだが。ああ、リウィウス君、私の道具と水筒を」

 もう一人の軍団兵から荷物を受け取ると、軍医はガイのひざの下あたりを軽く布で縛った。そして水をしみ込ませた布で噛み跡を拭うと、おもむろに口をつけて吸い始めた。

 毒を吸い出しては水筒の水で口をすすぐことを何度か繰り返した後、患部に清潔な布を当て、手早く包帯を巻いていく。

 作業を続けながら、サルスティウスはガイに訊ねた。

「君は百人隊長だったガイウス・ラエトリウス殿のご子息だね? ガイウス殿の家はたしかこの近くだったと思うが」

「父を知っているんですか?」

「あの方が退役なさるすこし前に、私はこの島に赴任した。一緒に働いていたことがあったのだよ」


 驚いたような表情で、ガイはサルスティウスの顔を見上げた。

 父がかつて軍人であったことは知っていた。いずれは自分がその跡を継ぐつもりでもある。だが、軍人だったころの父とともに働いていたと聞かされるのは、なにか不思議な感じがした。

 ガイの中では、父は寡黙でいささか厳格な農場主として存在していた。房のついた百人隊長の兜をかぶり、兵を指揮する父の姿を想像するのは、少しばかり難しかった。


「ともかく、君の家に行こう。そこで手当の続きを行いたい。アルディウス、君はガイウスを背負って私と一緒に彼の家へ。そしてリウィウス君、君はその氏族の少女を駐屯地へ」

「待ってください。テーヌはそのまま返してあげてください」

「テーヌ?」

「その子の名前です。テーヌは僕を助けようとした。それだけです。なにも悪いことなんかしていない。だから……」

「だがね、ガイウス。彼女は帝国と氏族の約定を破り、帝国の領内に勝手に入り込んできた。そのまま返すわけにはいかない」

「でも……」

「帝国は法によって治められている。だからこそ、異なる国の、異なる習慣を持つ人々であっても、帝国の民として扱うことができるのだ。自分の都合だけで勝手に法を曲げてはならない。それが帝国の掟なのだ」

 静かな、だがきっぱりとした調子でサルスティウスは言った。

「彼女に悪意があったわけではないことは承知している。無慈悲な処置がなされることはないはずだ。だが、いったんは駐屯地へ連れ帰り、司令官閣下の裁定を仰がねばならない。彼女が帝国領内に入り込んだことをすでに司令官はご存じだ。毒蛇に噛まれた少年のところまで私たちを案内し、その後で領域を侵したことに対する裁きを受ける。そう約束した上で、彼女はここに来たのだから」

「だったら僕も、駐屯地へ連れて行ってください」

 ガイはたたみかけるように反駁した。

「テーヌは帝国の言葉がわかりません。テーヌのふるまいを説明できるのは、その場に居合わせた僕だけだ」

 サルスティウスは首を振り、冷静な声で返した。

「駐屯地には氏族の言葉がわかる者もいる。たとえば、そこのリウィウス君がそうだ。彼女は自分の口で自分の行動を説明することができるのだよ。君がクサリヘビに噛まれたことを我々が知ることができたのはなぜだと思う? 彼女のしてくれたことを無にしたくないと思うのならば、君は養生に専念すべきだ。医者として言わせてほしい。君は、今は自分の体のことだけを考えなさい」

 口ごたえできる余地はなかった。ガイは押し黙って頭をうなだれた。



 軍医サルスティウスは使っていた道具を手早くしまい込みながら、もうひとりの軍団兵リウィウスと事後の処理を確認していた。獣人の軍団兵アルディウスはガイの前にしゃがみこみ、おぶさるように促した。ガイはアルディウスの求めに従おうとしたが、ふと振り向いて呼びかけた。

「テーヌ!」

 軍団兵リウィウスの横に身をこわばらせて立っていたテーヌは、はっとしてガイに視線を向けた。

「ありがとう。おかげで助かった」

 テーヌは真剣な顔で、ただガイの顔を見つめている。

 横合いからリウィウスがテーヌの耳元に何事かを囁きかける。その言葉にテーヌは表情をふと緩め、リウィウスに言葉を返す。

「君が無事でよかった、そう言っています」

 軍団兵リウィウスは、ガイのほうに向きなおり、そう告げた。

「さっき君が軍医殿に言った言葉、道々この子に話しておきましょう。君が彼女を案じ、どんな申し出をしたかということは、きちんと伝えておくから」


 目上の大人に対する時のように丁寧な調子で話しかけてくるリウィウスを、ガイはあらためて見つめた。

 軍医サルスティウスと比べて、背は頭ひとつ分高い。兜の下の瞳は水のような薄い青。日に焼けた肌はかなり赤みを帯びている。おそらくもとは色白だったのではないか。

 生粋の帝国人ではないだろう。属州の――この島に昔から住んでいた人々か、もしくは北方の蛮族と呼ばれる人々の血を引いているに違いない。


(この人ならば、テーヌの言葉を曲げずに伝えてくれるだろう)


 根拠はない。たとえ属州出身者だからといって、まつろわぬ氏族の少女の肩を持ってくれるとは限らない。だがガイは、リウィウスは信頼に値すると感じていた。

「リウィウスさん、どうか、お願いします」

 リウィウスに頭を下げて、ガイはもう一度テーヌに向きなおる。


「ありがとう、テーヌ。また後で」


 さよなら、とは言いたくなかった。

 もう一度、必ずテーヌに会う。

 周りにも、そして自分自身にも宣言するために、ガイはあえてその言葉を選び取ったのだった。


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