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5.クサリヘビ

 ガイと獣人の少女テーヌの交流は、ゆるやかに続いていた。


 あれ以来、互いの姿を認めると、ふたりは軽く会釈するようになった。

 コマドリの姿を見つければ指差し、その居場所を教えあうようになった。

 食べ物を持ってきて、ふたりで分けあうこともある。

 ガイが持ってくる小麦のパンや蜂蜜入りの焼き菓子は、ことのほかテーヌを喜ばせた。

 一方、テーヌが持ってきた食べ物には、ガイの口にはあまり合わないものも混じっていた。

 りんごを薄切りにして干したものはおいしかったが、押し固められた雑穀でできた糧食らしきものは、ぱさぱさとしてのどにつまり、お世辞にもおいしいとは言いがたかった。

 それでも、そういった彼女の心遣いを、ガイは嬉しいと感じていた。

 彼女の持ってくる未知の食べ物は、見知らぬ世界がすぐそばに存在している証なのだ。

 ルキウスから借りた本に読みふけった時と同じように、テーヌのくれた食べ物――いや、テーヌの存在そのものが、それとは気づかぬうちに、ガイをより広い世界へと導いていた。


 互いの名を知ったふたりではあったが、それ以上の会話はほとんど交わしていない。ほぼ身振り手振りのみで意思を伝え合っている。

 もどかしくはある。言葉を交わし、もっと多くのことを知りたい。そう思わないわけではない。

 だが、互いの言葉を学びあう術がわからない。

 わずかではあるが、知ることのできた言葉もあった。

 そこにたしかにあるもの(・・)の名前ならば、教えあうこともたやすい。だが、はっきりした姿を持たぬことがら(・・・・)をあらわす言葉を伝えるのはあまりにも難しく、いまだ幼さの残る彼らには力及ぶものではなかった。


 ちいさな発見を重ねつつ、日々は穏やかに過ぎゆく。

 サンザシの白い花はすでに散り去っていた。その葉は緑を深め、地面に濃い影を落とすようになっている。

 コマドリの雛は巣から出て、サンザシの枝にとまり、羽ばたきの練習を始めている。その姿にはあどけなさがまだ色濃く残っている。くちばしは横広でつけ根に黄色い膜が残っているし、胸の羽は親鳥のような鮮やかな赤ではなく、目立たない茶色のまだらだ。しかし、飛び立つ日もそう遠くはないだろう。


 そんな初夏のある日、その出来事は起こった。



 その日、ガイがあわいの柵にやってきたとき、テーヌの姿はなかった。

 別に珍しいことではない。たしかにテーヌは頻繁に姿を現すが、いつも出くわすというものでもない。

 とはいえ、柵の近くまで来ればまず彼女の姿を探すのが、今では習慣となっていた。

 彼女の姿がないことをすこし心さびしく思いつつ、ガイはサンザシの枝の間にコマドリの姿を求めた。

 雛はいつものように枝の上で、親鳥の帰りを待っている。

 そのとき、ガイは視界のすみに、やっかいな生き物の姿をみとめた。

 蛇だ。

 木陰に隠れはっきりとはわからないが、その長さはガイの腕よりもすこし短いくらいだろうか。蛇はコマドリの雛がとまっている枝から少し離れたところに潜み、じっと様子をうかがっている。


 蛇にとって、雛鳥は格好の獲物だ。

 サンザシの枝に密に生い繁ったその葉は、雛の姿を覆い隠してくれる。鋭い棘は外敵を退けてくれる。

 だがいったん蛇に見つかってしまったならば、まだ空を飛べない雛が身を守ることは難しい。蛇はしなやかな動きでサンザシの棘をかわし、音もなく襲い掛かるだろう。

 そして今、近くに親鳥の姿はない。


 腹の底がすっと冷えるような感触を覚えた。

 今まで見守ってきた雛なのだ。こんなところで蛇の餌食になるのをむざむざ見過ごすなど耐えられない。

 できることならば蛇を追い払い、親鳥に代わって雛を守ってやりたい。


 だが、場所が悪い。

 蛇の潜んでいる枝は、柵の向こう側――氏族の領域に突き出している。しかもガイの目線よりも高い場所なので、少し腕を伸ばした程度では届かない。

 もたもたしていたら、蛇は雛に襲いかかるだろう。

 よそに助けを求めに行くような余裕はない。もし雛を助けたいならば、今、ガイがひとりで何とかしなければならないのだ。


 頭をめぐらすと、手近なところに細長い枝が一本突き出しているのが目に入った。

 ガイは棘に気をつけながら、枝を折ろうとする。

 生木はやわらかにしなり、折るのはたやすくはなかった。だが、又になっている部分から割くようにして、どうにか折り取る。

 サンザシの枝を片手に、ガイはあわいの柵によじ登る。

 横に渡した木に足をかけて身を乗り出し、ガイは右手に持った枝を蛇に向かって思いきり突き出した。


 少し脅して注意をそらす程度でよかったはずだ。だが、思い余って力が入りすぎた。

 棒は蛇にまともに当たり、蛇を枝間から叩き落とした。

 振り落とされた蛇は、ガイの真正面に落下してくる。

 蛇は逃げる様子も見せず、今度はガイに向かって鎌首をもたげる。

 明るい日差しの中で蛇の姿を正面からはっきりと捉え、ガイは思わず息を呑んだ。


(クサリヘビ――)


 褐色の体に黒い鎖柄。三角の頭。

 暗い木陰に潜んでいたときには気づかなかった。この蛇は毒を持つ、危険なクサリヘビだ。

 思わずガイは手にした枝をめちゃくちゃに突き出す。

 だが蛇は逃げ出すどころか、怒りもあらわに、しゅっと音を立てて襲いかかってきた。


 よけなくては。

 蛇を避けようと、ガイは無我夢中で身をちぢこませる。

 その拍子に、ぐらり、と上体がおおきく傾いた。

 そのまま足を滑らせ、ガイは地面に強く打ちつけられた。


 とっさに身をかばい、頭を打つのはどうにか避けた。

 しかし、下側になった右半身が強く痛み、すぐには動くことができない。


 そのとき、鋭い痛みが左足の甲に走った。

 ガイは上体を起こして、自分の足元に目を向けた。


 クサリヘビが、噛みついている――


 息が止まりそうになった。

 蛇はしばらく噛みついていたが、やがて牙をはずすと、するすると繁みの中に消えていった。


(落ち着け、落ち着け落ち着け落ち着け)


 唇がわななく。叫びが喉からあふれ出そうになる。

 だが、恐慌に陥りそうになるおのれ自身を、ガイは必死で押さえ込む。


「ガイウス!」

 いつの間にやって来たのだろう。テーヌがこわばった表情で、柵ごしにこちらを見つめていた。

「テーヌ……!」

 搾り出すような声で、ガイは彼女に呼びかけた。

 立ち上がって柵のそばに寄ろうとした。だが、起き上がろうとして右足に力を入れると、足首のあたりに痛みが走った。落ちた拍子にひねったのだろうか。

 左足は毒蛇に噛まれ、右足は捻挫。

 自分の陥っている状況を把握して、ガイはもはや恐慌を押しとどめることができなかった。


 ただごとではないと察したのだろう。テーヌは柵によじ登ると、すとんと帝国側に降り立ち、ガイのそばに駆け寄った。

 身を起こそうとしているガイの体に支えるように腕を回し、テーヌは問いかけるようにその顔を覗き込む。

「クサリヘビが……」

 そう言ってガイは、自分の足元を指差す。

 ガイの足にくっきりと残されたふたつの牙の跡に気づいたのだろう。テーヌは、はっきりとわかるほど大きく息を呑んだ。

 ガイがなおも身を起こそうとすると、テーヌは首を振って静止する。

 そして腕を引き抜いてガイの足元に移動し、足からサンダルを脱がせて傷口をあらためた。


 こわばった表情で問いかけるようなまなざしを向けるテーヌに、ガイは言った。

「クサリヘビに、かまれた」

 右手の指をそろえて、蛇が噛みつく動作を模した動きを見せた。

「クサリヘビ」

 記憶に刻み込むように、テーヌはその言葉をゆっくりと繰り返す。

 そして顔を上げると、決然とした表情を浮かべて立ち上がった。


「行く」

 西を向き、遠くを見やって、テーヌは前方を指差した。

「え?」

「ガイウス、動く、だめ」

 どうにかして立ち上がろうとするガイに、テーヌは首を振り、きっぱりと言った。

「だめ、動く、ここ」

 ここで動くな、じっとしていろ。そう言いたいのだろうか。

「でも」

 クサリヘビの毒は即座に死ぬような猛毒ではない。だが手遅れになれば深刻な障害を後々まで残しかねないし、一歩間違えば死に至ることもありうる。一刻も早い手当てが必要なのだ。


 問いかけるガイに、テーヌは笑みを返した。

 無理やり作り出した表情であることは嫌でもわかった。頬はひきつり、目には緊張が隠せない。

 そして彼女はさっと西に顔を向けると、帝国の領内を(・・・・・・)、止める間もなく柵に沿って走り去ってゆく。


(あっ)


 ようやくテーヌの意図がわかった、ような気がした。

 柵沿いにまっすぐ行ったところには帝国の駐屯地がある。

 テーヌは帝国の兵士に助けを求めるつもりなのだろうか。

 たしかにこの場所から一番近いところにいる大人は、駐屯地の人間だ。ガイの家もそう遠いわけではないが、その場所をテーヌは知らないはずだ。


(でも、テーヌ、君は……)


 テーヌは氏族の獣人だ。帝国の言葉はほとんどわからないし、見た目からして帝国の獣人たちとは明らかに異なっている。狐型の獣人など、ガイはテーヌ以外には知らない。

 氏族の民は帝国の領域に入ってはならない掟だ。帝国の領内にいるところを見つかれば、ただで済むはずもない。


(追いかけなきゃ)


 動くな、とテーヌは言った。

 たしかに毒蛇に噛まれたらむやみに動き回ってはならないと聞かされている。血の巡りが激しくなれば、毒の回りも早くなるからだ。

 だが、このまま彼女を放っておいていいはずがない。


 テーヌが脱がせたサンダルを拾いあげ、左足に履こうとする。

 左足に残された噛み跡はさっきよりも腫れ上がり、赤黒く変色しはじめている。

 立とうとすると、やはり左足がひどく痛むし、右足首にも違和感がある。それでも歯を食いしばってどうにか立ち上がったが、一歩踏み出すにもかなりの苦痛を伴う。

 こんなにのろのろ歩いていって、テーヌに追いつけるはずもない。

 彼女は全速力で走っていった。まさしく、風のように。

 ガイのために。自分の身にどんな困難がもたらされるか、おそらくは承知した上で。


 じっとしているべきなのだろうか。

 下手に動いて行き違いになってしまったら。毒が回って症状が悪化するだけだったら。

 ――それではテーヌの行為そのものが無駄になってしまう。


「テーヌ……」


 涙がこみ上げてきた。

 痛みと、不安と、情けなさと。

 飲み込みがたいもろもろのものが胸の奥からあふれ出し、ガイは涙が頬をぬらすのを止めることができなかった。

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