4.分かち合えるもの
太陽はすでに西に傾きかけている。
あの獣人の少女が境界の領域にやってくるのは、正午をすこし過ぎた頃が多い。
だから今から向かっても、あの場所にいるとは限らない。そもそもまったく出くわさない日だってある。
それでもガイは、あわいの柵へと急いだ。
今しがた思いついたことを試してみたい。その気持ちに突き動かされて、ひたすらに野を駆けていく。
サンザシの繁みが目に入ったあたりでガイは足を止めて、柵の向こうに目を凝らす。
いた。
いつもの場所に見慣れた白い影があった。
ガイはまっすぐに、柵のそばに歩み寄る。
「やあ」
息を切らしながら、ガイは柵のぎりぎり手前まで近づいて、向こう側に立つ獣人の少女に声をかけた。
少女は敏捷な動作でくるりと振り向くと、まっすぐにガイを見た。
「あのさ、これを……」
そう言いながら、ガイは手に持っていた包みを解く。
中から取り出したのは、先ほど女奴隷ラナがくれた平たいパン。
焼きたてのパンはまだほのかに温かい。
「これを一緒に食べない?」
言葉の通じない相手。
だが、食べ物の香りは。味は。
そういったものなら、もしかしたら通じるのではないか。その心に届くのではないか。
獣人の少女はいぶかしげにガイを見つめている。
「パンを、一緒に、食べよう」
一語一語区切りながら、ガイは少女に呼びかける。
「おいしいんだ、うちのパンは」
言葉が通じないことはわかっている。だが、ガイの動作を見れば、その意図するところは読み取れるはずだ。
そう信じて、ガイはパンを見せびらかすように突き出し、言葉を続ける。
「変なものなんか入ってない。ほら、見てて」
ガイはパンをふたつに裂くと、その片方からすこしちぎり取って自分の口に入れる。
(毒とかが仕込んであるわけじゃないって、わかってくれたらいいんだけど)
「大丈夫だろ、ほら」
口に入れたパンをもごもごと噛みしめながら、ガイは言葉を続けた。
ガイの様子を少女はまじろぎもせずに見つめている。
「だからこれを……」
ガイは右手にパンのもう半分を持ち、柵の向こう側に腕を伸ばす。
少女はその場から動くことなく、ただガイを見続けている。
「受け取って、くれないかな」
カサリ
枯れ草を踏み分ける小さな音。
少女はゆっくりと歩み寄ると、ガイの持つパンにおずおずと手を伸ばした。その手の甲はうっすらと緋色の和毛で覆われている。
少女がパンをつかんだのを確かめて、ガイは手を放す。
獣人の少女は受け取ったパンとガイの顔を交互に見比べ、やがて意を決したようにパンの端をちいさくちぎり取る。
ほんのちいさなかけらを鼻先にかざして、くんくんとにおいをかぐ。ひとしきりにおいを確かめると、少女はおもむろにそのかけらを口に含んだ。
一瞬、少女はぎゅっと目をつぶる。そして口に含んだものを確かめるようにゆっくり咀嚼しはじめた。
頭上に突き出た三角の狐耳が、ぴくりと動く。
はっと驚いたような表情が、少女の顔に浮かびあがる。
口中のものを飲み下して――少女はさっきよりはおおきなかけらをちぎり取る。
そしてまたゆっくりと噛み締め、こくりと飲みこむ。
二、三度目をしばたたかせると、少女はガイに顔を向けた。
その顔に、ぱあっとやわらかな表情がひろがっていく。
「おいしかった?」
思わず問いかけたガイを、少女はきょとんとした表情で見返す。
だが次の瞬間、少女は手にしたパンを指差すと、ガイに向かって笑いかけた。
「ソブラスタ」
(なんだろう。おいしいってことなのか? きっとそうだよな)
「気に入ってくれたなら、うれしい」
少女は刹那、とまどったような表情を浮かべた。何を言われたのか、何と答えればいいのか、わからなかったのだろう。
だがすぐに、少女は手の中のパンに視線を戻して、ひときれちぎり取る。再び顔を上げると、手にしたかけらをガイに指し示してから、自分の口元へと運んだ。
その動作につられるように、ガイもまた、自分の手の中に残されているパンをちぎり、かけらにかじりついた。
ふたりは柵を隔てて向かい合い、もとはひとつだったパンを分け合って食べる。
言葉はない。ふたりともパンを持つ手元に視線を落として、黙々と口を動かし続ける。
顔をあげると、たまに目が合うことがある。
それがどうにも気恥ずかしくて、ガイは顔をそむけ、視線を脇に逸らしてしまう。
ついに最後のかけらが消えていった。
ふたりは顔をあげ、互いを見つめる。
「――――」
獣人の少女が何かつぶやいた。
そして姿勢を正して胸に手を当てると、軽く目を瞑った。
言葉をきちんと聞き取ることはできなかった。だがその動作から、言わんとすることはなんとなく汲み取れる。
(お礼を、言ってくれてるんだよな)
自信はない。だがそう捉えるのが一番自然だろう。
ガイも少女にまっすぐ向き合い、そっと頭を下げる。
少女は軽くうなずくと、自分自身を指さして口を開く。
「イスミシェ テーヌ」
ガイは戸惑いながら少女を見つめ返した。
少女は自分を指差しながら、再度ゆっくりと繰り返す。
「テーヌ」
あくまでも静かな声。
だがその声は、わずかに震えている。
その声に、その挙措に、ガイは抑えがたく張り詰めた何かを感じ取る。
三角の耳はぴんとまっすぐに立ち、背後の尾はかすかに揺れている。
金色の目に浮かぶ縦長の瞳孔は大きくひろがり、今は真円に近い。
(あ……)
何故かはわからない。だが天啓のように、そのひらめきは突然訪れた。
(もしかして、名前を教えてくれようとしている?)
きっとそうだ。そうに違いない。
ガイは少女を指さして、その言葉を繰り返す。
「テーヌ?」
問いかけるようなガイの呼びかけに、少女はおおきくうなずいて復唱する。
「テーヌ」
やはりそうなのだ。
テーヌ。それはこの少女の名前に違いない。
そう確信したガイは、今度は自分自身を指さしておのれの名を告げる。
「ガイウス」
首をかしげ、戸惑いながら少女が口を開く。
「ガイ……ウス?」
「そう、ガイウス」
少女の自信なさげな呼びかけに、ガイははっきりと応えた。
「ガイウス」
嬉しそうな声で、少女――いや、テーヌは繰り返す。
「テーヌ」
「ガイウス」
互いを指さして、ふたりは名を呼び交わす。
ただ、互いの名前だけを、ふたりは繰り返す。
本当はもっと伝えたいことがある。聞いてみたいことがある。
だが、互いの名前を知ることができただけでも、ずいぶんと大きな変化なのではないか。
春の盛りの午後、日も傾きかけた刻限に、サンザシの花が淡く香る境界で、帝国の少年と氏族の少女は、ひとつのパンを分け合い、互いの名を交わした。