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3.隔たりを越える手がかり

 翌日も、獣人の少女はあわいの柵のそばに姿を現した。

 その翌日も、翌々日も、ガイは彼女の姿を柵の向こう側に垣間見た。


 最初に声をかけようとした時以来、ガイは直接彼女と向き合っていない。ただその姿をちらちらと盗み見るばかりだ。

 獣人の少女の側でもそれは同じで、向こうからこちらに関わってくる様子はない。

 だが、無視しているように見せかけてはいるが、ガイの存在が気になって仕方ないらしいということは何となくうかがい知れた。

 互いを強く意識しながらも、実際にはなにひとつ関わりあうことなく、ただ日々のみが過ぎてゆく。


 あわいの近くに住む氏族について知りたくて、ガイはそれとなく大人たちの会話に耳をそばだてるようになっていた。

 家で交わされる会話、そして駐屯地の兵士たちの噂話。そういったものの中に時折混じりこんでいるわずかな断片をつなぎ合わせ、ガイは次第に氏族の民のありさまを知るようになっていった。

 この近くに住む氏族は比較的穏健で、戦の続いていた時期もさほど大きな抵抗は示さなかったらしい。

 東の海岸ではすでに堅固な防壁が築かれつつあるのに、このあたりでは壁の建設が急務とはされていないのも、そういった事情が背景にあってのことだという。

 境界近くに暮らす者も少なからずいる。だが、柵を越えてあえて帝国側に侵入してこようとする様子は見受けられない。

 逆らわず、そして、関わらず。それが氏族の基本的な態度であり、その方針は今でも変わっていないはずだ。


 あの少女には、そしてあの少女が属する氏族にも、おそらく帝国への害意などない。

 そう考えても差し支えないのだと結論を下して、ガイはほっと胸をなでおろしたのだった。


 狐の(さが)を具えた氏族の少女。

 その姿を眺め続けるうちに気づいたことがある。

 やはりあの少女はコマドリの雛が見たくてあわいの領域に来ているらしい。

 親鳥がえさを巣に持ち帰り、雛たちがひときわ大きく鳴き声を立てるとき、彼女の尾はふわりと膨らみ、軽く震える。

 それは一見、獲物を狙う獣の反応と似ている。だが、実はそういった野生の衝動ではなく、ただひたすらに喜び、興奮する想いがにじみ出たものであるらしい。

 彼女はコマドリに襲い掛かったりはしない。ひっそりとその姿を眺め、そのさえずりに耳を傾けているだけだ。

 コマドリだけではない。サンザシの繁みに集まるさまざまな生き物の姿を求めて、獣人の少女はあそこを訪れている。

 お気に入りはコマドリとハリネズミ。

 この間、子連れのハリネズミが目の前を横切っていったときは、本当に嬉しそうだった。

 虫のたぐいはどうやら少し苦手らしい。大きな蝶が目の前をひらひらと舞っていたときは、落ち着かない様子に見えた。上着にジバチが止まったときは、払いのけたくても払いのけられずにいるのが、手に取るようにうかがえた。

 あのとき、手助けできていたらよかったのだろうか。

 もし少女がガイのすぐ隣に、いや隣とは言わないまでも柵のこちら側にいたならば、迷わず蜂を払いのけただろう。だが、柵は越えがたい壁となり、ガイを阻んでいた。

 仕方のないことだ。柵を越えることは、はっきりと禁じられている行為なのだから。

 それでも、ガイは思う。

 もし柵を越えることができたら。いや、柵ごしでもいい。せめて言葉を交わすことができたら。

 あの日、一歩踏み出しながらも途中で思いとどまったことを、今さらながらガイは悔いていた。

 あのまま勢いに任せて、言葉が通じないことなど気にかけず、何でもいいからもっと話しかけてみればよかった。

 時間を置いた今となっては、あの日の続きを実現させることはどうにも難しい。

 視線を交わし、言葉を交わす。望むのは、たったその程度のことなのに。

 手を伸ばせばすぐに届きそうな距離に立っている相手は、だが、なんと遠いところにいるのだろう。


 そもそも言葉が通じるなら、こんな苦労はいらないのに。


 氏族の民の言葉が知りたい。ガイはそう思うようになっていた。

 だが、自分の希望をそのまま周囲の人間にもらすことは憚られた。氏族に興味を持ちはじめた理由を訊ねられたら、困ったことになってしまうからだ。

 顔見知りになった氏族の女の子としゃべってみたいから――そんなこと、言えるはずもない。

 どこかに手がかりはないだろうか。

 考えを巡らせたあげく、ガイはあるものの存在に思い至ったのだった。



「こんなところで何をしてるんです? 坊ちゃん」

 書架に積み重ねられた冊子を眺めていたガイは、はっとして振り向いた。

 背の高い若い男が、不思議そうな表情でガイを見つめていた。使用人のルキウスだ。

「本を探してたんだ」

「めずらしいですね。坊ちゃんが本を探しているなんて。で、どの本なんでしょう?」

「その……前にルキウスが見てたやつで、いろんな国のめずらしいものがいろいろ載ってるの。なんだっけ? 博物誌、だったかな」

「ああ!」

 ルキウスは嬉しそうな様子でうなずいた。

「あれは面白いですよ。すみません、私が持ち出したままで、そこには戻してなかったのです」

「そうなんだ」

「あれはいい本です。遠い国々の変わったものについて多く取り上げられていて、飽きることがありません。すぐに取ってきましょうか?」

「うん。あ、いや、後でいいよ」

「そうですか」

 書物の話になると、ルキウスはいやに嬉しそうになる。

 このルキウスは農園の財産を管理する役割を任されている。まだ若く、いささか人がよすぎるような面もあるが、誠実で学があり、ガイの父の信頼も厚い。

 物心ついて以来、ガイにとってルキウスは年かさの兄のような存在だった。今でもできればそうありたいと思っている。思ってはいるものの、以前とは異なる思いをルキウスに対して抱くようにもなっていた。

「それにしても珍しいですね。坊ちゃんが自分から本を探しているなんて」

「……おかしいかな」

「いえ、嬉しいんです。今まではお薦めしてもなかなか興味を持っていただけなかったので」

 本当に嬉しそうな声で答えるルキウスを目の当たりにして、ガイは少し後ろめたいような気分になる。

「では、夕食の後にでもお渡ししますね」

「うん、お願い」

 そう答えながら、ガイは若い使用人を見上げた。

 ルキウスは背が高く、肌が白い。髪は刈り入れ時の小麦のような金色で、瞳は薄い灰色だ。はるか北方に住み、帝国では蛮族とも呼ばれている人々の血を強く感じさせる容姿を具えている。

 ルキウスは、ガイの父が北方で軍務に就いていた頃、父のもとで働いていた北方人の奴隷女の子供として生を享けた。

 北方を離れるとき、父はルキウスの母とまだ少年だったルキウスを奴隷の身分から解放した。ルキウスの母はそのまま北方に残ったが、彼はガイの父につき従い、この『白き島』までやってきたのだ。

「ルキウスは、北方人の言葉はわかる?」

 突然の問いに、ルキウスは面食らったような表情を浮かべた。

「北方人の言葉……ですか。そうですね、少しは。母は北方人ですし、幼い頃はあちらにおりましたから。ですが、帝国の言葉のほうが、私にとっては馴染みが深いのです」

「そっか……そうだよね」

「しかしどうしてそのようなことを?」

 不思議そうに問いかけるルキウスに、ガイは口ごもりながら答える。

「その、なんだろう。帝国は広いな、っていうか。帝国の言葉を話さない人たちもいるのかなって。そんなことを、ちょっと考えることがあって」

「ああ、なるほど」

 笑みを浮かべながら、ルキウスはうなずいた。

「だから博物誌を読んでみたいと思ったのですね。あれは様々な不思議が詰まった、とても面白い本です。本当は何冊にもわたる、もっと大部の作品で、うちにある冊子は抜粋に過ぎないのですが。……ただまあ、ずいぶんと変わったことも書いてあるので、どこまで本当なのか、にわかには信じられないようなところもありますね」

「そうなんだ?」

「半分くらいは想像の産物なのではないかとも思うのです」

「うん」

「何はともあれ、坊ちゃんが書物に興味をお持ちになったのは嬉しいことです。コルネリウス先生も喜ばれることでしょう」

「あ……うん」

 ルキウスとガイの家庭教師コルネリウスは親しい。コルネリウスにしてみても、勉強にいまひとつ熱意を示さない子供の面倒を見るより、読書家の聡明な若者と会話するほうが楽しいに違いない。

「先生にはその……あまりおおげさに言わないでほしいな。ちょっと知りたくなっただけで、別にすごく勉強熱心になったわけじゃないし」

「そうですね。でも、その『ちょっと知りたくなった』がとても大切なんですよ」

 屈託なくにこにこと微笑んでいるルキウスを前にして、ガイの後ろめたさは頂点を極めた。

 ガイの興味は、ルキウスが期待するような向学心の産物ではない。

 もっと身近で、もっと切実で、それでいてうかつに大人には明かせない――秘密から生まれ出たのものなのだ。

 いっそ、本当のことを言ってしまいたい。そんな衝動に駆られながら、ガイは若い使用人から本を借りる約束を取りつけたのだった。



 借り受けた冊子に、ガイは数日にわたって熱心に読みふけった。

 ルキウスが言っていたように、たしかにそれは面白い本だった。遠い国の不思議な生き物の生態や見知らぬ人々の謎めいた風習がいきいきと描かれており、ガイの心をいまだ見たことのない世界へと導いた。

 だが、最後の一ページまで読み通したにも関わらず、ガイの求めていたものに対する答えも、その手掛かりになりそうな事柄も、ついに見つけることはできなかった。

 本にはこの『白き島』については、なにも書かれていなかったのだ。

 読書の楽しみを教えてくれたという収穫はあったものの、この冊子はガイの抱える問題に応えてくれるものではなかった。


「あんまり根を詰めすぎないでくださいね、ガイ様」

 本を閉じて瞑目するガイにそっと呼びかけてきた者がいた。

 目を開いて、ガイは声の主を仰ぎ見る。

 若い獣人の娘が、心配そうな表情でガイをのぞき込んでいた。

 柔らかな薄茶の巻き毛、深い茶色の白目のない目、先の折れた獣の耳。

「ラナ?」

 ラナはカニス種、犬に似た特性を具えた獣人だ。幼い頃にこの家に買われてきた奴隷で、家事に分類されるような仕事を担っている。

「このところずっと本を読んでいらしたでしょう。ルキウスさんみたいに」

「面白かったんだよ。だけどルキウスから借りたものだから、早く返さなきゃと思って」

「本を読むのはいいんです。けど、ずいぶん熱心なので、ちょっと心配になってしまって」

「心配ないよ。もう読み終わったし」

「ちょうどさっき、パンが焼きあがったんです。ほんとは夕食用のものですけど、ひとつくらいなら、今、召し上がっても」

 そう言って、ラナは手にしていた器をガイのわきに置いた。木の器にはこんがりと焼きあがった平たい円形のパンがひとつ、置かれている。

「うん、ありがとう」

 焼きたてのパンの香ばしい香りが、ガイの鼻をくすぐる。


 その匂いに、ガイはふとひらめく。


 ――たしかにあの獣人とは言葉が通じない。でも、言葉がなくても通じるものだってあるはずだ。


「……ちょっと外に行ってくる。あ、パン、持ってってもいい?」

「かまいませんけど」

 ラナは小首をかしげて、何か尋ねたいような表情を見せた。

「夕食までには帰るよ」

 焼きたてのパンを手巾に包むとそう言い残して、ガイは気もそぞろに外へと駆け出していった。


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