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2.呼びかけの言葉は

 翌日の午後も、ガイはあわいの柵を訪れた。


 柵のそばで獣人の少女を見かけたことを、ガイは誰にも話さなかった。

 なぜそんな場所にいたのかと、追及されたくなかったのはたしかだ。だがそれ以上に、ガイはあの獣人との遭遇を自分だけの秘密にしておきたかった。

 青く輝くカワセミが獲物をつかまえた瞬間を見たときの興奮、あるいは、ハリネズミが子供たちを引き連れて潅木の根元から歩み出てくるのに行きあったときの喜び。獣人の少女を目にしたとき、ガイが感じた胸の高鳴りは、むしろそういったものに近かった。

 あの少女は野性のままに生きる美しい動物のようなものだ。帝国に対して害意を抱いている敵などではない。そう信じたかった。

 本当は、誰か信頼のおける大人に話すべきなのだろう。氏族と帝国との関係を考えれば、たとえささいなことであっても逐一報告することが望まれているはずだから。

 そのことがわかっていながら、ガイは誰にも話さなかった。

 そしてこっそりと、ひとりでまたあの場所へと向かったのである。


 いつもより緊張して周囲に気を配りながら、ガイは柵のそばへと近づいていった。

 今までならば、柵を越えた氏族の領域になど、たいして注意を払いはしなかった。だが今日は、まずは柵の向こう側に目を凝らす。

 柵の横に立つ白い小さな影をみとめて、ガイははっとして足を止める。

 あの獣人の少女だ。

 獣人はサンザシの繁みを一心に見つめていた。

 顔の角度からして、彼女が視線を注いでいるのはどうやら柵のこちら側、サンザシの木の根元近くではないだろうか。


(あ……)


 思い当たることがあった。そこには、あのコマドリの巣がある。

 もしかしたら彼女も、コマドリの姿を追っていたのではないか。卵から孵った雛の声を聞きつけたのではないか。

 だとしたら……


 この獣じみた少女も自分と同じなのか。自分と同じように雛の誕生を喜び、その姿を追いかけているのか。

 そう思い至ったとき、抑えがたい何かがこみあげてくるのをガイは感じた。

 その衝動のままに、ガイは足早にまっすぐと柵に――いや、柵の向こう側に立つ獣人の少女に向かって歩み寄る。

 柵のぎりぎり手前で足を止めて、ガイは口を開いた。


「やあ、こんにちは」


 本当は、足ががくがく震えている。声も震えているかもしれない。それでもガイは、思い切って声を発した。

 馬鹿みたいな呼びかけだと自分でも思った。だが、何か気の利いた言葉など思いつけなかった。


 獣人の少女はびくりと身をすくめ、そして振り向いた。

 猫のような金色の瞳がガイの姿を捉え、大きく見開かれる。


「――――――」


 少女が何事かをつぶやいた。だが、その音の連なりは、ガイにとっては意味を成さないものだった。


「何て言ったんだ?」

「――――――?」


 再び少女は何やらよくわからない音を発した。

 怪訝な表情を浮かべるガイに、少女は同じ音の連なりを繰り返す。


(まさか、言葉が通じない?)


 それはガイにとって驚くべきことだった。

 帝国の標準語は、帝国の支配が及んでいる地域ならばどこにいっても通じる言葉だ。今も帝国との争いを続けているはるか東の異国ならばともかく、北の果ての深き森でも、南の灼熱の大陸でも、広くあまねく帝国の言葉が使われている。そういうものだと思っていた。

 だが、目の前の獣人はどうやら帝国の言葉を話さないらしい。


 まつろわぬ氏族、というのは、こういうものなのか。


 氏族が独自の言葉を持っていることを、ガイは知識としては知っていた。だがなんとなく、帝国の言葉も理解し、使えるのだろうと思っていた。


(どうしよう……どうしたらいい)


 思い切って声をかけたのは、言葉が通じると信じていたからこそ。だが、言葉の通じない者を相手に、何を言えばいいのだろう。


「言葉、通じてない……よね?」


 問いかけなのか、それとも独り言なのか。自分でもよくわからないまま、ガイはつぶやく。

 獣人はわずかに首を傾け、問いかけるようにガイを見つめる。


(もしかしたら、あっちも困ってるんだろうか)


 きっとそうなのだろう。とはいえ、どうしたらいいのか、ガイには見当もつかない。


「えっと、その……君は、ここで何をしてる?」


 通じないのはわかっている。それでも、何か話しかけなければならないような気がして、ガイは無理やり言葉をつむぎだす。

 獣人の少女は声を発さず、まじろぎもせずにガイに視線を据えている。

 だが次の瞬間、少女はふとガイの背後に視線を移した。

 つられるようにガイも振り返り、少女の視線の向かった先を探す。

 ちらりと、小さな茶色い影が繁みの中に入り込んでいくのが見えた。同時に、幼い雛の鳴く声がいっせいに聞こえはじめる。

 親のコマドリが巣に餌を持ち帰ったのだ。


 ガイは少女のほうに向き直り、その顔を眺めやる。

 少女は繁みに目を据えたままだ。

 その黒目がすっと細まり、また太くなる。獲物を狙う猫の目そっくりだ。


(もしかして……獲物としてコマドリを狙ってる?)


 そんなはずはない。獣めいた見かけを具えてはいるが、獣人はれっきとした人間だ。知能も本能も、(ヒュマヌス)とそう変わるものではない。少なくとも家の奴隷たちはそうだ。

 にもかかわらず、そんな思いつきが一瞬頭をかすめる。


 獣人の少女の口の端が、わずかに上がる。背後の尾が、かすかに揺れる。

 そのさまは、獲物を目の前にして飛びかかる隙をうかがう獣とあまりにも似ている。


「コマドリを見てるの?」


 そう声をかけたのは、もしかしたら牽制のためだったのかもしれない。

 少女はぱっと顔を上げると、怪訝な表情でガイを見つめ返した。


「コマドリ」


 繁みの中を指さしながら、ガイは繰り返す。

 少女はガイの指さす先に目を向け、また再びガイに向き直る。


「エーン?」


 小首を傾げて、少女は声を発した。


(何て言ったんだ? 氏族の言葉なんだろうけど……)


 ガイは無言のまま、少女を見つめる。

 少女は再び口を開きかけたが、声を発する前に口を閉ざして、ガイを見つめ返した。

 問いかけるようなまなざし。だが、ガイは何も言わなかった。言えなかった。

 応えが得られないと思ったのだろう。少女はすっと目を細め、ガイの顔から視線をはずすと、再び繁みのほうへと顔を向けた。


(あ……)


 もう一度振り向いてほしい。振り向いて、声をかけてほしい。

 そう思いながら、自分からもう一度声をかける勇気も持てず、ガイもまた彼女から視線をはずし、コマドリの巣のあるあたりに目を向ける。


 どうしようもない居心地の悪さを抱えたまま、ガイと獣人の少女は互いの姿を見ないようにしながら、しばらくその場にたたずんでいた。



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