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1.コマドリと狐

 なだらかな緑の丘陵地帯を突っ切って、東から西へと伸びていく木の柵がある。

 ――そこにはもうすぐ大いなる『壁』が築かれるのだという。


 いにしえの昔からこの『白き島』で暮らしている氏族の住まう土地と、帝国からの移住者の住まう土地の間に柵が設けられて、およそ三年が過ぎていた。

 柵は堅固な壁に置き換えられていくはずだ。はるか東の海岸ではすでに工事が始まっているという。いずれはこの地も厚い防壁によって守られることになるだろう。

 今はまだ、領土の境界には木でできた低い柵がめぐらされているばかり。

 だが、帝国にまつろわぬ氏族も、帝国の民も、あえて柵を越えようとはしない。

 柵を越え、争いの日々を再び招くことは、両者ともに望むところではないのだから。




 帝国の民であるその少年は、今日も『あわい』の柵を訪れようとしていた。

 あわいの柵は――いや、柵の一部をなすように枝を伸ばしたサンザシの繁みは、まるで魔法の力を持っているかのように、少年の心をわくわくさせるものを引き寄せる。

 その棘のある枝には小鳥が巣をかけ、根元にはハリネズミが巣穴を作る。

 花の盛りには蜜蜂が飛び交い、雨上がりにはカタツムリが緑の葉に銀の筋を残しながらのろのろと這う。


 サンザシの淡く薫るちいさな白い花がぽつぽつと咲き始めたのはつい先日のこと。

 春の盛りが近づいているのだ。

 少年が今一番気にかけているのは、サンザシの根元近くに巣をかけたコマドリのつがいだ。

 このところコマドリはずっと巣に篭っている。卵の孵る日はもう間近に迫っているに違いない。

 空色の卵の殻を破って雛たちがもうすぐ生まれてくる。そう考えるだけで、どうにも嬉しくてたまらなくなる。

 少年はちいさな生き物が好きだ。

 だからといって、むやみに捕まえたり、脅したりするつもりはない。

 ただ、動き回るさまを見ているだけでいいのだ。


 少年は野を愛していた。野をさまよい、野の生き物を見つめることが好きでたまらなかった。

 本当はもうそんな楽しみからは卒業すべき年頃かもしれないのだが。

 少年は長子である。いずれは自分と同じ名を持つ父の跡を継ぎ、同じ道を歩むことになるだろう。

 少年の父ガイウス・ラエトリウスは、かつて帝国の軍団に身を置いていた。そして十三年前に退役し、最後の任地であったこの『白き島』に土地を求めて農園を拓いた。

 父と同じ名を持つ少年を、家族の者は短くただ『ガイ』と呼んでいる。

 ガイは十一歳になったばかり。正規の軍人になれるまでには、まだ五年以上の時がある。

 今はまだ、家業を手伝いながらさまざまな教えを身につけるべき期間なのだ。


 ガイは勉学が嫌いなわけではない。ただ、書字板に文字を書き連ねたり、古い言葉で語られた詩歌を暗唱するよりは、野の生き物を追うほうがずっと好きなだけだ。

 それに、夏が来れば麦の収穫が始まる。そうなれば農園は忙しくなり、ガイも遊び呆けてはいられなくなる。

 今はまさに貴重な時なのだ。

 一年のなかでも特に輝かしい季節。そして、少年がただ遊んでいてもとがめられない、ほんのわずかなひととき。

 そんな春の午後に、ガイはあわいの柵へと向かった。




 あわいの柵に沿うように繁るサンザシの木の傍らで、ガイは音を立てないように気を配りながら身を伏せた。

 太陽はすでに中天から西へと傾き始めている。

 背に太陽のあたたかな熱を感じながら、ガイは息をひそめて、そっと枝と枝の間をうかがう。

 ふっと、湿気を含んだような、秘めやかな甘い香気が鼻腔をくすぐった。

 すぐ横の地面に視線を移すと、小さな紫色のスミレが咲いているのが目に入った。よく見れば、スミレは地面にへばりつくように、そこらじゅうに群生している。

 少年は再び顔をあげ、込み合う枝の間に隠された小鳥の巣に目を凝らす。

 コマドリは今日も巣の中に座り込んでいるようだ。


 そのとき。


 ぴやぴやぴや……


 かすかな声が聴こえた。

 かすかで頼りなくて、だがそれでいて、強く訴えかける力を秘めた鳴き声。

 間違いない。雛はすでに孵っていたのだ。


 ガイはほっと息を吐いた。どうやら自分でも気づかないうちに息を止めていたらしい。


 いったい何羽孵ったのだろう。みんな無事に育つといいのに。

 雛鳥は黄色いくちばしをぱっかりと大きく開き、餌をねだって一斉に声をあげる。

 これから親鳥は忙しくなるだろう。お腹を空かせた雛たちにひっきりなしに餌を運び、育てていかなくてはならないのだから。


 来る日々を想像しながら、ガイはコマドリの巣から視線を外し、ふと境界の柵の向こうを見やった。

 そして、あるものの姿をそこに認めて、ぎょっとして硬直した。


獣人(ベスティア)――)


 柵を隔てて十歩と離れていないところに、その獣人はいた。

 獣人はサンザシの繁みに顔を向け、どこか一点をじっと見つめている。柵のこちら側で地面に身を伏せているガイの存在に気づいていないようだ。

 おそらくは柵の向こう側に住む、『氏族』の一員に違いない。

 目の前に立つ獣人の姿を、ガイは目を見開いてただただ見つめた。


 まず目に入ったのは燃える炎を思わせる鮮やかな緋色の髪。その髪をかき分けるように頭の上ににょっきりと突き出している、三角の獣の耳。

 背の高さはガイと同じくらいだろう。おそらく年頃も近いのではないか。

 華奢な体躯に、ひょろりと伸びた手足。晒した麻と思しき布で仕立てられたひざ丈の衣に筒状のレギンスを合わせた服装は実用一点張りで、性別や身分をうかがい知ることは難しい。

 ただ胸の辺りにほのかに感じられるなだらかな曲線が、獣人が女性――少女であることを明らかにしている。

 そして何よりも目を引くのは、わずかに揺れている、ふさふさとした長い尾。

 髪と同じ明るい緋色の毛で覆われた尾は、その先端だけがわずかに白い。


 噂には聞いていた。『島』に住む氏族は狐の姿を持つ獣人なのだと。


(本当に、狐みたいなんだ……)


 獣人を見るのはこれが初めて、というわけではない。

 獣の耳と尾を持つ人々ならば、物心ついた時から常にガイの身の回りにいた。

 ガイの家に仕える奴隷の中にも獣人がいる。たとえばガイの世話係であるラナは、犬の性を持つカニス種の獣人だ。

 最寄の帝国駐屯地の兵士たちにも獣人は少なくない。たとえば、いつも親切にしてくれる快活なアルディウスは、狼に似たルプス種の獣人だ。


 だが、まつろわぬ氏族の、しかも自分と同じ年頃の獣人を目にするのは初めてのことだった。


 氏族の者が境界を越えて帝国の領域に入ってくることはない。境界のそばに近寄ってくることもまれである。

 互いの領域を侵さないこと。

 これこそが、長きにわたる争いの後に交わされた約定の中で、もっとも重く受け止められていることだからだ。


 同じことは帝国の民の側にも言える。

 だから本当は、ガイが境界の近くで遊んでいることは、あまりおおっぴらにできることではない。

 あわいの柵が少年にとってとりわけ魅力的なのは、そこが禁じられた秘密の場所であるからかもしれない。

 ガイはもう幼くはない。帝国と氏族の関係もある程度は理解している。

 柵を越えて向こう側に行かなければ、特に問題にはならないだろう。そうおのれ自身に言い訳して、この場所をこっそり遊び場にしていたのだが。

 いざ氏族の獣人を目にしてみると、とまどうばかりだ。


 そのとき、獣人が振り向いて、ガイの潜んでいるあたりに視線を投げかけた。


(見つかった?)


 脈打つ音が漏れ聞こえるのではないかと思うほど、鼓動が早く、激しくなる。

 だが、獣人の視線はガイの上を素通りし、さらに遠いところに向けられた。


 振り向いた獣人の顔を、ガイは正面からまざまざと見た。


(あ……)


 獣人には慣れているつもりだった。だが、目の前に立つ氏族の者は、ガイの知る獣人たちとはまったく違っているように感じられる。


(なんであんなに……)


 あんなに獣っぽいんだろう。


 家の奴隷たちとはまるで違う。

 奴隷たちは獣の耳と尾を持っているし、(ヒュマヌス)ならば毛の生えていないような部分もうっすらと毛で覆われていたりするのだが、人にごく近い生き物のように感じられる。言葉を交わし、心を通いあわせることもたやすい、親しみの持てる存在だ。

 だが、この氏族の獣人は。

 野に生きる野生の獣そのもののようだ。その耳や尾が示すように、人からは遠く離れて生きる存在のように感じられてならない。

 いったい何が違うのだろう。

 ガイは目を凝らして、さらに獣人を見つめる。


 明るい色の髪は背後でまとめられて一筋に編まれているが、短く切られた前髪は額の上でくるくると巻き上がっている。色白な顔を縁取る巻き毛は風になぶられ、ふわふわと風に揺れる。まるでゆらめく炎のようだ。

 鼻梁はやや低く、固く引き結ばれた口元はすこし幅広だ。だが、鼻や口の造作は人とあまり変わるところはない。

 そして、その目はと言えば。

 金色の目には白目がなく、黒目は縦に長い。猫の目と同じつくりだ。


(そうか、目、なんだ)


 奴隷に多いカニス種の獣人は、犬と同じような目をしている。やはり白目はないのだが、黒目は丸いし、色も黒っぽいものが多く、優しげで親しみやすい印象を受ける。

 だが、眼前の獣人の目は猫のものに近い。縦長の黒目を持ち、妖しいばかりに輝く、太陽のしずくの色の双眸。

 獣めいている、と感じたのは、きっとこの目のせいなのだ。

 そんなことを考えつつ、もう一度獣人の顔を眺めようとした、そのとき。


 獣人と視線がかち合った。

 金色に輝く目は、見透かすようにまっすぐにこちらに向けられている。


 体がこわばる。頭の中が真っ白になる。

 どうしたらいいのかわからないまま、ガイは目をそらさず、獣人の目を見つめ返す。

 獣人はわずかに目を見開いたようにも思える。だが、驚きやおそれのような感情の動きを、その表情から読み取ることはできない。


 どれくらいそうしていただろう。

 ふっと、獣人が視線をはずし、顔を横に向けた。

 そして軽く息をつくと、大股でゆっくりと立ち去っていく。

 その後姿を、ガイは地に伏したままひたすら目で追い続けた。


 見つかったと思ったのは勘違いだったのか。

 そんなはずはない。獣人の目はたしかにガイの姿をとらえていたはずだ。

 気づきはしたものの、帝国の民の少年などには興味を惹かれなかったのだろうか。

 こんなに驚いて、こんなにどきどきしていたのは、ガイだけだったのだろうか。


 柵の向こうには氏族の民が住んでいる。

 氏族の民は、物語の中にだけ存在しているわけではない。今でもごく近いところで暮らしていている。

 あわいの柵は、そして軍の駐屯地は、あの獣人の同族をこちら側に入れないために存在しているものなのだ。


(そういえば、あの獣人はなぜここに来たんだろう)

 ガイは今までにもこの場所に来たことがある。だが、今日に至るまで、氏族の民の姿をここで見かけたことはなかった。

 偶然、出くわす機会がなかっただけなのかもしれない。ガイにしてみたところで、そう頻繁にこの場所を訪れているわけではないのだから。


 もしかしたら、氏族の民の間で不穏な企てが行われているのだろうか。その偵察であるとか、なにかそういった理由で、あの獣人はここに来たのではないか。

 そんな考えがふと頭をよぎる。


(いいや、たぶんそうじゃない。あの獣人は子供だったから)

 上背ばかりが伸びて、肉づきが追いついていない華奢な体つき。あれはガイと同じ年頃の、大人にはまだなりきっていない子供のものだ。

 大人にはわからないかもしれない。だが、ガイと同じ年頃で、ガイと同じような気質を持つ子供にとっては、このあわいの柵の周りはとてつもなく魅力のある場所だ。

 あの獣人もまたあわいの柵の魔力にとらわれて、ただおのれの心を満たすためにこの場所を訪れていたのではないか。

 だとしたら、またここに来るのではないか。


 あの獣人をここでまた見かけるかもしれない。

 その思いつきは、ガイの心を大きくざわめかせた。

 恐ろしいのか、不安なのか、それとも嬉しいのか。

 驚きととまどい、そういったものがないまぜになった、どうしようもなくどきどきしてしまう得体の知れないざわめき。

 こんな気持ちをぴたりと言い表す言葉を、ガイは見つけ出すことができなかった。


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