補論 自分と同じ顔の異性を好きになれるか
本論では、「近親相姦もの」隆盛の風潮に寄り添ってその可能性を吟味してみましたが、可能性を云々する以前にそもそも近親に「恋愛感情」を向けるものかという点について補足したいと思います。
これは端的にいって、「自分と同じ顔の異性を好きになれるのか」という問題です。
「恋愛」というものには、自分と異質な存在への「憧れ」がたぶんに意味を持ちます。
単なる性的感情ではなく、自己の人格的統合への欲求があってそれを補ってくれる存在に憧れを抱くのが通例です。
毎日鏡を見て、ここはましだけど、ここは嫌だなとか思っている顔のパーツと、そっくりのパーツをもつ身内に対して「憧れ」を持つのは、なかなかありそうにありません。
自分の容姿に対してコンプレックスを多少なり抱いている場合は、「近親恋愛」の可能性は相当低いものと考えられます。
恋愛には、異質性への欲求と、同質性への欲求が、ともに存在します。
異質性への欲求が上に述べた、自己の人格的統合欲求に関わる部分で、異質な要素を持つ相手を自分の補完物として希求する態度となります。
男と女というのは、本質的にこの異質性にもとづき惹かれあうものととりあえず考えられますが、単に異性であればよいのなら近親以外にいくらでも存在していて、そこで順当な比較が行われるならより「好ましく」感じる相手には事欠かないと思われます。
ここでその「順当な比較」が行われないケースというのが、おそらく「近親」ものの主要なパターンをなします。
これは後述しましょう。
同質性への欲求というのは、趣味・価値観等の共感が得られやすく、人格の深いところでの付き合いが容易であるという側面を指します。
これは「幼馴染」にも共通しますが、長い付き合いと相互の関わりの深さから、言葉にしなくても理解しあえる「すごく楽」な関係であるということです。
現代のうわべを取り繕ったコミュニケーションコストから逃れられる関係性というのは、非常に魅力的です。
しかし、一方で同情・共感を得られやすい間柄というのは、「同病相哀れむ」「傷をなめあう」関係に陥りやすいということで、ここに近親相姦の「気持ち悪さ」が集約されてくるのだと思われます。
「理解できるがゆえに余計に許せない」という「近親憎悪」の感情が、通常は優先されてきます。
「近親憎悪」より「恋愛感情」が上まわる場合は、どのようなケースが想定されるでしょうか。
一つには、「近親憎悪」自体が非常に弱い場合です。
「近親憎悪」は「自己憎悪」の投射と考えられるので、「自己肯定」感情が強い場合にはあまり問題になりません。
天真爛漫な「妹」キャラの必然性はこのあたりにありそうです。
また、近親の同質性を圧倒的に上まわる異質性が存在するなら、「憎悪」を「恋愛」が凌駕する道が開けます。
遺伝子、家庭環境が共通であっても、それ以外の個性に属する部分で大いに違いが存在する可能性はあります。
それこそ星座や血液型が違うでもいいし、友人環境等にそれを求めてもいいかもしれません。
ここらあたりでどう説得力を持たせるかが、「近親相姦」もの作者の腕の見せ所となるでしょう。
最後に、「同質性」「異質性」というのがほとんど問題にならないケースが存在します。
先に指摘した「順当な比較」を欠くケースというやつです。
比較を欠くというのは、そもそも「社会的な閉じこもり」が発生しているということを意味します。
幼い時分においては、家族内部においての「閉じこもり」が発生することはある意味自然です。
成長とともにこれは失われるのが通常ですが、何らかの事情でこれが固着してしまうケースがでてきます。
近親相姦の実録ものにでてくるのは、たいがいがこのパターンです。
「近親相姦」のロマンと現実の違いというのは、このあたりに多く帰着します。
「何らかの事情」というのはさまざまですが、トータルとしてみて「社会病理」と判定すべきケースが多くなるでしょう。
一方で、現代的な「社会的閉じこもり」が多く発生するようになってきています。
これは社会の構造変化が背後にあるだけに、安直に「病理」として扱うのにためらうところもあります。
ここを肯定的に評価する視座というものが、「近親相姦」ものを楽しむための分岐点になっているのかもしれません。