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【おらは赤鬼】 阿鼻叫喚の地獄絵図は古代日本から始まった。

作者: 婆雨まう

 むかしむかし。

 黒歴史に記された邪念台国の時代。

 今で言う相模の国のはずれ、丹沢山のふもとに、赤鬼の住む家があった。

 屋根の尖った小さな家で、大きな栗の木に囲まれていた。

 庭にはヒマワリの花、チューリップ。モクレンの枝があり、春には山桜が咲いた。

 それらの草花に水をやるのが赤鬼の日課で、赤鬼は独り者だった。

 赤鬼の頭の両端には2本の黄色く、ほのかに黒ずんだ角がにょっきりと突き出ており、顎から2本の長い牙。

 茶色い短めの髭を蓄えていた。

 威厳のあるごつい顔から時おり見せる人なつこい笑顔で、村人たちは簡単に赤鬼にだまされた。

 背は二メートルをゆうに越え、右手に銅製の大きなイボイボの棍棒を携え、困った人たちを家に招き入れた。

 何が不幸かって、その当時は天正の大飢饉に見舞われていて、米も不作で、食べるものがどこにも見当たらなかった。

 それは村人も赤鬼も同じことで、食うに困った生き物たちは、負の食物連鎖を起こすべく、暗い未来をただひたすら歩いた。

 共食い。

 小さな動物から段階を踏み、人々は兄弟、親、子供を食うことをおぼえた。

 食べられるものは4つ足のお膳をのぞいて、なんでも口に入れた。

 村人は五里離れた裏山まで狩りに出かけたが、当然のことながら獲物は獲れなかった。

 雨降りが三月続き、空には大きな入道雲が幾層にももくもくと連なり、地上は真っ暗な闇に覆われた。

 空は完全に光を失い、地上にあるものすべて一様にみな輝きを失い、モノクロームの世界に支配された。

 いく夜も、いく朝も雨は降り注ぎ、大きな川は氾濫して集落を襲い、甚大なる洪水の被害をもたらした。

 羽アリが大群となって民家を襲い、イナゴの群れが、高台にある、わずかな地上の穀物を一つ残らず食い散らかした。

 雨は更に三月降り続き、田んぼ、畑は冠水し、わずかばかりの作物もすべて失った。

 人々は飢えをしのぐため、大みみず。カタツムリ。すずめ。芋虫。カブトムシの幼虫。亀。スッポン。野ウサギ。キツネ。熊の胃を口にして飢えをしのぎ、太陽が再び天高く昇るのを待った。

 しかし太陽は人々の頭上には二度と現れないばかりか、暴風雨が人々を苦しめ、それに輪をかけ空腹が人々をむしばんだ。

 食べられる野草はすべて口にした。ねずみも焼いて食べた。

 当然のことながら村人の胃袋はそれだけでは満たされなかった。

 やがて食べるものが地上からすべてなくなり、タンパク質を求めた村人達は、いつしか人喰いへの風習を復活させた。

 小高い丘にある、わずかなオレンジ色の果物は鳥たちに食い荒らされ、あけび。桑の実。タラの芽。のびる。せり。ヤマゴボウ。植物動物を問わず生き物すべてが、山から消えてなくなった。

 残された生き物は食うに必死だった。

 何も食べるものにありつかない者は、仕方なく木の皮をはぎ、それを口に入れ咀嚼し、毒キノコでさえあく抜きして湯がいて食べた。畑の土を食って飢えをしのぐ者もいて、そこには阿鼻叫喚の世界が広がった。

 誰々の家の誰べーが死ぬと噂になれば、伝染病などの病気はないか。

 死体を食べることばかり考えて昼も夜も過ごした。

 当然のことながら犬や猫も焼いて食べた。

 それ以外、人々は空腹を満たす術が思いつかなかった。

 人が死なないときは、更に困った。

 食べるものに困った村人は、仕方なくジャンケンをして自分の左腕を切り落として食べる暴挙に出た。

 村人の多くは左腕を失い、日常の生活に支障をきたすようになった。

 それでも食料は足りず、やがて人々は自分の左足も切断して食べた。

 人々はまるで案山子のような風体で、あてもなく集落をさまよい、寝てばかりの日々を過ごした。

 これでは駄目だ。

 村が滅びる。

 くじ引きで生け贄を捧げる儀式を執り行うようになり、政を取り仕切る祭司が現れた。

 祭司は、隣村の集落を襲うよう村民に命じ、同じ村に住む村人同士の共食いは避けるべきだと言った。

 何十里と離れた隣村を若い十代、二十代の若者が襲撃し、しばらくして捕虜を連れて帰るようになった。

 捕虜は数日、生かされ。やがて呪いの儀式のあと殺された。

 そして当然のことながら村人達の胃袋の中へ収まった。

 心臓を祭司が焼いて食べ、神殿には頭骨が規則正しく並べられた。

 隙あらば、隣人を刃物で殺し、食べてしまう。

 そんな殺伐とした環境の中で、それでも人々は幸福を求め必死だった。

 村人は仕方なく、誰も入山したがらない赤鬼の住む山へと入り、数少ないイノシシをつかまえに山へこもった。

 帰らぬ人となった若者も多かった。

 赤鬼も、何を隠そう食べ物に困り飢えていた。

 雑草ばかり食べていた赤鬼は、ひどくやせ細ってしまい、栄養のある、滋養のある人が食べたくて仕方なかった。

 いきのいい若い者は、おらんかね♪

 はよ、こっちこんかい♪

 赤鬼は毎夜、歌を歌って、ひもじさを紛らした。

 山を訪れた村人たちの多くは、イノシシを捕るはずが神隠しに遭い、とどのつまり赤鬼の胃袋の中へと消えてしまった。

 食うものがない村人は、仕方なく、犬や猫に子供を産ませ、皮をひんむいて焼いて食べたりしたが、それでは量が足りず、今度は自分で産んだ子供、人間の子供を食べるようになった。

 新生児の肉は美味だった。

 滋養があって、柔らかくて、赤みがあって、まるでうさぎの肉のような甘みがあった。

 セックスしては子供を産み、そして殺しては焼いて食べる。

 飢えは辛うじて抑えられたが、いつしか村の人口は半分に減り、長老たちも、子供たちも、村民の餌食になった。

 祭司が村の将来を占った。

 「この村には悪魔がいる。悪魔をこの村から追い払わん限り、この村に幸せは永遠に訪れないじゃろう」

 村人は口々に噂し合った。

 「赤鬼のところへ、誰かを使いに出したらどうじゃろう?」

 赤鬼に嫁っ子を献上し、この地上に幸福を取り戻してもらおう。

 赤鬼に嫁さんを授ける計画がなされ、村人は昼夜話し合った。

 いくばくかの月日が流れた。

 せっかく生け贄が決まっても、赤鬼のお嫁さんにはなりたくないといっては泣き、やはり使いに出せるような女子はいなかった。

 村の人口はとうとう3分の1になった。

 人々は飢えと疫病で次々と死を迎え、こんなことなら死んだ方がましだ。

 口々に愚痴をこぼし合った。

 「おらが死んだら。おらの肉を食ってけろ」

 そう言っては涙ぐみ、やせ細った体でお互いを抱き合う老人達。 

 死ぬことだけが、この苦しみから逃れられる唯一の選択肢なのだと、誰もが信じて疑わなかった。 

 本当に食べるものがなくなってしまったある晩、村人は祭司を襲った。

 丸まると肥えた祭司は、肉厚で、脂肪の鎧を一枚身にまとっていた。

 村人は祭司を焼いて食べることにした。

 祭司は、

 「我が子羊の過ちを許せ。悪いのは人間ではない。人間の業だ」

 そう言い終わるやいなや槍で突かれ絶命した。

 そして十字架に貼り付けられ、火あぶりにされ、人々の胃袋の中へと収まった。

 村人の多くが餓死し、その餓死した死体を喰らう負の連鎖は、祭司の手をもってしてもやはり止められなかったのである。

 村人はリヤカーに腐った遺体を積み、赤鬼のところへ願掛けに行った。

 願いごとを聞いてもらうために出かけたのだけれど、この村人も、結局は赤鬼に食べられてしまい、帰ってくることはできなかった。

 赤鬼はリヤカーに積まれた遺体を大きな鍋に入れ、ぐつぐつ煮て食べた。

 肉は腐る一歩手前が一番美味しいことを赤鬼は知っていた。

 そして新鮮な生きのいい肉がもっとおいしいことも、経験から知っていた。

 「もっといきのいい、生きた人間はおらんかね?」

 赤鬼は満足した笑みを浮かべ、月に向かって吠えた。

 苦しみのあるところには必ずや食うに困る者がいて、それがかえって赤鬼には好都合だった。

 赤鬼を利用するつもりが、結局は相手に利用され、骨までしゃぶりつくされる。

 鬼を利用しようなんて幻想は、死ぬまで抱かない方がいい。

 赤鬼を頼ってくる村人達は、かっこうのカモだった。

 カモがネギをしょって、向こうからやってくるのだ。

 赤鬼には笑いが止まらなかった。

 赤鬼は悩み相談所を丹沢山の中腹から裾野に移動し、村人が訪れやすい環境を作った。

 そこで蜘蛛のように糸を張り、人々が訪れるのを待ち構えた。

 人をだます人間というのは、本当に悪人のような面構えはしていない。

 どこが優しげで、人なつこさを浮かべているものだ。

 ご多分に漏れず、赤鬼も、時折見せる優しい笑顔を武器にしていた。

 修羅の本性を現すのは、人を鍋でぐつぐつ煮て食べるときだけだ。

 人間の本性は性悪でできている。

 言い訳なんて、あとからとってつけたようなものばかりだ。

 人を羨み、妬み、嫉妬し、人に不幸が訪れることをただひたすら望む。

 多くはそんなものだ。

 人間の原点は悪だ。

 悪でできている。

 人をこらしめて何が悪い?

 人を喰らって何が悪い?

 それが赤鬼の本心であり、心の根底にあった。

 人間を焼いて食べようが、人が一人死のうが、それは赤鬼には全く意味のないことだった。

 そんな赤鬼に願掛けをしにくる村の民は後を絶たず、一帯は集落となった。

 「赤鬼なら、人間の苦しみをわかってくれるはずだ。我らの神だ。我々を今の状況から救ってくれるのは、あのお方しかいない」

 赤鬼の商売は繁盛した。

 ある女性が遠くから赤鬼を訪ねてきた。

 ある晴れた初夏の晩で、その日は鈴虫が一晩中うるさく鳴いた。

 「願い事はなんじゃ?」

 「はい。赤鬼様。母親の健康がすぐれません。寝込んでしまって、歩くのがやっとでございます」

 そうか。赤鬼は茶色い髭を蓄えた顎を無造作になで、優しく語りかけた。

 「そして。貢ぎ物はなんじゃ?」

 中年の女性を見おろした。

 女性は悲しげな瞳を浮かべ、

 「私の左目玉でございます」

 赤鬼を見上げた。

 何か願いを叶えたければ、何かを失わなければいけない。

 すべては代償の上に成り立っていることを赤鬼はこんこんと説いた。

 願いを叶えたければなおさらのことだ。

 この世の一番大事なもの。命の次に大事にしているものを差し出さなくては、願いは成就しない。

 「して。左目を失ってもいいというのか?」

 赤鬼は念を押した。

 女は悲しげな瞳を赤鬼に向け、力なく言った。

 「はい、赤鬼様。左目を失っても私には右目玉がございます。左目の代わりになってくれるかけがえのない子供たちもいます」

 年の頃が30代の女性は、ふん。と大きな気合いを入れ、右手を左目の前に持ち上げ、指を奥深く突っ込んだ。

 そして勢いよく左目を突くと、左目に親指、人差し指。中指を突き立て。鬼に血にまみれた左目玉を献上した。

 「どうぞ。赤鬼様」

 赤鬼はよだれをたれ流し、ことのほか喜んだ。

 「おいしそうな目玉の刺身じゃ。よだれが止まらんわい」

 そして赤鬼は出された左目をぺろっと一口で飲み干した。

 「おまえは自分の、それも一等大事なものをこのわしに差し出した。特一級じゃ。おまえの願いはすべてかなえてあげよう」

 赤鬼は満足げな笑みを浮かべた。

 こうして女性は母親が元気を取り戻す薬草を赤鬼から手に入れることができた。

 それから一週間して、赤鬼を尋ねてきた別の来客があった。

 客人はリヤカーに遺体を2つ積み、赤鬼に願いごとをした。

 「肉はな。腐る一歩手前が一番おいしいのを知っておるか?」

 肉の味が、生前の人間の活動実績からくることもそのころにはよくわかっていた。

 よく動き回り、よく考える人の肉が、比較的、柔らかくておいしいことを赤鬼は経験から知っていた。

 やがて三月が過ぎ、村人は願いごとを叶えたくても、献上するものがなくなる状況に陥った。

 左手を失い、左足を失った老人。

 それにくわえ、左目、左手を失った女性。

 腎臓、肺を1つ、片方だけ献上した若者。

 人々は献上するものがない中で、誰かを生け贄にする術をまたしても復活させた。

 誰かが幸せを手に入れるために自らが犠牲になる。

 多くを助けたいが故に、その中の誰か一人が犠牲になる。

 こうしてえせ宗教のような、欺瞞に満ちた和の精神が育まれた。

 「豚美。これもおら達、家族のためじゃ。赤鬼のところさ行き、嫁にもらってもらいんしゃい。もしいらぬといわれたら、おまえの心臓を献上してきんしゃい。ここに媚薬がある。これを飲めば、苦もなく死を迎えられる。これは家族5人分の願いごとを叶えてもらうためじゃ。遊びじゃないぞ」

 村の中で一番容姿が醜い、おデブの豚美に白羽の矢が当たった。

 今日まで育ててくれた恩を返さなければならない時がついに訪れた。

 悲しんでばかりいられなかった。

 豚美は翌日、早朝。早速、赤鬼に会いに山へ登った。

 献上する物は、自分の体だった。

 命と引き替えに家族の平和を祈願する。

 山に登って3時間。豚美は偶然、山のふもとに粗末な茶屋を見つけた。

 ここは宿屋にもなっていて、奥に横になれる6畳のスペースがあった。

 ここで一泊することにして、豚美は背中に背負った荷物を椅子の上におろした。

 店頭には粗末な割れた皿の上に、人間の肉でできた、みたらし団子が並び、上に、とろみがかった、あんかけが塗ってあった。

 豚美は、自分が腹を空かせていることを今、初めて知った。

 豚美は、みたらし団子を2本もらった。

 粗末な団子だったけれど、お腹が空いていたので、すぐに2本をたいらげてしまった。

 もうこれで団子を食べることもないのかもしれない。

 そう思うと、なにやら悲しくなって、涙がとめどなく流れた。

 豚美は、ほんの一瞬、逃げ出してしまおうか、この場から消えてしまいたい衝動に駆られた。

 いやいや、それはできない。

 これもそれも、みな家族のためじゃ。

 家族の幸せのため、私は命を犠牲にするしかないのだ。

 この尊い命も、誰それの役に立ってこそ、ひときわ輝くというものだ。

 誘惑に何度も負けそうになったけれど、すんでのところで思いとどまった。

 これは家族のためだ。

 遊びじゃない。

 村を存続させるために仕方のないことなのだ。

 みたらし団子を3本追加し、ついでに飲めない酒をあおった。

 豚美は飲めない酒を飲んでは、しくしく泣いた。

 茶屋で知り合った父親ほど年齢の離れた男に声をかけられ、これから赤鬼に会いに行くのだと事情を話しては、また泣いた。

 豚美は涙で真っ赤に腫らした瞳を男に向け、これも仕方のないことなのです。

 心ここにあらず宙を見上げた。

 何を隠そう、この男こそ、天上界で恐れられた赤鬼の父親だった。

 たまたま地上に降りてきて、村の様子を見に来ていた赤鬼の父親は、困ったことが起きたものだ。

 なんとかしなければと思った。

 豚美は涙で真っ赤にはらした瞳を何度も着物の裾で拭い、

 「神様はおらんのかね、私はもうじき殺される」

 しくしく泣いた。

 夜が更けた。

 眠りに落ちたのは、午前3時頃だったと思う。

 気がつけば鼾をかいて、ふとんの上で大の字になって豚美は寝入っていた。

 豚美は、うとうとして、よだれをたらして、横向きになった。

 鼾が止まり、宿に静けさが戻った。

 何時間が過ぎたのだろう。

 「おい豚美。豚美どん」

 豚美を呼ぶ、小さな声で目が覚めた。

 そこには一人の、先ほどの老人のたたずまいがあった。

 老人は豚美に、

 「今から起こることは、誰にも話してはいけない。親にも。兄弟にも。誰にもじゃ」

 そう言って、豚美に包みをよこした。

 「これを赤鬼に渡しなさい。そして、赤鬼にこういうのじゃ。地上を元通りにしろ。さもなくばおまえを焼いて食べてしまうぞ」

 それとは別に願いごとが5つ叶う匂い袋を豚美はもらった。

 老人は伝えたい用件だけ豚美に言うと、すぐに枕元から消えていなくなった。

 にわとりの鳴き声で再び、目を覚ました豚美は、昨日の出来事が夢でないことを遅れて知った。

 豚美は宿を引き上げ、赤鬼が住む、山のふもとに向かった。

 老人から預かった包みを気にすることもなく背中に背負い、とぼとぼと歩き始めた。

 幾つもの竹藪のトンネルをくぐり、小さな山を3つ登っておりた。

 その先に、赤鬼の住む、屋根の尖った小さな青い家があった。

 栗の木で家が隠れていたので、すぐにわかった。

 栗の花の匂いが辺りに立ちこめた。

 豚美は、

 「お~い。お~い。赤鬼や~い」 

 そう言って、赤鬼を呼んだ。

 奥から、のそっと、やせ細った赤鬼が現れた。

 「私に用事があるのは誰じゃ? わしに食べられてもいいおなごは誰じゃ~。名を名乗れ~」

 赤鬼はもう三日も何も口にしていなかったので、豚美が肉の塊に見えて仕方なかった。

 「わしに用事とはなんじゃ?」

 「地上を元通りにしてほしいのです。さもなくばおまえを焼いて食べてしまうぞ」

 豚美は用件を言った。

 赤鬼は鼻先で豚美を笑い、豚美どんを物のように扱った。

 「して。わしへの報酬はなんじゃ?」

 豚美は老人から預かった、風呂敷に包まれた紫色の包みを手渡した。

 「報酬は、私でございます」

 そう言おうとして、願いごとが5つ叶う匂い袋を差し出した。

 「村に平和を戻してほしい。私は死にたくないし、もうこれ以上、誰も死んでほしくない。犠牲も、代償も払いたくないぞなもし」

 そう言って、願いを5つ叶える匂い袋を赤鬼に手渡した。

 「これで願いを叶えてください」

 赤鬼はどこかで嗅いだおぼえのある匂い袋をまじまじと見つめ、それが誰のものか瞬時に悟った。 

 赤鬼は豚美を上から下から、斜め右上から何度もなめ回すように眺め、こいつは特上の肉。ロース肉に違いない。

 ある確信を持った。

 特一級品の肉だ。間違いない。上から下から品定めした。

 そして念のため受け取った風呂敷を広げ、老人からの包みをその上に広げた。

 そこには若かりし頃の赤鬼。

 赤鬼の母親が、横長の墨絵に収まっていた。

 桐の小箱には、赤鬼のへその緒が入れてあり、箱には名前が記されていた。

 赤鬼太郎……。

 母親の青くかすんだインク文字。

 赤鬼は色あせた墨絵画に心を奪われ、童心に返った。

 そして胸が張り裂けてしまいそうな衝動に駆られ、胸キュン状態になった。

 墨絵画は、かなりの年数が経っていたが、描かれていたのは紛れもない赤鬼の家族とかつて住んだ我が家だった。

 かつて暮らした雲の上には、母親が雷太鼓を軽々と背負い1人気丈に描かれていた。

 それは紛れもない、5歳で生き別れた母親の姿だった。

 赤鬼は、幼少の頃、おまえは天上の世界に向かない。

 神と呼ばれるにはふさわしくない。

 そういって地上に降ろされたことを今でもコンプレックスに思っていた。

 鬼が地上に降りると災いが降りかかる。

 迷信を信じる村人も多かったし、飢饉が訪れることも古くから言い伝えられていた。

 いくら能力の問題だからといって、地上に捨てられるのはいかがなものだと当時の赤鬼少年は思った。

 「どうしておまえがこれを」

 豚美は宿で出会った老人のことを話した。

 背格好。肌の色。輪郭。身長。

 どれも赤鬼が知っている父親像そのものだった。

 父親は怒ったとき、修羅の形相になるものの、普段は人と変わらず天上天下。どこでも普通に暮らした。

 角も短く、簡単に髪に隠れた。

 牙も短く、人間の犬歯のようになんなく口に収まった。

 母親も父親も簡単に人間の世界に紛れ込めたけれど、風貌の違う赤鬼だけはいつも蚊帳の外で、人間世界でも天上界でも意味なく嫌われた。

 のけ者にされ、一風変わった身なりを人から指摘され、出会った人すべてから後ろ指をさされた。

 赤鬼は幼少の頃に、両親に捨てられたことをとても残念に思っていた。

 それがトラウマとなり、大人になり、人へのコンプレックスになった。

 背丈が大きく、角が大きく、角が地肌から突き出していたので、人種の差別を受けるたび、幼少の頃の赤鬼は泣いて過ごした。

 愛だとか情だとか恋だとかを信じなくなったのは、この容姿と深く関係していた。

 恋人がいないのも、他人に対して攻撃的なのも、すべてはコンプレックスの裏返しだった。

 傷つくのが恐かったのである。

 赤鬼は地上の姥捨て山に老婆と一緒に捨てられた20年前を思い出し、一人感慨にふけった。

 あれから22年が過ぎたのか。

 おれ様も歳を取るわけだ。

 赤鬼は一人しみじみとした。

 赤鬼は幼少の記憶をほとんど失っていたが、母親が書いた墨絵を見て、失った二十年を懐かしさを込めて振り返った。

 それにしても色んなことがあったな。

 楽しいことばかりではなかった。

 人間に不信感を抱いたこと。

 食べるものもなかった時代、自分が差別を受けたこと。

 人間界を支配するようになったこと。

 いつか世間に復讐してやろうと思っていたこと。

 多くの物事が、赤鬼の脳裏を早送りした映像のようによぎった。

 自分は人として、鬼として認めて欲しかっただけなんだ。

 家族で仲良く暮らしたかっただけなんだ。

 たったそれだけの望みが、なぜか叶えられなかったことをとても残念に思った。

 包みの中には手紙があり、また家族四人で暮らさないかと書かれていた。

 赤鬼は、豚美を食べることも忘れて、手紙を読みふけった。

 母親の元気そうな姿が、手紙の生き生きとした文脈から伝わってきた。

 手紙の脈々とした文面が、赤鬼の心をひどく揺さぶった。

 赤鬼は、ノックアウト寸前だった。

 もう一度、家族四人で暮らすのも悪くない。

 お母さんは私を受け入れてくれるのだろうか?

 お父さんは失った22年をどう受け止めているのだろう?

 雲の上へ帰ろう。

 私が帰れる場所は、あそこしかない。

 地上を汚すのはもうこれで最後にしよう。

 私が地上にいては、人々が不幸になる。

 人々の不幸の上に、私の幸福が成り立っている。

 思い残すことも、もう何もないはずだ。

 最後に地上を元通りにしよう。

 赤鬼は、ふと思い出したように、もくもくと連なった雲を呼びよせ、天上に帰れと命じた。

 幾層にも連なり、地上への日差しを遮っていた雲はすべて空高く昇り、散り散りとなった。

 かわりに突き抜けるような青空が頭上に広がり、空が輝きを取り戻した。

 久しぶりに見るコバルトブルーの雲一つない景色だった。

 人を喰う負の連鎖も、これで断ち切れるだろう。人々の不幸を願うのも、もう金輪際やめだ。

 赤鬼は地平線をただひたすら眺めた。

 後日、空から母親と父鬼が赤鬼を迎えにきて、一家は雷雲に乗って天上へと消えた。

 人々は200年ぶりに鬼のいない安らかな空間を取り戻した。

 鬼は人々の、心の元凶だったのだ。

 人々の心を映す幻のような存在だった。

 もう地上を荒らすこともないだろう。

 ただ1つ。

 人間が欲望にまみれたとき、再び雷雲に乗って地上に警告を与えにやって来るかもしれない。

 地上では人々に幸せの連鎖が広がり、人を喰う風習。生け贄の儀式は人々の記憶から遠く忘れ去られるようになった。

 豚美は生け贄にならずにすんだ。

 人間万事塞翁が馬。

 災い転じて福となし。

 豚美は、赤鬼に食われることなく、村のリーダーになった。そして時を改め、卑弥呼を名乗った。

 地上は光を取り戻し、誰もが平和を口にするようになった。

 苦しいトンネルを抜ければ、そこには一帯平原のような楽園が広がる。

 苦しさと同じ数だけ、幸せを体験できる現状に、今は驚きと安堵感でいっぱいだった。

 性善説。性悪説。

 どちらが本当の人間の姿なのだろう?

 あるときは仮面をかぶった羊、偽善者を装い。

 またあるときには隣人にも牙をむき、人肉を喰らう。

 生きる為とはいえ、人は果たして善なる生きものなのだろうか?

 それとも悪なる獣の使いなのか?

 神は答えを出さなかった。

 鬼を地上に使いに出し、ただひたすら人間の本質を見極めようとした。

 卑弥呼は小さな村で3人の子供を授かった。臨。皆。前。

 それぞれに名前をつけ、未来を託した。

 

 あれから1800年余りが過ぎ去り、現代を迎えた。

 この先、数千年の時を経、世界の人口が200億人に膨れあがった時、人々は食料危機に見舞われ、前後の見境がつかなくなるという。

 食べたくても何も食べるものが手に入らない時代。

 そんな時代がやってくる。

 バナナ1本が3万5千円もする時代で、低所得者層は、一体何を食って生きながらえろというのか?

 戦争も、隣人とのいさかいも、宗教も革命も殺人も、すべては過去の出来事の微妙なアレンジにすぎない。

 人々は同じ過ちを繰り返しながらも、少しずつ歴史を塗り替えてきた。

 都合の悪いことを忘れ、不都合なことだけ記憶から消し去ろうとして、マスコミやプロパガンダを使い、遺伝子さえ操作しようと試みた。

 だがどうだ?

 人々は幸せを口にしているのだろうか?

 人間の醜さ。

 傲慢さ。

 身勝手さ。

 自分だけを愛する偏愛。

 それらすべてが遺伝子として記録に残り、未来へと続く。

 人間の本来歩むべき道とは、いったいどういう道なのだろう?

 争いのない平和な世界とは、いったいどういう世界をいうのだろう?

 それらは夢の中の世界、ユートピアで、そんなものはそもそも現実的には存在し得ないのだろうか。

 誰もが幸せになれる世界って、いったいどんな世界をいうのだろう。

 神は答えをださなかった。

 人々に考えさせるため、人類に答えを出させるため、あえて苦悩を与え、人類に試金石を与えた。

 古くは海上で難破し、船上で人を殺し人肉を食べたミニョネット号事件のように。

 アンデスの雪山に墜落した飛行機事故。

 人肉を食べて生きながらえた16人のアンデスの聖餐のように。

 のちの『生きてこそ』という映画になった実話が、近い将来、蘇ろうとしている。

 何も食べ物がない中で死の行進を続けた第2次世界大戦下の日本兵。

 彼らは口にするものもなく、死を受け入れるか、隠れて死体、死者のレバーを喰らうしか選択肢がなかった。

 手が2本あり、目玉が2つあり、足が2本しかないのなら、人々が取る行動も自然と限られるのかもしれない。

 神が人々を裁く日が、近々訪れるような気がしてならない。

 無限だと思われた食料や水が放射能や酸性雨、公害でやがて枯渇する日……。

 それまで人類は希望を持って生きてもいいのだろうか。

 人々に問いたい。

 人間の未来を。

 幸せというものについて。 

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