その6
待ち伏せポイントの一つから飛び出し、それぞれの担当位置へと向かう四人の特殊部隊員。
最も敵に近いポイントへと移動していた由美の耳には、既に格闘機の炭素繊維筋肉が発する駆動音が届いていた。
川べりの高く降り積もった雪の陰に穴を掘り、そこに予備のグレネードと弾倉が並べられている。仰向けに寝転がり、姿を隠す。
手に取り、すぐに使えるように持ち方を調整する切り札。
敵を目視することは避ける。その瞬間に捕捉される危険性があるからだ。それが格闘機という存在だ。冷たい雪に寝そべり、黙って耳を澄ます。
世界の屋根と呼ばれる山々を吹き抜ける冷たい風。さらさらと舞うパウダースノー。それ以外に音の無いしんと静まり返った静謐。川の水さえ、今は分厚い氷の下。
ずん、と重い物が地を踏み締める音。それは小さく、聞き慣れた者でなければそうと分からないであろう陸戦兵器の足音。
――静粛モード。
予想通り、敵は熱と音を極力抑えその中での最高速――時速三十キロほどで移動していた。
――装備も情報と齟齬なし。
音から敵機の重量を推測する由美。重火器が追加されたりしている可能性は無いと判断できた。
敵戦力の分析を完了させた由美。ふと別の気配を感じて寝そべったまま足元に意識を向けた。
闇に浮かぶ二つの光。鋭く彼女を見つめる双眸。どうやらこの辺りに棲息するユキヒョウのようだ。王者としての嗅覚がこの近辺での戦闘の気配を察したのだろう。
――止まった?
ユキヒョウに気付いた直後、急に無くなった敵の足音。
――なるほど、これが最強のテロリストか……。
由美は敵が侮れない存在だと認識した。G1の動きが止まったのだ。何かを察したのだろう。あるいは、今まであまりにも何も無かったことに疑問を抱いたのか。
いずれにせよ、この感性が敵を、日村竜を生き永らえさせてきたのだ。
――もう遅いわ。
しかし、湾岸軍第一空挺団最強には僅かながら及ばなかったと言わざるを得ない。
敵は既に彼女の罠に足を踏み入れていた。半径百メートルの大きな罠。
小さく息を整える。自身の肉体を最高の状態に持って行くための一呼吸。
ゴーグルのボタンを押す。起動する網膜投影。視線入力でデータギアを起動。
ここまで僅か二秒。特殊作戦用の熱電磁波を極限まで抑えたハイエンドモデルとはいえ、この距離では敵に捕捉される恐れは常に在る。
気付かれれば終わり。その恐怖が胃をきゅっと締め付ける。それでも左手が動く。
二回、左手の指を鳴らす。
動きを読み取ったデータギアが指揮官権限を行使し、陳達三人のデータギアを一斉に起動。それが戦闘開始の狼煙。
その電波をG1はもちろん察知した。
しかし五十メートルという目の前に等しい距離では、訓練された特殊部隊員はテロリストより確実に速かった。
雪の窪みから突き出される四本の右腕。その右手が掴むのは、長さ七十五センチほどの無骨な黒い鉄の棒。その芯は削り抜かれた筒状になっており、内側には螺旋状の溝が彫り込まれている。
対物狙撃銃――バーレットM82。その銃身。
その銃身だけである。
そして、これこそが由美の対格闘機戦切り札。
悲鳴のような駆動音が静寂を切り裂く。見えない大型トラックい突き飛ばされたかのように、横っ飛びに吹っ飛ぶ六機の格闘機。
反射防御機構。戦闘車両たる格闘機に搭載された、自機に向けられた脅威に自動的に対処するシステム。装着者が気付いていない、あるいは対処できないような咄嗟の脅威に対応するための防御。
しかし、この瞬間それは仇となった。
G1に搭載された二系統のアクティブディフェンスのうち反応したのは、反射回避機構。銃口あるいは砲口を察知した瞬間に全力で回避運動を取る機能だ。
もう一つの反射要撃機構は、銃口あるいは砲口に対し瞬時に攻撃を加える機能だったが、由美の読み通りテロリストに奪われたG1は全て初期設定のソフトディフェンスのままだった。ハードディフェンスが非戦闘時に味方の銃口に対し誤射する恐れがあり、納品されたばかりの機体では設定されていないはずだったからだ。
また、七.六二ミリ口径以下の銃口ならば防御姿勢を取るだけの格闘機だったが、由美達が覗かせたのは十二.七ミリ口径――装甲車の装甲を貫きかねない強力な銃口である。ソフトディフェンスは最大限発揮された。
結果……。
「警部の言った通りだ!三人も失神してやがる!」
窪みから飛び出し、キャリコで曳光弾を乱射する陳の雄叫び。
三機が凍った川の上で身を屈め防御姿勢を取り、三機が棒立ちで直立していた。
由美達のゴーグルには直立した三機の装着者がソフトディフェンスによる急激なGで失神したことを示す救難信号が表示されていた。装着者保護のため、倒れないように設計されている格闘機は、その主が意識を失うとその場で棒立ちになるのだ。
窪みから飛び出した由美達の放つ大量の曳光弾は、光の乱舞となり防御姿勢を取る三機に殺到した。
「各員、敵味方識別信号発振!王、馬は斉射継続!陳はフラッシュバン!」
サブマシンガンの中でもトップレベルの発射速度を誇るキャリコの放つ曳光弾の光の乱舞に飛び込みながら、エクスカリバーMk2グレネードランチャーを構え引き金を引く由美と陳。
前後から飛来した音響閃光弾。三機の格闘機の光学と音響のセンサーは、真っ白に染め上げられてしまった。
一瞬の意識の喪失の後、日村竜、仲間茂樹、モハメド・ラ・ディーンの三人はすぐさま意識を回復し、音声入力によって機体に雪の上で防御姿勢を取らせた。それはPMCでの経験ゆえの反射的な所作だったが、由美からすれば下策だった。
格闘機の最大の武器は防御力ではない。その高い運動性能だ。直角に進路を変えることが出来る人型だからこそ敵に的を絞らせず、接近できるのだ。不意の遭遇時には逆に高い運動性能で敵との距離を取り、敵勢力を分析する。しかる後、反撃あるいは逃亡を選択する。
装甲はそのための時間を担保しているに過ぎない。
日村達にもPMCでの格闘機の経験がある。それでも民間仕様と正規軍仕様ではその出力は雲泥の差があった。それゆえに民間仕様機では決して発生しえない予測不能な高Gに晒され、股関節脱臼や頚椎損傷等の傷害を負ってしまったのだ。
日本連邦国防軍――特に最大のG1保有数を誇る第一空挺団では適性試験と称して格闘兵は何度もソフトディフェンスを味わわされる。ほとんどリンチに等しいが、格闘科という兵科にとっては通過儀礼なのだ。
――G1というのは、世界で一番ヒドイ“重力加速度”が味わえるという意味だ。
と豪語するアメリカ海兵隊格闘機教官もいるほどである。
日村達はそのGを恐れソフトディフェンスをハードディフェンスに切り替えたが、それすら由美の思う壺だった。
キャリコM900Aが放つ大量の曳光弾と閃光弾で暗視装置が乱れ、装着者は敵の位置を把握できず、かといって敵がIFFを発振しているため、味方と認識されシステム的にロックされてしまう。
「くそ!IFFを切れ!」
日村が叫んだ瞬間、敵の一人が川面の氷の上に降りて後方から駆け寄って来るや否や、手に持っていた大振りのリボルバー型グレネードランチャーを構えた。
途端、日村機とモハメド機が銃口を向けた。
「仲間!避けろ!」
叫んだ日村だったが、日村とモハメドから自動的に放たれた七.六二ミリ強装徹甲弾は射線上にいた仲間機の背部に命中。IFFを切っていなければ起こり得なかった同士討ち。いくら全身装甲の格闘機とはいえ、吸排気機構のある背面は脆弱だった。
仲間機は背部バイオジェネレーターを撃ち抜かれ、その動力を失った。
茫然とする二人に、銃撃を避けていた敵が発砲。
飛翔体はグレネード。機体が自動的にグレネードを迎撃。
何度目になるか分からないホワイトアウト。敵が放ったのはまたもや音響閃光弾だった。光学、音響の両探査が封じられる。
「全攻撃中止。巡航モードに復帰」
日村は音声入力でそう告げていた。
敵に踊らされていると気付いたのだろう。この引き際を察知する能力こそが、彼をテロリズムの世界で生き残らせてきたといっても過言ではない。
最大出力で跳躍しつつ離脱。
モハメド機が追随して来ていないことには何も言わず、彼は逃亡を再開した。
敵一機の緊急離脱がゴーグルに表示された瞬間、由美は咄嗟に身を翻しながら叫んだ。
「各員、フラッシュバン!スリーカウント!身を隠せ!電子装置を切れ!3!」
自身もそばにあった窪地に飛び込む。
「2!」
川面にいるのは一機のみ。
「1!」
残り一機の姿が見当たらない。
「ファイア!」
一瞬身を乗り出し、引き金を引く。四人で発砲した四発のうち一発は空中で撃ち抜かれたものの、三発は敵の至近で炸裂。強烈な光が敵を覆い隠す。
敵がセンサーを復帰させるまでは数秒。
その間に由美達は雪の上を駆け抜け、状況に応じて隠れられるように掘っておいた窪地に身を伏せさせ、ゴーグルの電源を切る。敵に捕捉されるのはまずいからだ。
キャリコの弾倉を素早く音も無く交換し、予備のグレネードを装填する。そして息を潜める。陳達三人も問題無く装備を整えたはずだ。
敵の反転攻勢を避ける措置だった。三人のテロリストを失神させ、一機を同士討ちで擱座させたが、残り二機もあれば彼女達四人を踏み潰すのは容易い。
戦闘の音が残響となって、次第に本来の静寂を取り戻す谷底。
――あと五分……。
マーシャル中尉が指揮し、ジーンが先導する車両隊が到達するまでの時間だ。データギアを使っていた時、ゴーグルに表示されていた到達予想時刻だった。
しかし、絶望的な時間。
「このゴキブリども!こそこそ隠れてんじゃねえ!」
スピーカー越しの罵声。バリバリと空を切り裂く強烈な射撃音。バシバシと弾かれ舞い上がる雪。
どうやら、敵の一機は頭に血が上って辺り構わず発砲しているようだ。
だが、由美も人民解放軍チームも冷静に銃撃の間隙を突いて行動。訓練と実績を積んだ特殊部隊員はその程度の脅しに心を折られることは無い。経験と理論に裏打ちされた予測によって敵の心理状態と行動を予測し、一手二手先を取り、逆に敵の精神状態を追い詰める。
そのための断熱スーツ――体温を遮断する物。
そのために掘った穴の数々――行動の起点にして遮蔽物にして弾薬庫。
雪原にあるわずかな凹凸を利用して小刻みの移動を繰り返し、射撃することなく銃口を覗かせるだけで格闘機の火器管制装置に揺さぶりをかけ、装着者の精神的動揺を誘う。時折炸裂する音響閃光弾がシステムよりも中の人間の精神を蝕んでいく。
由美に概略を説明されただけで、優秀な戦士達は“格闘機を着た人”を攻略していった。
このときには由美は気付いていた。
――緊急離脱した敵機は、味方を棄てた。陳達三人も気付いたから攻勢を強めたのだろう。
そしておそらく残った敵はそれに気付いていない。あるいは気付いていたが、彼女達にコケにされたと感じて意固地になっているか。
改めて最強のテロリスト――日村竜を意識する。
逃亡したのはおそらく彼だ。敵のみならず味方すら容赦なく切り捨てる、超一流のテロリスト。それだけ見れば冷酷残忍だが、アフガン軍と緑の軍隊相手にこれだけの被害を出させながら、逃げ延びたとしたら、あとの無い闘いをしている世界中のテロリストにとってその姿は、英雄視されるに相応しい。
――称賛に値する非情にして非道のテロリストの鑑。
それが中河由美の日村竜評。
胸中に沸き起こるものはある。しかし、今は目の前の敵を倒す。
陳達の誰かを攻撃しようとした敵機の背に回り込もうとした彼女の耳に届く、突然の銃声。G1の七.六二ミリではない。キャリコだ。
誰の発砲か確認する術はない。データリンクが切られているからだ。
「見つけたぞ!」
わざわざ叫んでくれた敵。
その背に向けてグレネードランチャーを向けたはずの由美。
――いない!
敵機の姿が無い。いや、目は何かをうっすらと捉えているが、それが何かを認識できない。
装甲表面に複雑な文様を浮かび上がらせたりすることで肉眼、あるいは電子機器での捕捉を困難にさせる識別迷彩を使ったのだと思いいたる。だが、燃料消費が悪化する迷彩は逃亡を目的とする敵は使わないと予測していた由美。
それは敵が、由美達を何が何でも潰しに来たという証左。
一瞬の間にそこまで思考するも、構わず引き金を引く由美。そのまま雪の中に頭から滑り込む。
敵の放った徹甲弾が左の爪先の僅か数センチ先を掠め、新雪を激しく飛び散らせる。
辺りに響き渡る絶叫。いや猛獣の咆哮か。
狙い通り、敵は発動したハードディフェンスによって肩を脱臼した。自らの意志で発砲しようとした瞬間、背後から狙われたことで緊急回避的な要撃が自動で開始されたため、自らの右腕が逆方向に向けられたため、咄嗟に力を抜くことが出来なかったのだ。
G1開発において最大の難問だった反射防御機構。G1の元となったEOPというコードで呼ばれる特注装甲外骨格が存在するが、EOPには複数の補助腕が付いており、それらがハードディフェンスを行なうように設計されていた。
しかし、G1は将来的に対機甲戦闘を想定して計画されたため、出力増強が重視され、その一方で補助腕は高コストとメンテナンスの問題で排除された。補助腕を付けた場合、その機体単価は主力戦車を上回るという試算がなされたからだ。
結果、二本の腕でハードディフェンスを行なうという結論に至った。
当然、このテロリスト同様の事故を起こす者が試作段階でも後を絶たなかった。そのため自傷兵器、自殺装甲などと揶揄されたこともあった。
それでも最大の保有部隊である第一空挺団はアクティブディフェンスの搭載を諦めず、結論として兵士の方を慣れさせるという方策、訓練メニュー構成を行なったのだ。空挺部隊という過酷な戦場を想定しているからこそ、最高の個人兵装を求めていた兵士達の必死の戦いだった。
さらにメーカー側も努力し、二十時間ほどの装着訓練で装着者の肉体的、心理的癖を学習する機能が追加された。
それでも事故は毎年起こる。由美も三回の脱臼と二回の亀裂骨折を経験している。
敵の悲鳴を耳にした瞬間、由美は踵を返していた。
目の前の敵を踏み潰し、さらに逃げた敵を追うための武器を手に入れるために。
由美が向かったのは、救難信号を発振したまま停止しているG1の一機。
雪の中を進み、背部のバイオジェネレーターを収めたバックパックのわきにある小さなパネルを開く。
いくら装甲を重視する格闘機だからといって、緊急時に外部から開放する手段が無いわけではない。今のように救難信号を発している機体から装着者を引きずり出す緊急時を想定していなければ、本当の欠陥兵器だ。
パネルの奥のテンキーに、アイリス准将から渡された八桁のコードを入力する由美。
そして、バックパック下側の装甲面にある把手を掴もうとした瞬間、機体を回り込むように身を翻した。
乾いた射撃音とともに激しく火花を散らすG1の装甲。激しく舞う粉雪。キャリコの掃射。
――裏切り。
当初から想定されていた事態。格闘機強奪の後ろに見え隠れする大国の気配。
しかし、そのシナリオの中には由美の暗殺も含まれていたようだ。知らない暗殺者が近辺に潜んでいたのか、それとも作戦開始前のあの談笑は嘘だったのか。
と思いいたったときには、鋭い踏み込みと共に由美の左手に握ったナイフが、接近してきた暗殺者の喉元に迫っていた。
咄嗟に持っていたキャリコの銃身でナイフを受け止める暗殺者。
右手のグレネードランチャーの長大な銃身で殴りつけようとするが、敵は流れるような、あるいは風に揺れる柳のような動きで全身を使って銃身を絡め取り掬い上げた。
重量のあるグレネードランチャーを振り回すため、由美達は三点スリングベルトで身体と繋いでいたため、体勢を崩され、足払いをかけられ雪の上に転がる由美。
見覚えのある体術。
一年半前、特殊防犯課に入ったばかりの彼女を数秒で沈黙させた特殊防犯課強行係統括官、周利鋭。彼の使うものに似ていた。
流れるような所作で銃口を向ける敵。
目だし帽を被った敵の顔面に、左手のナイフを投げつける。
しかし、それさえ僅かな所作で回避し銃口はぶれない。
ところが投げたナイフに次いで、由美の長い脚が蹴り出されキャリコを薙ぎ払う。ナイフを投げる動作で反動を付け、上半身で倒立をするように繰り出された蹴り。
その勢いのままにコマのように回って起き上り、一歩下がろうとした敵の腹めがけて後ろ回し蹴り。柳のような体術であっても、その体幹はむしろ動きが少ないと利鋭とやりあって知った。
そして反動を使い続けながら連続して姿勢を変え格闘戦を行なうのは、課長たる磯垣海司の技術。
蹴りを受け流す敵。
その顔面に向けられた銃口。
キャリコでもない。エクスカリバーでもない。ベレッタPx4。特防課での彼女の使用拳銃。
コマのように身体は回転しながらも、右手に握られたそれは敵の真正面。
キャリコで庇う敵。引かれる引き金。
爆音とともに弾き飛ばされるキャリコ。
さらに銃撃しようとするが弾かれるベレッタ。
敵の左手にナイフ。
瞬間、全く同じ向きに回転し、回転するコマ同士がぶつかり合うように、互いの刃が火花を散らして噛み合う。偶然巻き込まれたエクスカリバーのスリングベルトが切り裂かれ、飛んで行くグレネードランチャー。
暗殺者の左手のナイフ。そしていつの間にか抜かれていた由美のもう一本のナイフ。
一瞬の視線の交錯。
素早く刃を翻し放った由美の渾身の一撃が、同程度の斬撃に衝突。
弾かれ、お互いに距離を取る二人。
――強い。
敵に動揺が見られず、むしろ焦らされる由美。確かに由美の攻撃を敵は捌くので手一杯だったが、そこに焦りは無かった。常に予測された動きに対処しているだけだった。
――所詮、私のは猿真似か……。
最近は何故か相手をしてくれない利鋭との組手、海司との模擬戦、最後は紅上の刀剣術すら使ったが、彼らのようなスペシャリストには到底及ばなかった。
人を速やかに殺すというただ一点においては、この暗殺者は由美の遥か上を行っていた。
「“ビックリバコ”ですか、あなたは?」
わざわざ日本語で発音したその声を、由美は正確に聞きわけた。
そして、思わず笑みが浮かぶ。
「余裕ね、馬寛中士?」
名を口にされたことに動揺は無い。隠すつもりはないということだ。そして、由美を殺す準備が出来ているということでもあった。
「正直ここまで手こずるとは思いませんでしたよ。私の動きにも対応しているし、これでもかというくらい生き汚い。もうちょっと潔い方かと思いましたよ」
すっと左側に回り込むように足を動かす由美。
流れるように動き、由美との間合いを詰める馬。
「悪かったわね。空挺団では生き残ることが第一なのよ」
「本当に厄介な軍隊ですよ、日本連邦国防軍。戦争犯罪者と帝国主義者の巣窟のくせに、今じゃ世界の英雄気取りですからね」
「それがあなたの本音?」
「驚きましたか?」
「ええ、とっても。まさか同僚を二人も殺すなんてね」
「同僚?田舎者のくせに迎合主義にかぶれた連中に、生きてる価値なんてありません。党も彼らの処分をほとんど決めていましたからね」
状況からの推察だったが、馬はあっさりと二人の自国兵士を殺したことを認めた。
会話をしながらも互いの間合いを維持し、雪原を動く二人。
「意外ね、あなた黒孩子じゃないのね?」
鋭く首筋を狙って突き出された刃。
下から斬り上げ迎え撃つ由美。
火花と共に刃が交錯し、互いに入れ違う二人。
「もう終わりです」
淡々と宣言する馬。幽鬼のようにゆらゆらと身体を動かし、複雑怪奇な動きで由美へと迫る。
その静かにして苛烈な殺意に込められた物がどんなものだったのか、由美には分からない。
だが、由美は笑みを浮かべた。
「残念。詰めが甘いわ」
え?
という一瞬の声だけを遺して、馬の身体は折曲げられた木の枝のようにくの字になった。繋がってるのは背骨一本のみ。それ以外は強烈な横薙ぎの重圧に引きちぎられ、鮮血と臓腑を撒き散らし、そして雪に倒れた。
――詰めが甘い。
装着者が重傷を負っているとはいえ、未だ敵格闘機との戦闘中に余計な会話をしていた暗殺者に対する、冷徹な評価。
意志さえ伝われば、たとえ装着者が重傷を負っていても格闘機は戦闘できる。機体の骨格と炭素繊維筋肉が装着者の身体を支え、動かすのだ。
まるで操り人形のように。
テロリストの操るG1が音と姿を消して接近していることを、由美は聴覚だけで把握していたのだ。そして、最適な位置へと馬を誘導した。
――ごめんなさいね。生き汚くて。
これっぽちも思ってないことを、口の中で呟いていた由美は、その瞬間には雪の上に伏せて転がるように見えない敵との距離を取った。
同時にゴーグルの電源を入れる。
暗視映像が眼前に広がるが、馬の肉体を引き千切った怪物の姿は無い。認識迷彩はまだ稼働していた。
必要なのは雪の動き。
そして耳に届く僅かな音。
僅かに上体を逸らす。
眼前を吹き抜けるごうっと鳴る風。
続いてしゃがむ。
頭上を掠める見えない何か。
そのまま、右側に転がる。
白い雪を盛大に舞い上げながら突進する見えない巨人。
そのまえにゆらりと立ち上がる由美。
確かに由美は利鋭のような天才でもなければ、海司のような超人でも、ジーンや紅上や副島のような特技を持っているわけではないし、馬のような暗殺者ではない。
しかし、格闘機――歩兵用装甲強化兵装機構というシステムの運用に関しては日本最高のスペシャリストといえた。
雪の動きと、格闘機の発する炭素繊維筋肉とアクチュエーターの僅かな音で敵の全身の挙動を把握し、僅かな動きで避け続ける由美。
彼女の目の前で、僅かな駆動音から姿の見えない敵が動揺しているのが手に取るように分かる。
視界の隅の時刻表示。
――遅刻ね……。
長い七分だった。
すっと左手を差し出し、指先で手招きをする。
「来なさい。クソガキ」
何故、このとき彼女は敵を挑発するような真似をしたのだろうか。
――八つ当たりですよ。
後年、彼女はそう苦笑してみせた。
ともに戦った部下全員が戦死した。どうしようもない理由で戦死した。彼らを家族のもとへと返すという約束を果たせなかった。
あと数分、ジーン達の到着が早ければ。もう少し部下の様子に気をかけていたら。そもそもテロリストどもがこんなくだらない事件を起こさなければ。
そんな色々な感情が、彼女の中で荒れ狂っていたのかもしれない。
それが、ただ一人この場に残ったテロリストに対する挑発の理由。
憤怒の気配で飛び込んでくる敵。
その敵が突然姿を現した。上空から降り注ぐ光で輪郭が顕わになり、動揺したのか立ち止まってしまう。
しかも、轟く緩慢で重々しい銃声。車両隊の到着。
「終わりよ」
徒手空拳で格闘機の懐へと一歩踏み込む由美。