その3
降り続ける雪が緑のまだらとなって視界を横切る。真っ黒の視界にそれだけ緑色に浮かび上がる感覚は奇妙な圧迫感を与える。
「ヘイ、リュウ。いつも思うんだが日本人ってのはどいつもこいつもこういうのに慣れているのか?」
近距離のレーザー通信に日村竜は舌打ちした。
右後方を見ると、西洋の甲冑のような金属板で形作られた人影にもう一つの似た姿の人影が近寄って行くところだった。
それを確認した日村は再び前進を始める。
ヒ化ガリウム素子と赤外線受像素子に併せて音反響解析によって非常に鮮明な視界を得られる相模原重工製格闘機――歩兵用装甲強化兵装機構G1ジャッカルだったが、光学探査も熱探査も音反響解析の精度すらも雪のせいで著しく低下していた。
その不安が先の通信――モハメド・ラ・ディーンの愚痴となって表れていた。
しかし日村達六人はファイザーバード駐屯地から格闘機を強奪したばかりであった。基地を脱出する際には戦闘機動を発揮させた六機のG1だったが、市街を抜けた今は上空からの探査を恐れ、静粛モードに切り替えていた。戦闘機動中の格闘機は、飛行中の航空機からは容易く発見されるほどの音と熱を発するし、燃料たるブドウ糖溶液の消費も激しいからだ。
格闘機強奪後コクチャ川を下り、彼らは国境の街イシュカッシムへと向かった。ファイザーバードからより近い国境クワハン方面ではないのは、クワハンには空軍基地があることと、人口密集地が多いことが挙げられる。そして、近い方にはアフガン軍も主力を投入するという考えもあったと思われる。
ファイザーバード近隣に格闘機と戦って被害を最低限に抑えることが出来る部隊は、残念ながらアフガン軍には無かった。歩兵連隊を丸々一個投入しなければ、この山岳地帯では格闘機六機を止められないだろう。となれば軍はクワハンかイシュカッシムのどちらかに主力を向ける選択をする。
その可能性が高いのはクワハン。
そしその推測は正しかった。ただまさか近隣アフガン軍の全戦力がクワハンに展開しているとは、日村達も考えていなかったようである。
初期の逃走に成功した彼らであったが、その目的については様々な憶測がある。アフガニスタンとキルギス、二つの緑の軍隊国家に挟まれ相対的に影響力を失いつつあるタジキスタンへの軍事機密流出。その見返りのテログループへの支援の取り付け。あるいはその陰で暗躍するより大きな国による軍事機密搾取作戦。あるいはタジキスタン国内で格闘機によるテロを実行し、アフガン・タジク関係を悪化させる。
そんな流れはあるものの、テロリストの究極の目的は大概ひとつ――テロリズムを起こすことである。
テロリズムとは、元々フランス革命におこなわれた九月虐殺に由来するという。この際の恐怖政治のことをテロリズムと呼んだのがきっかけだそうだ。
現在ではこの言葉の概念は極めて相対的なものとなっており――国家が一方的に敵国をテロリストと見做すような――その用法には困難を伴なう。
しかし、相手に与える物理的被害よりも心理的な衝撃を重視する暴力行使ととらえることが出来るだろう。言葉は酷いが、民間人を虐殺したところで国家や組織への物理的経済的損失は大したことではない。ところが、それが報道され多くの人達が目の当たりにすることで多くの人達が、困惑し恐怖し、あるいは怒りを抱くのである。
日本においても日本赤軍の事件や地下鉄サリン事件でなんの関係も無い人々が無惨にも害される映像に恐怖し、怒りを覚えた。
一方で実際の被害は大したことではなかった。地下鉄サリン事件後、すぐに東京都の地下鉄網は復旧し、9.11テロもニューヨークやワシントンの世界的地位を下げることは無かった。
では重要なのは何か。
それは映像や文章として広く被害が流布されることで、多くの人達に動揺をあたえることなのだ。結果的にはどちらも首謀者の意図していた方向とは逆の結果となったが、――サリン事件の後、新興宗教に対する社会の目は厳しくなり、9.11の後アメリカ国民の怒りはイスラム原理主義へと向かった――それでもその影響は計り知れない。
炎の杜と呼ばれるテログループも根幹では同じであった。
二〇二二年に結成された全日本学生平和連盟は日本連邦国防軍の朝鮮半島有事への参戦に反対する学生運動だった。
ところがクーデター首謀者だった中澤志朗中将の指揮する統合軍が多大な戦果を挙げ、戦争を短期で終結させたことで国際的な英雄としてまつりあげられると、国内マスメディアの反戦キャンペーンの甲斐もなく連邦国防軍に一定の評価が与えられることとなり、全平連の活動はたちどころに下火となった。
ところが前述のように、国際世論は朝鮮統一戦争後の日本連邦国防軍により大きな期待を寄せてしまった。
これを連邦政府が各州軍を凌駕する強大な軍事力を得る機会と捉え、当時の伊藤静子総理大臣が連邦政府直轄中央軍を増強する機動展開軍構想を発表したことで事態は暗転することになる。
二〇二四年、全平連は再起する。都内各所はもとより全国の主要都市で大規模なデモ活動を頻繁に繰り返すようになる。
何故、日本全国でデモが拡大したのか。それは機動展開軍創設を含めた連邦国防軍法の改正案にその理由があった。
この改正によって機動展開軍は戦略輸送能力や派遣のためのハードル緩和を得た一方、各州軍は連邦政府の指導から今まで以上に離れ、より自由で広範な独自行動権限を手に入れたからだ。
学生達や知識人にしてみれば、これは州が連邦政府と対立する権限を得たと認識されたわけだ。
これは概ね正しい。クーデターまでの百四十年間東京のために切り捨てられてきた地方にとって、連邦政府とは仮想敵の一つであった。表向きは日本全体の発展に協力してはいても、各州は連邦政府から権限を縮小されたり力を奪われたりすることを常に警戒していた。
この時の連邦国防軍法は州にとっても、渡りに船だったと言える。これ以降、次々と州は連邦政府の機能を地方に移管していく工作を繰り広げて行くのだった。
そして、その果てには日本連邦国防軍全体が互いを牽制しあうために増強されていくと考える市民が増えて行ったのである。
実際には予算の範囲を超えた増強はあり得ないのだが、当時はクーデター後の好景気がひと段落したこともあり、景気後退の人々の不満とマスコミのネガティブキャンペーンは全平連に数十の関連団体を生み出していくことになる。
しかし、いつの時代も情熱を持った若者達の行動は過激化する傾向にある。
デモは次第にエスカレートし、暴徒化することもしばしばあり、伊藤内閣が機動展開軍の基幹戦力に米海軍の通常動力正規空母を買い受けると発表した二〇二四年十二月、ついにデモ隊は四谷交差点で警官隊と衝突。JR四ツ谷駅が炎上する事態となる。死者十五名、負傷者四百名。デモ隊の中に手製のテルミット傷痍榴弾を持ち込んだ者がいた最悪の結果だった。
この事件で人々の反戦熱が醒めたのは実に日本人らしいと言わざるを得ないが、この時より全平連は元の学生団体に戻り、事態は鎮静化したと思われていた。
ところが二〇三四年インドネシアにある相模原重工業の航空機組立工場が襲撃される事件が発生する。犯人六名は自動小銃と携行対戦車榴弾で武装しており、工場労働者千三百二十名を人質に立て籠もった。
彼らは自らを全日本学生平和連盟革命的遊軍――炎の杜と名乗り、広大な組立工場を巧みに使いこなし、また突入部隊の指揮を一本化できなかった政治的な問題もあり、多くの被害を出した。
驚くことに、犯人グループは二人が射殺、二人が逮捕されるも、残った二人には逃亡を許し、グループの組織性、犯行の計画性、そしてテロリスト個々の能力の高さが窺える事件となった。軍事関係者の間では、テロリストの籠城戦の見本としていまだに研究されている。
ではいかにして彼ら――炎の杜はそれだけの実力を得ることが出来たのか。
残念ながら、世界中に広がる民間軍事請負企業、ひいてはその支援を要請することが多い緑の軍隊やアメリカ軍の影響だった。彼らテロリストは世界中で活動するPMCに参加することで、ノウハウや技術を習得し、それを多くのテロ事件で駆使していくのである。特に日本人テロリストの活動は被害が大きく、そして逃亡を許すケースが非常に多い。今まで五十名が確認され、現在も十四名が指名手配中であった。
そのうち二人が日村竜と、彼の後ろをG1を着込んで進む仲間茂樹だった。
日村は、日本連邦国防軍人の父親とイラク人の母親の間にイラク連邦共和国サマーワで生まれた。父と母は、父が戦地を点々としていたため結婚はしなかったが、息子の竜は日村姓を名乗ることが許され、サマーワ市の政策にも守られすくすくと成長していた。
そんな日村少年が初めて戦争に直面したのは、十歳の時。当時仲が良かった友達と共に、友達の父親が警備していたゲートを訪れたときだった。
イスラム過激派やシーア派、スンニ派の闘争から逃げ出し、緑の軍隊の庇護を求める人々や、通商を求める隊商で賑わっていたゲート。その日は避難民の列が普段よりも長かった。
そのような日は一般市民や子供達のゲート見学を、交戦規定で禁止している緑の軍隊。避難民の中にテロリストが紛れていることもあるし、豊かなサマーワ市民と貧しい避難民の間に諍いが起こることもあり得るからだ。
しかし、日村少年とその友人は隙を見てゲート施設内に忍び込んだと思われる。二人が正式に入構した記録が無いからだ。
そして、事件は起きた。
アバヤと呼ばれる黒い布で目と手足の先以外を全て覆っていた十代前半と思しき少女が、ゲートの眼前で爆発したのだ。二発のRPGと大量の釘を抱いての凶行だった。
この事件による死者は避難民二十名とちょうど通りかかった隊商を警護していたPMC六名。そして六十名ほどの重軽傷者だった。
その中には日村少年も含まれていた。幸い堅牢な車止めブロックに爆風を防がれ、鼓膜を破る程度の怪我であったが彼の友達は違った。
しかし、彼は友達について語ることはなかった。
夕方になって友達の両親が息子の行方が分からないと通報があり、念のため緑の軍隊は身元不明の遺体の遺伝子照合を行なった。日村少年を守った車止めのそばにあった遺体が合致したのである。爆風によって胸から上の左半分を失った無惨な亡骸だった。
日村がその日のことについて語ることは無かった。事件の日どうやって施設に忍び込み、どういう経緯で事件に巻き込まれたのかは謎のままだ。大人達も少年の心の傷をいたずらに広げることを躊躇い、深く追及することは無かった。全ては彼自身の心の裡に秘められたままとなった。
その後は平穏な学生生活を送った日村少年だったが、当時の彼を知る者は社交的で明るく振る舞う青年だったが特定の友人を作るような人物ではなかったと言う。
二〇三七年、彼は緑の軍隊に参加する日系PMC、アシガラ警備保障に就職した。母親は息子が緑の軍隊に志願しなかったことは残念に思っていたが、緑の軍隊に協力する日本のPMCということで一応は祝ったようだ。
アシガラ警備保障は元日本連邦国防軍少佐が部下であり連隊最先任曹長を務めていた准尉と始めたビジネスで、最大の売りは連隊最先任曹長による教育訓練だった。警備の依頼ももちろんあったが、新人オペレーターの基礎訓練や他のPMCオペレーターに状況に応じた様々な訓練、問題を起こしたオペレーターに対する再教育など教育任務をメインとする珍しいPMCだった。
報酬は決して多くはないが、多くの技術を学べるということで人気のPMCでもあった。その分訓練内容は厳しく脱落者も多かったが、日村は順当に乗り越え卒業した。その後いくつかのPMCを渡り歩き、その中には紛争地帯で汚れ仕事を請け負うような企業もあったようである。
しかし彼の名前と顔が政府機関にマークされるようになったのは、二〇四六年八月の東京湾ベイランドシティ、ジオ1フロアにあったファーバードモールの爆破事件である。死者行方不明者二百三十七名という日本犯罪史上最悪のテロは、ショッピングモールを丸ごと崩壊させるという大胆な手口によって成された。
その捜査線上に浮かび上がったのが日村竜。
彼はその後、捜査機関の網をことごとく潜り抜け、マラッカ海峡で軍需物資を満載した貨物船を奪取、中身だけを持ち去り船を自沈させ海峡の交通に混乱を与え、さらにはイラク、トルコ、イスラエルの国境地帯でイスラエル軍にゲリラ攻撃を加え、三国の緊張状態を引き起こした。
いずれの事件も、情報機関は事前に日村の姿を捉えることは無かった。様々な伝手を辿ってテロ対象の関係者に接触し、言葉巧みに誘導し情報を入手、あるいは計画に加担させ、速やかに計画を立案、武器は現地調達――という迅速な手腕が彼の特徴だとされる。
ショッピングモールを爆破した時には、モール内の日曜大工や園芸用品、修繕区画から爆発物を作り出し、要所要所に設置し起爆した。おそるべきは、彼が三日三晩従業員に察知されることなく建物内に潜み、犯行を成し遂げた大胆さだ。
設置後速やかに彼は国外に脱出しており、わざわざ自身の犯行を見届けるようなことはしない。
とにかく彼は速かった。
ファイザーバードの事件では初めて事前に彼を捕捉できたわけだが、それでもジャララバードで捕捉してから、六百五十キロ離れたファイザーバードで事件が起きたのは六十時間足らずのことだった。犯行の準備、移動などを考えるとこれは驚異的なことだった。
事件から四時間――彼らはタジキスタンとの国境の街イシュカッシムまであと十キロという地点に到達していた。
ここにきて日村は初めて違和感を抱いたようだ。
左手を後方に挙げ、全員を停止させる。
どんよりと重く垂れた雲。満月に近い月は雲の上にあり辺りは深淵の闇。しかし雪は止んでいた。
険しい山肌に挟まれたなだらかに続く白い回廊に、音一つない静謐。
動体反応。
光学センサーが瞬時に拡大され、一頭の獣を映し出す。
ユキヒョウ。淡黄色の体毛を持つパミール高原の王者。自らの領域に足を踏み入れた破壊者の気配を察知したのか、それとも装甲にこびり付いた血の臭いを嗅ぎ付けたのか、王者は静かに日村達を見下ろしていた。
不意に獣は何かを感じ取ったかのようにその目を日村達の進行方向へ向け、その身を翻し闇の中に溶け込んで行った。脱兎のごとき逃走。そこに王者の威厳は欠片も無い。
「気を付けろ!」
危険を察知した日村が叫んだが、既に遅かった。
電波反応を捉えるG1。
だが、その位置を確認する間もなく、耳障りな警告音と共に横殴りの衝撃が彼を襲った。
彼の誤算は、日本連邦国防軍史上最速と称される大胆にして無鉄砲な戦闘指揮官が敵だったことだ。