その9
大変遅くなって申し訳ございません。
その老紳士に出逢ったのは、志賀公輔が高等学校卒業を決めた十五歳の九月だった。
「君は、志賀公輔くんだね。はじめまして」
宇都宮市内の児童養護施設に帰って来た公輔を待ち受けるように、彼は佇んでいた。
少し大きめだが、古い民家を補修しただけの施設の、これだけは立派な瓦葺きの門の前にいた老人は、老人と呼ぶには上背もあり背筋も伸びていた。
ただ、身に纏う空気だけは老人のそれだった。静謐で柔和で、ぽっきりと折れてしまいそうな、そんな儚さ。節くれだった右手で突く杖のせいかもしれない。
当時の公輔はそんな濃紺の三つボタンスーツに身を包んだ老人との面識はなく、当然、名前を知られていることに警戒を示した。
そんな公輔を見て、老紳士はさらに笑みを深めた。まるで孫の成長を喜ぶかのように。
「閣下!」
二人の間の沈黙を破って入って来たのは、中年の女性。公輔達十人の児童を育てている施設長の風間容子だった。庭の手入れをしていて玄関先に気配を感じたのか、慌てて門を開け、老紳士のもとへと駆け寄った。
――閣下?
施設長の口にした敬称に首を傾げる公輔。外国の元首や軍隊の偉い人にしか付けられない呼び方だ。一瞬、日本人ではないのかと思ったが、たぶん違うだろう。
しかし、その敬称が正しいのだとするならば、もしかするとこの老紳士は爵位を持っているのか。そんな大物が、こんな地方都市の小さな児童養護施設に一体どんな用事があるというのか。
「どうなさったのですか?」
「いえ、近くまで寄ったものですから」
そう答えた老紳士はちらりと公輔に視線を投げた。風間もそれに気付く。
「あら、公輔くんおかえりなさい。どうしたの?」
「ただいま、容子先生。――その人は?」
「はじめてだったかしら、うちのスポンサーの中澤閣下よ」
なんでもないことのようにあっさり告げる風間。中澤と呼ばれた老紳士ははにかむように笑う。
「風間さん。その“閣下”はやめていただけませんか」
「そうはおっしゃっても今や男爵閣下ですから。まさか、将軍とお呼びするわけにもいきませんし」
将軍ということはやはり軍人で、しかも爵位を賜るような功績のあった人物なのだろう。
しかし、中澤は困ったように白髪の後頭部を小さく掻いていた。風間の振る舞いに翻弄されているのがありありと見て取れた。
「容子先生。立ち話もなんだから……」
「あら、ごめんなさい」
公輔の言葉で、やっと風間は中澤を応接間に案内した。
驚いたことに中澤が二人きりで話がしたいと言ったので、公輔はソファの対面に座ることになった。
風間の淹れたお茶を中澤は美味そうに飲むが、彼には味を感じている余裕は無かった。
「閣下はその……」
意味も分からず二人きりにされて困惑していたが、自ら話を切り出すしかないと思ったのだが、相手の反応は予想外だった。
「閣下はやめてくれ。戦後初めて爵位を与えられたから、みんな騒ぎ立てるんだが、私はそんなことのために働いたわけじゃないんだ」
困り顔の老人は、いきなり愚痴をこぼし始めた。
「は、はあ……」
「まったく予想外だったよ。先代陛下を元首に戻したら、いつの間にか勲章と爵位が並んでて、私もびっくりしているんだ。いい加減、引退したんだから、放っておいてもらいたいものだ」
元首に戻したら、という言葉は不思議と実感のこもった言い方だった。まるで三十年以上前のクーデターの当事者のような言い方だ。
いや、三十年前なら現役の軍人だっただろうから、それも当然だと彼は思い直した。
「いや、こんな話をしに来たんじゃなかったな……」
その言葉は、暗に公輔と話があってここに来たのだと告げていた。
緊張が走る公輔の目の前で、中澤は風間の淹れたお茶に口を付けた。
「高校卒業を決めたらしいね」
彼が高等学校の全課程を修了したのは、この一週間前の試験の結果だ。
つい先日の話を何故この老人が知っているのか。男爵がたかが孤児に興味を持つ理由に、公輔は思い至らなかった。
押し黙った公輔に、苦笑いを浮かべる中澤。
「我々は君のことをよく知っているよ。君が生まれたその瞬間から」
息を呑む公輔。一瞬、何を言われたのか理解できなかった。しかし、その意を理解した時感じたのは言い知れない絶望。
「俺を……棄てたのか」
この柔和な、優しそうな老人ですら自分を遺棄した。それほどに自分は劣る存在なのか。
確かに風間は育ての親として申し分ない女性だ。公輔達兄弟姉妹を家族としてとてもよく面倒を見ており、愛情も感じている。
しかし、外の世界はそうでもない。
「そうでは……」
「俺達はいらない子だったのか?」
吐き捨てられた痛み。自分の言葉に自ら切り裂かれるような激痛。
外の世界は残酷だ。児童養護施設の子供だというだけでよそよそしい態度になる大人。悪意なく酷い言葉を投げつけて来る同級生。弟妹がいじめを受けていたようなことも頻繁にあった。教師達もどこか対応は及び腰だった。
だから彼は力を身に付けようとした。初めは腕力だった。小さい頃から力は強く、普通の子供は太刀打ちできなかった。
しかし、度が過ぎれば大人達が問題にし風間に迷惑が掛かってしまった。彼女に盛大なお仕置きをされたこともある。
そんな風に迷惑をかけたくなかった彼は、知識を増やすことにした。どうすれば相手を正当な手段で屈服させることが出来るのか。人を観察し、知識を身に付け、話術を身に付け、それでいながら大人の前では模範的な少年であり続けた。
全て、いらない子と呼ばれる逆境を跳ね除けるためだった。自分を棄てた親には、どうしてもそうしなければならない理由があったのだ。その証明をするためだった。
十五歳にして高校の卒業を決めたのも、その一環だった。
ところが、自分の出生を知っている人間が眼前にいる。そして突き付けられる、この期に及んでも実の両親が現れていないという事実。
それは自分がいらない子であるという証左ではないのか。
「だから、俺の親は現れないのか?」
なかば縋るような問いかけに、中澤は静かに首を振った。
「死んでるのか?」
「いや。君にはそもそも親が存在しない」
「そもそも?」
馬鹿な。人間に親が存在しないなんて、SFだけの話だろう。現代でも技術が存在しないわけではない。しかし、条約で人造人間の製造は禁止されている。もちろん日本も。
「フィーライン・ナンバー七十一。――君が生まれた時の最初の名前だ」
まるで家電か何かの製造番号を告げるような言い草に、彼はかっとなった。
「俺は人間だ!」
爆音。分厚い木製のテーブルに叩き付けられた右拳。その拳は小指の分だけ木目の中に埋もれていた。
――やってしまった。子供の頃から力の加減が利かず物を壊してしまうことが多かった。普段のおっとりした物腰からは想像もつかない、容子先生の鬼の形相を思い出し戦慄してしまった。
そんな彼の動揺に滑り込んできた声。
「そうだ。君は人間だ」
「は?」
「君は自らの足で立ち、自らの考えを持ち、自ら闘うすべを手に入れてきた。君は、風間中尉やここで暮らす子供達にとって誇りとなる人間だ」
「風間中尉?先生は看護師じゃ……」
「看護師であることには変わらない。ただし防大卒で長年緑の軍隊で戦っていたがね」
驚いたが、なるほど怒ったときの彼女は確かに軍隊を彷彿とさせる。
「数々の紛争地帯を経験した彼女は、自身の軍人としての能力の限界を悟ったのと同時に、我が国にも恵まれない子供達が大勢いることにも気付き、養護施設を作ることを決めたのだ。私はそんな彼女のような人達に、君達を託すことにした」
「君達?」
公輔の問いに、ふっと笑みを浮かべる中澤。
「そうだったな。君には両親はいない。しかし、世界に君達しか持たない、同種の遺伝子を持つ兄弟ならいる」
「兄弟……」
確かにこの施設にもたくさんの兄弟姉妹がいる。しかし、血は繋がっていない。知識を増やしていくに従って、それが小さなしこりとなってきていたことは否定できない。
「同種の遺伝子、ということは血縁ということですか?」
それゆえに、彼の興味を引くには充分すぎるほどの言葉だった。
皺の刻まれた中澤の目尻が大きく動いた。驚いたようだった。そして、困ったように頭を掻く。
「血縁と言っていいかは分からんな。それに一癖も二癖もある子達だから、君にとっては驚きの連続になるかもしれんが。――いや、あれは黒田くんの教育方針のせいかもしれん……」
いつの間にか、愚痴を零し始めた老人に公輔もいつしか笑みを浮かべてしまった。
楯が極秘となっていた当時、彼の言うことは荒唐無稽としか公輔には思えなかった。
しかし、中澤の人となりは信用できると感じていた。
「君達はいらない子ではない。私達は、自分達で君達を育てるには目立ち過ぎる立場だと理解してもらいたい。そのために多くの者達に力を貸してもらっている。私も君を名付けた志賀啓大佐も、君達をむざむざ処分することは出来なかったのだ」
「何かの実験材料だったのですか?」
「そうだ。私達のやってきたことはそういうことだ。どんな綺麗ごとで言い繕うことも出来ないだろう。少なくとも五百人以上を生み出し、四百人以上の子供達を死に追いやった我々の所業は非道な実験でしかないだろう」
そう言った中澤はひどく苦しげだった。
「だから……、だからこそだ。生き残った五十人余りを救いたいと思ったのだ」
たぶん多くの人は彼の言葉を虫がいいと評するだろう。自分で作り出し、実験に使い、大量に殺処分しておいて今更残った子供達を救いたいなどと。
「なら、どうして俺のところに来たんですか?そんなこと、知らない方が幸せに決まってるじゃないですか」
「そうだな。本当にその通りだ。何も知らなければ、君は普通の少し才能のある人間で済む。――だが君は、兄弟達の中でも特に秀でた能力を自ら開花させたのだ」
「飛び級のことですか?」
「いや、それだけではないよ。君は、君の力を制御する自制心も持ち合わせている。社会に対する疑問や反感も持っているだろう。それでも人間社会の構造を理解し、それを利用しようとしている。君が飛び級を決断したのも、そのためだろう?」
それはまるで見て来たかのような言葉であり、実際に公輔自身が考えていたことだった。
だからこそ、中澤の目的を察することも出来た。
「俺を何に使うのですか?」
新たな実験だろうか。
「この国の未来を掴む闘いに参加して欲しい」
あまりにも漠然とした言葉に、絶句する公輔。
しかし中澤は堂々と言い放っていた。そこにあるのは確固たる意志。
そして、彼が今までそうやって生きて来たという確かな重みがあった。
「もちろん、君達は自分の命を大切にしなさい。その果てに私の夢があるからね」
「あなたは……」
誰かと問おうとした公輔の前で、目の前の老紳士はバツの悪そうな表情を見せた。そういう時だけ妙に人間味のある表情を見せる彼を、公輔は既に好きになっていた。
「申し訳ない。まだ、名乗っていなかったね。――私は中澤志朗だ」
それは今の日本を作り出した、その最初の機会を起こした男の名前だった。
彼はまた困ったような笑みを見せた。
「君達を地獄に突き落とそうとする悪魔の名前だね」
公輔は、中澤とその配下の者達の支援によって大学進学をし、さらに野良猫としての高度な訓練を施された。
そして、半年前大手広告代理店に勤めていた彼は、前園龍内閣が募集していた報道官補の追加補充員に応募し、その技能と知識を揮い始めた。
全ては、自分達に居場所をくれた父と呼ぶにふさわしい男の遺言を実行するため。
恩がある。児童養護施設での児童虐待や差別の問題は世の中に数多くある。風間はそんな大人ではなかった。そんな人に預けてくれたし、そのための資金は常に支援されていた。
そもそも、失敗作として廃棄処分されても文句を言えない立場だったのに生きられる環境を用意してくれた。
でも、それだけじゃない。中澤達を知り、野良猫を知り、そして楯を知る中で彼は自分が人類社会を変えていける力を持っていることを知った。
それは本当に強い光だった。光を知るまでは、普通に風間を助けられるくらいに稼いで、一般的な家庭を持つことくらいしか考えていなかった彼だったが、それはあまりにも眩しい光だった。
――この男はそんな光を感じたことはあるのだろうか?
新本牧の戦闘から二ヶ月。梅雨明けはしたものの熱帯夜の続く七月の蒸し暑い深夜、彼ら野良猫は中央区にある浜離宮恩賜庭園内に集結していた。
驚くことに全員集結していた。逆を言えば、全員を集めるのに二ヶ月かかったともいえる。
しかし、それも登場する新たなフィーラインナンバーに対する注目ゆえだろう。
ショートヘアの構成したフィールド――一部の野良猫は冗談のように結界と呼ぶ空間に、彼が足を踏み入れたことを公輔もそして他の猫も同時に感じ取っていた。
しかし、彼らは招き入れた人物の規格外っぷりに再び直面させられることになった。
まさか、その9で第四話終わらず!