その2
志賀公輔の朝はわりと早い。
午前四時半には起床し、朝食の下拵えをしながらお湯を沸かす。そのあいだにキッチンに置かれた端末でニュースにざっと目を通し、気になった記事はメモに取る。
お湯が沸いたら、急須で玉露を淹れる。コーヒーでも紅茶でもなく、二十五歳にして緑茶派を公言する彼。
その間に味噌汁を作り、前日スーパーで買っておいた鮭の切身を焼く。三日前の休みに作っておいたさといも煮も冷蔵庫の中から取り出し、電子レンジで温める。
住んでいる部屋は少し広めの1LDK。フローリングのリビングとオシャレなキッチン――年若くスマートな彼には似合いの住処なのだろうが、その食生活は純和風で質素だ。そのくせ出汁にはこだわったり、米の炊き具合をあれこれと考えたりと手が込んでいる。専業主婦でも絶句するレベルである。
一言でいえば、マメな男。
携帯端末をチェック。仕事関係や交友関係の雑多なメッセージの中に、今日もとある女子高校生からの着信。
毎日毎日他愛もないメッセージを送って来ては、時々遊びに行こうとせがんで来る。向こうは十七歳。こっちは二十五歳。色々問題だらけなので当然手は出さない。
手を出したりしたら、あの上司はすぐにそれをネタに脅してくるだろう。
「ほな、次の官房副長官はオマエな、志賀」
記者会見と閣議以外ではとことんノリの軽い上司だ。
メッセージの内容は、親への愚痴と学校での話題、そして最近お気に入りの和歌。
古典を楽しむコミュニティサイトのチャットルームで知り合い、そのサイトのオフ会の常連の中で二人は飛び抜けて若かったから、彼女が近寄ってくるのも仕方の無かったことかもしれない。
――こんなオジサンのどこがいいのかね。
世間的には若くとも、彼女にとってはいいオジサンだと思う公輔。
いくら知的で、好みが合う大人っぽいとはいえ、歳も離れていて、しかも一般人である。人には決して言えない任務を遂行している彼に、気安く触れていいはずがない。
次の休みを教えてほしいと書かれていたが、適当にはぐらかすしかあるまい。酷い男を演じて、いつか飽きてくれることを願うしかない。
食事を終え、すぐに出勤の準備を行なう。ワイシャツにスラックス。ネクタイを締めているが、上着はウィンドブレーカー。リュックに必要な荷物とスーツの上着を押し込み、玄関に立て掛けてあった自転車を担ぎ外に出る。
エレベーターで降り、マンションのエントランスを掃除していた管理人さんと挨拶を交わし、車道で自転車を跨ぐ。いい加減、公用車を使えと周囲から言われているが、彼は色々と都合のいいこのスタイルを変えるつもりはない。
中野の自宅から漕ぎ出し、山手通りを南下、青梅街道から靖国通りに入る。
新宿。
この街はクーデター後大きく変化していた。
その変化に寄与したのは、二つの法律群である。半ば強制的に郊外、地方都市圏に移住させる過密都市人口分散法と、あらゆる都市の開発のルールを定めた都市開発新法。
明治以来、日本の人口分布は都市集中と地方過疎を続けてきた。その結果が二〇一〇年代の人口減少である。個体密度の低い群で出生率が高くなり、密度の高い群で出生率が下がるのあらゆる動物の基本的な生態なのであるが、それを長らく放置しておいて、人口減少は仕方のないことだと無責任に言い放つのがかつての日本国政府だった。官僚の既得権益や、政治が繰り広げ続けた内輪の政治闘争が抜本的な解決を先延ばしにしてきたのだろう。
転機となったのは、連邦制に移行し日本中に州が次々と誕生する中、北海道がどの州からも見放されるという事態だった。
なくなく日本連邦政府は、東京都と並んで北海道を直轄領とすることになったのだが、困るのは東京都だった。独自に行政を刷新し、高い生産力を誇っていた都にとって道にその力を無駄に浪費させられることには我慢できなかった。
連邦政府も道の将来が、自身の未来に繋がると考え重い腰を遂に上げざるを得なかった。
北海道のインフラ整備と移住促進、税優遇を実施する一方、都内の働く世代や企業に対し増税を実施し、十年で百万人の移住を断行したのである。
この政策は、実は都内にも良好な結果をもたらした。一割の人口減で行政に余裕が出来たので、今まで以上にインフラ管理や都市再開発が断行できたのである。
その柱は三つ。
災害に強いビル群への建て替え推進。
首都高速道路網の再編。
水路並びに緑地の復興による都市災害抑制。
もともと小規模な雑居ビルの濫立が問題となっていた都市部では、大規模災害時には倒壊や火災で多くの被害が出る恐れがあった。また、それにより道路が寸断されるようなことがあれば避難しようとする人達と救難しようという車両で交通網が麻痺し、空中機動力――すなわちヘリコプター等の空中輸送が必須となることが目に見えていたが、予想される被害に対してヘリポート等の必要な設備はあまりにも少なかった。
これを解決するために、強靭な構造体を持ちある程度の規模を持つヘリポートや災害時の一時受け入れ施設となる能力を持つ建築群が必要だった。
このため、各地区ごとの地権者ビル所有者の意志を集約することが必要であり、広い土地を確保し大型建築に建て替えさせるルール作りが行われた。権利の割り当て、相続の手続き、権利喪失の際の手続き等について詳細に法律で決定し、しかも基準を満たした災害に強い建築には固定資産税と建築からの収入に対する所得税の五年間非課税という優遇まで定められた。
実際の現場には都や連邦職員も多く動員され、これらの地道な活動によって個人地主も多く参加し首都からは多くの雑居ビルが姿を消し、整然とした街並みへと変わっていった。
また、人口減と土地の集約は今までの無駄遣いを表出させることになり、首都高速と主要幹線道路が見直され、余った土地では緑地帯の整備や地下河川の復興が行われるようになった。
たとえば、日本橋では土地整理により高速道が移転したことで重要文化財である橋梁が一九六三年以来六十年ぶりに空を取り戻すことになった。
その周囲の水路も多く復興し、ヒートアイランド現象を幾分和らげる効果を発揮するとともに、新たな観光スポットを生み出し予定以上の経済効果を生み出した。
新宿も、副都心のビル群はその装いを大きく変化させることは無かったが、新宿駅周辺は大きく様変わりした。今まで複数のビルに分散していた大手電機量販店は店舗の集約に成功し、ある建物ではロの字に飲食店を配置しその内側を食材等の搬入口とすることで建物の周囲を人と自転車のみの通行とさせるなど新しい試みも起きている。
しかし、そんな駅周辺と異なり新宿区役所が存在するはずの歌舞伎町は二〇五二年の今もあまり変化が無い。
中心地に地上三十一階建ての大規模施設が君臨しているが、その周囲の街並は前世紀と大差無い。
税制や法ではなかなか動かない人々、そして権利関係も定かではないこの土地を再開発するには、常識的な感覚の行政職員には非常な困難が付きまとう。
靖国通りを走っていた志賀公輔だが、寄り道をするように歌舞伎町一番街へと自転車を滑り込ませた。
通りの一角にある喫茶店に入る。古い雑居ビル――それゆえに今は相当な税負担を強いられているはず――の二階にある喫茶店はあまりにも目立たない。
朝六時の繁華街には、平日でも酔っ払いがうろつき、人相の悪い多国籍の人達や若いホストもちらほら見受けられる。
自転車は目立たないように置いて、しっかり施錠しているが心配は尽きない。
しかし、彼は週に一回は訪れることにしていた。
「なんだ、あんたか」
いきなりな挨拶である。
間もなく閉店時間となる喫茶店にいたのは、入口近くのカウンターに座った中年男とその連れと思しき派手な若いホステス。そして奥のテーブル席でくだを巻いている数人の若い男達。派手めの服装からホストだろう。
そんな中に身綺麗な公輔の登場は違和感を与えたらしく、若いホストの一人から睨まれた。
そして、同じように迷惑そうな態度を隠そうともしなかったのは、入口左側のカウンターにいた中年男。白いポロシャツに紺のサロンを身に付けた細身だが、なかなかに鋭い視線の持ち主である。
「いやだなマスター。そんな熱烈に歓迎しなくてもいいじゃん」
公輔のそんな軽口を、マスターは露骨に無視した。
「いつものでいいか?」
そう言ってカウンター席にコースターとおしぼりを置く。軽口を無視しても無碍にはしないが、それも当然のことだった。
以前、マスターは渋谷の道玄坂で大人数のチーマーに絡まれてしまった。若い頃は相当に腕を鳴らした彼だったが、あまりに多勢に無勢だった。しかも若いチーマーというのは加減というものを知らない。
そこにふらりと現れ、若者達を追い払ったのが公輔だった。以来、公輔の情報収集の一翼を担わされているという自覚は、マスターにもあった。
もちろんマスターは公輔が公職に就いていることは、メディアを通じて知っていた。非常に露出の多い任でもあったからだ。
しかし、マスターがもたらした情報を公輔がその職務で活用している様子もなく、またそんな人間がどうして十数人の若者達を追い払えるだけの武術を身に付けているのかという疑問もあった。
公輔が席に着いてしばらくすると、マスターがカップに入ったカフェラテを置く。
一口、口を付ける。いい香りだ。甘すぎず苦すぎず、しかし熱いくらいのエスプレッソがいい刺激となっている。
「最近、変わったことない?」
ここまで単刀直入なのもいかがなものだろうか、と思うマスター。
「報道官様が知っていなきゃならんような話は無いぞ」
「そんなことはないよ。情報は腐ってなければ多いに越したことは無いし」
公輔のそんな言い草に、マスターは深くため息をついた。
「歌舞伎町は昔と違うんだよ。エリートさんは一体、何を期待しているんだ?」
国家権力、警視庁が常にその力を注いできたのは、確かに歌舞伎町や渋谷などの非合法組織が幅を利かせている繁華街であり、それらの組織の弱体化はここ何十年と絶え間なく続けられている。クーデター後の警察改革により国家警察たる警察庁が解体されて後も、ひたすらにそういった勢力を排除し続けてきた警視庁の努力は今や輝かしい栄光となっている。
しかし、問題は山積みだ。
「ベトナム人、フィリピン人あとオージーの様子は?」
「大した問題なんか起こしてねえぞ」
怪訝な表情を浮かべるマスター。
「だいたい白人なら六本木か赤坂だろ?この辺には寄り付かねえよ」
「まあ、そうだね。でさ、最近大物とか見かけた?」
「芸能人ならちらほら。お偉いさんは少ないよ。あんた、何が知りたいんだ?」
「いや、別に大したことじゃないよ。マスターの周りが今日も平穏なら、万々歳」
おどける公輔。眉間の皺を深くするマスター。
視線を巡らせてすっきりとした清潔な店内を見回す公輔。細長い店内は、入口から右側にカウンター席と奥に六人がけのボックス席二つ。左側の壁には化粧室への扉と、木目の化粧材で隠された収納棚。
ふと、奥のボックス席に座ったホストの一人と目が合った。
いや、合ってしまったというべきか。若いそのホストは、公輔が喫茶店に入った最初から彼に露骨なほど敵意のある眼差しを向けて来ていた。
年は二十一、二。華美にならない品のいい華やかなスーツを着ていることから、若いながらそこそこ稼いでいるようだ。
「マスター……」
彼は、一体どんな若者かとマスターに問いかけようとした時、その若いホストは椅子を鳴らして立ち上がった。
その視線は真っ直ぐ公輔に向けられている。
――はて、見たことのない顔だけど……。。
と、敵意剥き出しの視線に身に覚えの無い公輔。
マスターはちょうどカウンターの下の棚で何かやっているらしく、こちらには気付いていない。
大して広くもない店内なので、ホストはすぐに公輔の眼前に仁王立ちした。
近くに座っていたホステスとその客の男も、胡乱な視線を投げて寄越す。
「おい、あんた」
「俺か?」
とぼけたつもりはないのだが、結果的にそういう風になってしまった公輔。その態度に苛立ちを顕わにするホスト。
「そうだよ。あんただよ」
「……えっと、なんか用か?」
至極真っ当な返答をしたつもりだったが、若いホストにはそうでもなかったらしい。
その時になってようやく顔を上げて、事態に気付くマスター。その表情が目に見えて青褪めていく。残念ながら、それは公輔の身を案じてのことではない。
「てっめえ。マスターに散々いちゃもんつけておいてなんだその言い草は」
「は?」
素でぽかんとしてしまった公輔。思わずマスターの顔を窺うが、気まずそうに目を逸らされた。迷惑といえば、迷惑――その表情には書かれていた。
――裏切者め。
罵るのは胸の裡に秘めた公輔だったが、若いホストはさらにそのボルテージを上げてしまったようだ。
「なにシカトしてんだ、おっさん」
公輔の胸倉に伸ばされるホストの右手。
払おうと思えば払えたが、彼の様子に何かを察してなすがままにした公輔。
「あんたさっきからマスターにごちゃごちゃ言ってただろ」
「やめておけ。その人は――」
実力行使に今更慌てたマスター。
だが、無情にも彼の言葉を遮るようにカウンター上のカップが飛び跳ねるほどの衝撃が走った。