その8
眼下に広がる光の群れ。
巨大な塀に囲まれた箱庭の中に押し込められた無数の光。
窮屈な世界。
しかし、そこにある輝きの多くは、外に出ようと蠢き、もがいている確かな命の光。
「相変わらず街を眺めるのが好きだな」
潮風に紛れて届いたのは、淡々とした聞き慣れた声。
「お前もね」
いつの間にか現れたすらりとした長身の青年。
堤防の上に立ち、周囲を見回す二人。夏の終わりの生臭い漆黒の潮騒。そして、その向こうにも広がる星々のような無数の輝き。
そこは、東京湾ベイランドシティ特別区――その最も古く、行政と経済の中心であるセントラルを六角に囲む、地下から二百メートル直立する堤防の海上監視施設だった。
今では東京湾内の大型船舶運航が禁止されているので、悪天候時の海上監視以外に使われることの少ない警備施設だが、周利鋭は特殊防犯課の統括官権限で入場していた。
一方の青年はそうではなかったが。
「また飛び越えたのか?」
堤防の内側は最上層の地面まで十五メートルほど高低差があり、それなりの警備網が敷かれているのだが、彼はそれらを生身で飛び越えて来たようだ。
そんなことが普通の人間に出来るわけがない。
楯――遺伝子操作された人造兵器。生物の進化系統樹から逸脱した、地上最強の生命体。
その最後の生き残りの一人、磯垣海司だった。
「いいのか?尾行が三人いたぞ」
彼の言葉ににやりと笑ってみせる利鋭。
「そういうこと。ここには俺しかいない。海司はここにはいない。入場記録が無いんだから仕方ない」
「特防課の課長と統括官が会話をしていても問題は無い。違うか?」
「俺は精算人の仕事だと思ってるんだけどな」
海司は応えない。
「彼女はどうだ?」
「由美のこと?人が見たら、滅茶苦茶なところがあるように見えるけど、筋は通ってる。いいんじゃない?」
普段通りの口調の利鋭。
「ヤッさんの言う通り、凄い子だね。今日も大立ち回り」
「指揮官としては?」
「俺がBA-163を持ち歩いていたことを咎めていたけど、ライト達がHK416Cをむき身で持ち歩いていても注意しなかったよ。それよりもあいつらの所作をつぶさに観察していたね」
「査定してたのか?」
「いや、それだけじゃないね。緑営のやり方を受け入れる下地はあるみたい。病院の検査の後、ライトと色々相談していたし」
「二係にもAIWS導入できるかな」
「街中での運用法を編み出してくれるかもしれないね」
冗談だったのだが、海司の反応に間があった。
「そうか。それは考えてもみなかったな」
「まてまてまてまて。AIWSで昼間の人混みの中歩くのはマズいって」
「いや、装甲に人の姿を投影して光学迷彩にすれば。街中なら機甲戦闘用の複合装甲は要らないしな」
「それでも、二百キロ近い人間が歩いていたら音だけで分かるだろう」
「そんなものか?いや、駆動音と逆位相の音をぶつければ……」
「真剣に考えないで。なあ、海司。頼むから実現してくれるな。そんなサイバーパンクな社会は見たくないぞ」
「サイバーパンク?」
「ん?知らんの?」
「電気羊とかフチコマとか煮え切らないネズミとか?」
「よく知ってんじゃん。お前、ほんとなんでも読むんだな」
「代表作だからな。興味は無いが」
「ん?」
「楯の方が、戦場では先を行っている」
この男は充分な射程の銃さえあれば、戦闘機を撃墜し、戦車部隊を蹂躙できる。SFの中のサイボーグや人工知能達を、彼は戦闘技術の点においては既に凌駕していた。
「それよりも、格闘機を着たまま警邏できたら防犯効果はどの程度になるかな。いや、クーデター前にもそういう装備はあったらしいしな。でも、パワーダウンすると携行弾数減るな。緑の軍隊仕様は五.五六ミリを八千発積めるけど、そんなに要らないか……。いや、しかし……」
何故か、史上最強の陸戦兵器は思索に耽って帰って来ない。その姿は、頭はいいが、どこか間の抜けた普通の若者にしか見えない。
利鋭と初めて出会った時の、あの鮮烈な印象は欠片ほども無い。
特殊防犯課が発足して間もなかった、二〇五二年十月。
利鋭達湾市緑営は李門に対する報復のため、敵の所有する倉庫を破壊する作戦を開始した。緑営の活動領域内で麻薬の売人を捕まえて警察に引き渡したことに対する報復か、二人の仲間が殺され、一人が重傷を負った。彼らがするのは、その報復だった。
一人が生き残ったのは、明らかに奴らのメッセージだった。その仲間は、二人の仲間が拷問に遭い、嬲り殺される一部始終をつぶさに見せられ続けたのだから。
――やり返せるものなら、やり返してみせろと。
罠。その可能性はもちろんあった。
ならば、それを跳ね返してみせよう。当時の周利鋭はそう思っていた。六年前の自身の置かれた境遇を忘れていたのかもしれない。
いや、過去の苦い記憶が彼を、克服という甘い言葉に走らせたのかもしれない。
暗殺官という名の、はらわたを煮えくり返らせるような、汚辱に塗れた自分の過去を清算するために。
だからこそ慎重に動いた。まるで、かつての四十七人の浪士達のように彼らは情報を集め、ひたすら息を潜め、守るべき地元の人達から腰抜けと言われようが、李門構成員の挑発を受けようが、それでも時を待った。
半年。赤穂浪士には到底及ばないが、それだけの時間を罵られ蔑まれ、耐えてきた。
その間に、仲間達の心に積もっていく、じっくりと弱火であぶり続けられたかのようなもの。
料理ならば美味なのだろうそれは、積もりに積もり、余分なものを削ぎ落とし、濃縮され、苦みと熱ばかりが感じられる、一度火が付いたら瞬く間に燃え上がるであろう劇物の塊のような感情。
誰もが充分だと思っていた。半年も報復に出ない緑営は腰抜けだと、敵も油断しているはず。
だから今こそ、自ら抑圧してきた力を解放するとき、と彼らと彼らの支持者達は考えていた。
利鋭達の接敵は、迅速にして精巧だった。狭い地下の配管や、路地裏の塀やビルから突き出た配管やエアコンの室外機を伝うなど反共産党活動で培った技術を用い、敵の監視の目を掻い潜り、八人からなる襲撃チームは一時間足らずで敵の倉庫に迫っていた。
旧港湾部に位置するその倉庫では、その夜本土の組織との薬物取引が行われるとの情報があった。ベイランドシティと本土を結ぶ橋では検問、空路では厳しい管理、鉄道では職員の目が厳しいこの街では、夜の海は本土に違法な物品を輸出する主要なルートであった。
倉庫に侵入し、取引の証拠を見付け、そこに照明弾を打ち上げる。利鋭達の作戦目標は、それだけだった。そうすれば、湾岸海上保安庁は大挙して押し寄せてくるだろう。
結果は、失敗だった。
半年では足りなかった、本当に仇を討つつもりがあったのならば、半年なんて生温かったと利鋭は思っている。リーダーを辞め、独りで泥水を啜るような惨めな思いをして耐え、這いつくばろうが、血反吐を撒き散らそうが、それでも執念を燃やし続ければよかったのだ。
だが、出来なかった。
事件から一ヶ月、二ヶ月とたつうちに何人もの仲間達が緑営を離れて行った。住民からの非難に耐え切れなくなった若者達だった。北京時代からの仲間達にも動揺が走っていた。
このままでは緑営は瓦解してしまう。
中華マフィアに対抗するために組織された緑営は、常に住民の味方でなければいけなかった。住民を守る盾、頼もしい用心棒でなければいけなかった。自分達に悪意をもって接してくる者を、力で跳ね除けてこその緑営だった。
やられたまま、何ヶ月も反撃しないのは湾市緑営ではないと多くの人間が思っていた。
そんな鬱屈とした組織の感情に利鋭は苛まれ、そして組織の防衛のために動いてしまった。
焦りが正常な判断を鈍らせ、違和感に対する鋭敏な神経はひどく鈍くなっていた。だから、あまりにもあっさりと敵の領域に足を踏み入れてしまったことに気付けていなかった。
おかしいと思ったときには。倉庫のある敷地まで通り一本隔てた場所に彼らはいた。普段なら何人かの構成員が巡回していたり、たむろしていたりするはずなのに、この夜はほとんどそういう遭遇が無かった。半年前以前よりも少ない警備の意味するところを、彼らは汲み取れなかった。
分散する利鋭達。二人が敷地を隔てるフェンスに取り付き侵入口を作り、利鋭達六人は夜の闇に潜んで周囲に異常が無いかを警戒する。
ガチンという金属音。
辺りには彼ら八人しかいない。目を左右に巡らせても何もいない。利鋭以外は気付いてすらいない。
なのに聞こえた音。
それが意味するところを、察するよりも速く直感が働いた。
倉庫の敷地を囲うフェンスの左手、何も無い空間に突如閃光が湧き起こり、腹に響く唸るような重低音が衝撃波を伴って襲いかかった。フェンスの表面で弾ける無数の火花。
その一瞬で二人が餌食になった。
続いて三度の掃射。毎分三千発の発射速度を誇るM134の放つ口径七.六二ミリの暴風が吹き荒れ、フェンスや路面を跳ね、抉り、コンクリート壁を穿つ。
地獄のような一瞬が過ぎ去り、圧倒的な銃声に聾された耳に届くのはカラカラと回転する多砲身の音。
直感に従って身を伏せていた利鋭は、この時点で、敵のだいたいの火力を把握していた。一挺ないし二挺のミニガン。発砲位置は左手。
しかし、敵の姿は無い。暗視装置にも映らない。
だが、いる。なんらかの光学迷彩を施した敵がいる。
見えない敵が頭上すれすれに苛烈な掃射を繰り返す恐怖に、彼の鼓動は早鐘を打つ。涼しくなってきた十月の未明にもかかわらず、頬を汗が伝い、手足が震える。
一歩でも動けば、即時に撃たれる。耐えなければいけない。今この瞬間に動けば、再びあの容赦仮借無い銃撃が再開される。
遅れて襲い来る後悔。
先の一撃に巻き込まれた仲間。今も呻き声やすすり泣く仲間達の声。
またやってしまった。敵の情報に乗せられて自らの仲間を殺した。何も変わらない。あの時と何も変わっていない。
――暗殺官。
民主化運動を側面から支援するはずの活動は、いつの間にか敵にとって都合の悪い――こちらにとっての潜在的な仲間を屠る活動と化していた。
あの時と何も変わっていない。
その事実に慄然として、頭が真っ白に染められそうになる。
歯を食い縛る。口の中に生臭い鉄の臭いを感じても、食い縛り、自らを奮い立たせた。
――撤退だ。
しかし、その手順を間違えれば全滅する。
緑営のことは、既に頭の中に無かった。あるのは、生き残っている仲間達を連れて帰ること。ただ、その一点。
組織なんて関係無い。あの苦難を共に無様にも生き残り、そして新天地で再起を果たそうとしてきた仲間達を見捨てることなんて出来ない。
そのために、意識を投げ出すようなことがあってはならない。
考えろ。
まず、仲間達との連携を取らなければいけない。
利鋭は自分の持つM4A1の予備マガジンを取り出し、地面に伏せたままフェンスに向けて投げた。
しんとした静寂に、予想外に大きな音が立て地面を転がるマガジン。二十八発入りのマガジンは意外と重い。
敵の反応は無い。音で識別しているわけではないようだ。そして、敵は人間ではなくおそらくは自律行動可能なロボット等の迎撃兵器だ。人間なら、音に反応してなんらかのアクションがあるはずだ。
いくらなんでも、たかが街の自警団を撃破するために自国の特殊部隊レベルの、多少のことに動揺しない忍耐強い兵士を送り込んでくるはずがない。
彼は静かに大きく息を吸い込み。そして、ゆっくりと吐き出した。長く長く吐き出し、肺の中の空気を全て吐き出す。
自らの力と意志で押し潰した肺。
ふっと力を抜く。
瞬間、一気に胸を満たす空気。それを味わう余裕など今は無い。
いっぱいに満たした瞬間、呼吸を止める。
同時にアスファルトを殴りつけるように両腕で身体を起こし、一挙動で背後の倉庫に向けて駆け出す。
追って来る衝撃波。駆け抜ける彼を追い、無数の火花が地面を壁を抉って行く。いつ追い付かれるか、いつ脚がもつれてしまうか、その恐怖を無理矢理押し込み、一心不乱に足を動かす。
長い長い十秒。
前方に見えたコンテナの影に飛び込む。
強化プラスチック製のコンテナだったが、予想以上に頑丈で一掃射に耐えてくれた。
止めていた息を吐き出し、一息ついた彼だったが、その暇は無かった。
敵は暗視画像による識別を行なっている。だから、戦闘が始まっているのに李門の連中が顔を出さないのだ。誤射の危険性があるのだろう。
そして、照準精度から敵はやはり機械だと分かった。彼に対して追尾攻撃しか出来ず、利鋭の動きを予測した攻撃を行なえなかった。
「日本製じゃなくてよかったな」
後方で大きなずだ袋を地面に叩き付けるような音が、等間隔で聞こえる。
歩いている。二足歩行か。おそらくは動くものが無いか移動して確認しようというのだろう。
利鋭の方ではなく。倒れたり、地面に伏せている仲間達の方へ向かっている。
声を張り上げる利鋭。
「五つ数えたら、照明弾を撃つ!撤退!」
彼の静寂を切り裂く声に、仲間達の反応が一斉に消えた。それは彼の命令が行きわたり、全員が何をすべきか理解したということだった。
「五」
左の太腿に付けられた信号拳銃を取り出す。
「四」
中折れ式の薬室を開く。
「三」
照明弾の装填を確認。
「二」
薬室閉鎖。
「一」
コンテナから飛び出し、信号拳銃を構える。
それは上空にではなく倉庫のフェンスの方、そこに潜む何物かへ向けて。
「ゴー!」
叫ぶと同時に引き金を引く。バンという衝撃音とともに撃ち出される照明弾。
狙い違わず、フェンスの前に落ちた照明弾がマグネシウムと硝酸ナトリウムの強烈な光を放ち始め、真昼ように辺りを白く染め上げる。
そこに浮かび上がる靄のような影を、彼は見逃さなかった。直立した巨人が両手を突き出したような姿。
撃つや否や信号拳銃を投棄した彼は、M4を構える。発砲。激しい閃光と薬莢がばらばらと落ちる中、敵の手に向けて撃つ。冷却を考えると、ミニガンを装甲で覆っているとは考えづらい。機関部を破壊できれば、敵の攻撃力を削ることが出来る。
照明弾の灯りに照らされ揺らめく靄に、殺到する銃弾が上げる火花。
敵の反撃は無い。急に眼前で照明弾の光を浴びて、暗視装置がいかれてしまったのだろう。
一本目のマガジンを撃ち終わる寸前にマガジンを交換。絶え間なく銃撃を続ける利鋭。
その間に動ける仲間達、四人は後退を始めていた。
照明弾の光が弱まった頃、右肩と右手だけでカービンを保持したまま、左手で閃光手榴弾を投擲。
巨人の眼前で眩い閃光が起き、視界が一瞬閉ざされる。
利鋭も引くために背を向けた。
その瞬間、バリバリと引き裂くような轟音が彼に襲いかかった。
慌ててコンテナの残骸の影に隠れたが、容赦ない銃撃は残りの残骸を食らいつくそうとするかのように迫る。
転がり、這うようにそばの倉庫の影に飛び込む。
銃撃がさらに追いかけ、コンクリート製の壁を豆腐でも崩すかのように穿って行く。
十秒ほども続いた銃撃は、倉庫の角を鉄筋が露出するほど抉ったところで止まった。
たかが、七.六二ミリ弾。しかし、速すぎる連射速度は銃弾本来の性能を凌駕する火力を生み出していた。
「火の神ってか。名前を考えた奴はつくづく厨二だなぁ、おい」
「本当だな」
口にした独り言に返答され、慌てて銃口を向けて振り返る利鋭。
そこにいたのは、すらりとした長身の青年。ワイシャツにジーンズという十月にしては少々心もとない服装。
しかし目を引くのはその右手に持った、低周波音を鳴らす子供の背丈ほどもある長大なライフル。かすかに響き続ける音は、獰猛な野獣が上げる唸り声のよう。
「俺達の名付け親も厨二具合に関しては、似たようなものだけどな」
その言葉は、尋常ならざる銃撃が繰り返される戦場で耳にするには、あまりにも軽く、そしてだからこそ圧倒的な強者の風格を感じさせるものだった。