その2
なんだか自転車操業です……。
ベイランドシティ新本牧――横浜市本牧の対岸に位置するこの地区は、過剰ともいえる規制緩和の影響で、企業の専横が蔓延り、力なき人々を虐げるスラムと化していた。人々の生活レベルは低く、時折目に付く通りで寝転がる浮浪者や、夜通し騒いでいたギャンググループと思しき若者達。
早朝午前六時の景色を、周利鋭は嫌いではなかった。
――犯罪とは悪意であり、悪意とは人間の性である。それは欲望であり、それが発露されるということは、即ち自由な常態である。
ポジティブな性悪説論者を自称する利鋭は、自らの住処としていた街をそう評していた。
未明の気温が低かったのか、自然木の窓から見える街は、九月にしては珍しい霧に包まれていた。
「康さん。あのコ、ここに来れるかな?」
「あのコ?ああ、中河さんか。心配なら待ち合わせ場所変えたらいいじゃないか。君は時々ひどくテキトーだね」
温和な丸顔でぼうっと窓の外を眺める男を、テーブルの向かいから窘めるのは、比較的小柄ながらぎゅっと引き絞った感じの白髪混じりの男――副島康である。
二人とも揃いの紺色のブルゾンを羽織り、眼前に置かれた紅茶を口にする。
場所は、新本牧の一角にある山小屋――風の内装が施された喫茶店。壁面は自然木の化粧が施され、天井には木の幹をそのまま使ったような梁が渡され、少々やりすぎな感のある店だ。
テーブルやイスまでも同じ形が一つも無いというほどの徹底ぶりゆえに、店内に入ると東京湾のど真ん中にあることを忘れさせてくれるということで隠れた人気店である。
「大丈夫だよ。彼女が道に迷うところは想像できない」
「へえ。ヤッさんが言うんだから相当だね。あのコ、そんなに凄いの?」
男の物言いに副島は苦笑した。
「利鋭。さっそくやらかしたのかい?」
「うん。ちょっとね……」
周利鋭はバツの悪そうな乾いた笑みを浮かべた。
「言っておくけど、彼女に二度目は無いよ。今度は確実に首を取られるからね」
「うわ。“専守防衛”にそこまで言わせるなんて、どんな士官だよ」
「兵士としては超が付くほどの一流。戦術面では堅実ながら、時には大胆。自衛隊以来から数えても、史上初の師団長になったかもしれなかった女傑だよ」
「カワイイ顔してすごいねえ」
「その顔も問題なんだよ。兵と下士官からの支持は絶大。アイドルであり、正真正銘の指揮官。こうなると一種の派閥だよね」
へええ、と利鋭の反応は極めてフラットだ。
副島もそのことに関してはとやかく言わない。利鋭はいつもこんな感じ――何事にも自然体なのだ。
「取り敢えずは、君が強者としての位置を彼女に示してくれたのは感謝するよ。勇元金融でのあの機転……」
「あのダンクシュートね」
「そう。あのダンクシュートが咄嗟に思い付くし、あの身体能力だ。特防課内で彼女がトップになるのは構わないけど、いかんせん若い。ここはやはり、君と海司君がツートップじゃないとね」
「ヤッさんでもいいんじゃないの?」
「君ね。分かっていて言ってるでしょ」
目を細める副島に、バレたかと笑う利鋭。
“専守防衛”なんて二つ名を持ってはいるが、副島は一介の兵士に過ぎない。“不死鳥”なんていう凄味のある異名を持つ中河由美とは、兵士としても指揮官としても差がありすぎる。
それなら一方的に副島が敗北するかというとそうでもない。副島が得意とするのは、徹底的なまでの機動防御。あの手この手で攻め立てる由美のような指揮官にとっては厄介で、もし戦場で敵味方で遭遇した場合、お互いにジリ貧になることは目に見えている。
だから、副島は今まで一度たりとも由美と直接ぶつかったことは無い。湾岸軍内の演習でも、キルギスの緑の軍隊においても。
ぶつかって不毛な消耗をするよりは、友軍の救援を優先するべきだと考えている。味方を危機に晒すくらいなら、逃亡の不名誉を甘んじて受けるのが副島だ。
利鋭はそういう彼を好ましいと思っていた。
「それはそうとヤッさん。まだ由美を呼び捨てにしないの?」
「君ね。そういう態度は中河さんにはやめた方がいいと思うよ。彼女は粘り強いからね」
それは執念深いという意味だろう。
どうやら、この往年の影の英雄は、現役の英雄殿に対して気を遣っているらしい。
一方の利鋭はとぼけた顔であさっての方向を向いている。
思わずため息を漏らす副島。この年下の上司は、組織運営や渉外に関しては優れているとは思うが、対人関係になるといい加減なところや人をすぐにおもちゃにするところが問題だ。
「知らないからね」
そう言って立ち上がる副島。胸ポケットから一枚のカードを差し出す。
「例の調査はこれ。中河さんに見せてあげてくれ」
「さすがヤッさん。仕事早いね。――今日は?」
「紅上君の指導だよ。近接に偏ってるからね、彼は。二係の連中と一緒に少し揉んでみる」
「よろしく」
「あ、そうそう」
立ち去ろうとした副島だったが、その目と指は利鋭の足元を指していた。
「この店だからまだいいけど、こういうのは持って歩かないの」
利鋭の足元には大小二つの樹脂製アタッシュケース。ひとつは普通のアタッシュケースに見えるが、もう一つは明らかに横に長い。
他のテーブルの客の中には、ちらちらと落ち着かなさげにそのケースを見ている者もいる。
「仕方ないじゃないか。今日は由美の車で移動なんだもん」
「そのセリフ、中河さんには聞かせないでね。十中八九、激怒するから」
「はあい。肝に銘じておきます」
苦笑して今度こそ立ち去る副島。
「あら、もうお帰り?」
「はい。定期連絡みたいなものですから」
副島がすれ違ったのは、豪奢な金髪を波打たせた妙齢の白人女性。そのエメラルドの瞳が、艶のある笑みを浮かべていて、バリバリのキャリアウーマンを思わせる鮮やかなブルーのスーツと白いハイヒールという格好なのに、何故か丸い盆で料理を運んでいる。通い慣れた人達はなんとも思っていないが、初めて目にした客なら間違いなく疑問に思うだろう。
「すみませんね、エイデル。いつもうちの統括官が迷惑かけて」
「俺は迷惑かけてないぞ」
「いいのよいいのよ。どうせ、このポンコツ中国人には何を言ってもムダだから」
コロコロと笑う仕草は実に色っぽい。
「おいおい。一応俺も客だよ」
「そういえばそうねえ。いつもありがとうございます」
全く心の籠っていない感謝の言葉。常連に対してこの扱いはなんたることか。
「ほんといつもすみません。旦那さんにもよろしく」
「はいはあい。今度はご家族で遊びにいらしてくださいね」
木製のドアに付いた鈴を鳴らして出て行く副島を見送ってから、エイデルと呼ばれた女性は振り返った。
「はい。モーニングセットのC」
思い切り仏頂面で料理の載ったプレートを、利鋭の前に置いていく。
チャーリーって、ファナティックコードかい。というツッコミはなんとか堪える利鋭。
その眼前に置かれる、タルタルソースののったシーザーサラダとスクランブルエッグに添加物の少ないソーセージにスコーンとバター。一見、普通の朝食に見えるが、ひとつひとつに手が込んでいる。
「相変わらず、ランディはいい仕事してるね。旨そうだ」
「はいはい。――あら、お茶無いわね。取って来るわ」
そう言って入口近くのカウンターに入っていく。カウンターの奥が厨房になっていて、その中からちょうど目を見張るほどの大男が出て来る。
白いシャツに蝶ネクタイに黒いエプロンという格好なので、マスターなのだろう。しかし、腕は丸太のように太く、分厚い胸板でシャツのボタンと蝶ネクタイは限界と言わんばかりに盛り上がり、刈り上げた短い髪と顎全体を覆う黒髭に左の頬の大きな切り傷の痕ーーまるで野生の熊のような獰猛さを醸し出す男。
そんな男に対して、エイデルは一言二言言葉を交わし厨房に入っていく。
そのとき、ドアが開いた。
――目立つなあ……。
こげ茶色のレザージャケットに青いジーンズに足元はショートブーツという実用一辺倒な格好だが、その背の高さによる手足の長さ、ぱっちりと主張している目鼻、そして無造作ながら紅く輝く髪が嫌でも人の目を惹きつける。
声をかけようとした利鋭だったが、カウンターの中で異彩を放っている大男に思わず身構えてしまったようで――大抵の人間は同じ反応をする――、何事か言い合っているようだ。
面白そうなので、それを見物しながら食事を始めた。
――絶妙な塩梅だな。
それは口にしている料理のことか、それとも大男と剣呑な空気で応酬を交わす紅い髪の女性のことか。
スコーンにバターを塗って一口齧ったとき、ようやく二人の暗闘は終わったらしく、紅い髪の女――待ち人、中河由美はこちらに気付いた。
口の中の物を咀嚼しながら左手を挙げて振ると、どことなくほっとしたような顔を見せる。
――お?可愛いやつよのお。
だが、目が合った瞬間、ムッとして睨んで来る由美。
――おやおや。可愛くないのお。
主に、助け船も出さずに呑気に観戦していたことがばれたためなのだが、この男は意に介さない。
「おはようございます、統括官。今、朝食ですか?」
近寄って来た由美の問いかけ。言葉には分かりやすいくらいに棘が込められている。
「おはよう、由美。入れ違いでヤッさんに会わなかった?」
「ヤッさん?」
「副島のヤッさん」
「ああ。副島さんですか。いえ、会いませんでしたが」
「そかそか。立ち話もなんだし、座りなよ」
一瞬眉を寄せるも、意外にも素直に利鋭の対面に座る由美。
そしてお小言一つ。
「それ、持ち歩くのどうかと思います」
ちらりと見やったのは、利鋭の足元の樹脂製ケース二つ。まさに副島の言う通りの反応。
「一応、俺達の商売道具じゃん。いざって時に困らない?」
「なら、車内に置いておくとか、どこかに預けておくとかしてください。このお店の迷惑になるじゃないですか」
「大丈夫大丈夫。ここはそういうの気にしないから」
今度こそ眉根を寄せる由美。
「そういう問題じゃありません。公共の迷惑です」
声量は抑えられているが、その鋭い口調には周囲の客も何事かと二人を窺っている。なまじ容姿が目立つものだから、ちょっとしたことで注目を集めてしまう。
「そうは言うけどさ、この街に預けるところなんて無いよ。交番なんて無いんだから」
失念していたのか、一瞬目を見開く由美。実はベイランドシティは、交番が存在しない唯一の地方自治体である。
「なら、どうして待ち合わせをご自宅とかに指定されないんですか?」
「それだと、朝早くなっちゃうよ。由美だって昨日の今日だから、少し休みたかっただろう?ヤッさんとのスケジュールの兼ね合いもあったしね。――それにここにも用事はある」
考えているんだか考えていないのか分からない彼の発言に、由美は数瞬沈黙した。
「……朝食が、ですか?」
それもそうだが、もう一つある、と言おうとした利鋭だったが、彼女の方からやって来た。
「あら、新しい彼女?」
金髪碧眼の妙齢の女性――エイデルだ。
「ちがうよ」
「違います!」
あまりの剣幕に辺りがシンと静まり返り、エイデルは目を丸くしている。
衆人環視に晒されていることに気付いた由美の、その白い頬は真っ赤。
――やべ、見てるのおもしろい。
口元がひくつくのをどうにか堪えながら、利鋭はなんとか口を開いた。
「ごめんね、エイデル。この子はうちの新人。今日は、ここを紹介しようと思ったんだよ」
「特殊防犯課の?凄いのね」
にこりと微笑み、由美の前にカップを置き、エイデルは二人のカップに持っていたポットから紅茶を注ぐ。
その仕事を終えると、そのまま彼女は空いていた席に腰を下ろす。
流れるような彼女の所作に、困惑顔の由美。
「初めまして、エイデル・アドキンスよ。ここのオーナーもしているわ。よろしく」
「あ、はい。中河由美です。よろしくお願いします」
堂々とした風格を感じさせるエイデルの差し出された右手を、慌てて握り返す由美。
「ナカガワ……ユミ……?どこかで聞いた名前ね」
「よ、よくある名前ですよ。ありふれた」
狼狽えはじめる由美。情報係長のミサが彼女をおちょくりたくなるのも致し方ない。
「その中河由美さんだよ、エイデル」
ギン、と音がしそうな勢いで睨んできた由美だったが、素知らぬ顔でシーザーサラダを口にする利鋭。
「ああ。フェニックスのナカガワさんね」
「ええ、まあ、そうですけど……。よくご存じですね?」
渋々頷く由美。しかし、その表情には疑問。一般人にしか見えないエイデルが、何故由美と不死鳥の渾名を知っているのか。
「それは、もちろん。敵になりそうな人のことを調べるのも、私の仕事だからよ」
あっけらかんと、しかし確かにこぼれ落ちた不穏な単語。
すっと細められる由美の目。驚きから素早く切り替えられる意識。目の前にいる者が敵かそうでないかを判断する、猫のような目。
「凄いわね。うちの若い子達じゃ、きっと束になっても相手にならないわね」
けらけらと笑い声を上げるエイデルに、由美はすっと問いかける。
「敵になりそう、とは?」
「ん?そうね、改めて自己紹介した方がよさそうね。非営利法人、ベイランドシティ退役軍人会代表理事を務めています、エイデル・アドキンスよ。これからもよろしくお願いします。英雄さん」