その2
――水と食糧を見せびらかすように積み上げ、武力で威圧しながら、水の入ったペットボトルで相手の頬を叩く行為。
緑地復興軍事行動“緑の軍隊”を評して、欧州のとある高官が言い放った言葉である。
富を得たければ武器を捨てよ、という緑の軍隊側の露骨な姿勢を端的に示した言葉である。
しかし、その高官はさらに付け加えるように言った。
――しかし、最も効果的な和平への道である。
二〇〇八年八月から一年に亘って続いた日本国防連合クーデター。その直後に発足した長谷川祐一内閣が、整備構築したのが、連邦国防軍と緑の軍隊である。
米軍の進攻で打撃を受けたアフガニスタン、イラク、そして当時失敗国家の烙印を押されていたソマリアが、その最初の派遣地域として選ばれた。
“緑の軍隊は、紛争地域で貧困に喘ぐ人々に平和と豊かさを勝ち取らせるために、緑地復興の楯となる”
緑の憲章第一条に書かれているように、緑の軍隊は農地復興事業地域の外周から五百メートルを防衛識別圏と設定し、その防衛を第一任務としている。
この識別圏に侵入してきた武装勢力は、いかなる国家、組織にかかわらず警告を受け、それは国連であろうと同盟国であろうと変わらず、交戦も辞さないという徹底ぶりである。
逆に武装勢力の幹部、国際手配されたテロリストであろうと、武装解除していれば緑の軍隊への恭順とみなし受け入れる。国連や同盟国がその身柄を要求してきても、応じることはない。
それが緑の軍隊である。
「狂ってやがる。身体の中にウィルスの塊を呑み込むようなもんだ」
元アメリカ海兵隊一等軍曹ユージーン・ロックウェルは、数々の紛争地域で見て来た緑の軍隊の振る舞いをそう評した。
幹部クラスのテロリストは、いわば病原菌だ。周囲の人間に自身の思想を植え付け、彼らの自由意思を言葉巧みに奪い、調教しテロリストに仕立て上げていく。まるで次々と感染拡大して、組織を傷つけていくウィルスのようだ。
その対処法は排除である。テロとの戦いに身を投じた、アメリカなどはそう信じていた。
ところが、緑の軍隊はそういう存在を取り込んだ。しかし、彼らは別にテロリストを野放しにしたわけではない。テロリストは常に監視され、周囲を扇動したり、思想を説くようなことがあれば、不穏分子として住居を変えさせたり、職務を変更することが規定されている。
この規定がありながら、実際にはこれが実行されたことはほとんどない。
何故なら、ほとんどのこういう活動を行なおうとする者は、緑地復興事業地域では爪はじき者にされていたのである。
緑の軍隊によってではない、地元住民によってである。
緑の軍隊は職業訓練の意味もあり、井戸や用水路の建設という治水、森を増やし維持し商品にする林業、そして農地の開墾に初期の人々は従事していくことになる。
それまでの極貧生活から必死に抜け出した人々にとって、テロリストは自分達の労力を無為にする存在だった。
テロリストがどんなに先進国の過去の暴虐を語ろうと、昨日よりも確かに豊かな今日、そして希望の明日を提供し続けてくれる緑の軍隊に刃向うなんてあり得ず、彼らは無視され、時には罵倒された。
結果、一部のテロリストは心を入れ替え、豊かな未来を築くための職に就くようになり、残りのテロリストは密かに事業地域を抜け出すことになる。
緑の軍隊の庇護を拒否したテロリストは、全て国連やアメリカに通報され、そのあとにどんなことになろうが、緑の軍隊は関知しなかった。
緑の軍隊は、軍人だけの活動ではない。多くの民間人も参戦している。
もちろん、ほとんどの民間人の戦いとは武装勢力やテロリストとの戦いではなく、緑地を復興することそのものである。
復興するからには、それが十年、二十年、そして百年維持できなければいけないと緑の軍隊は考えている。
現地で手に入り、一世紀たっても豊かな実りをもたらす作物。それを維持する水源。水源を潤す森。それらを作り、維持、発展させる教育こそが重要である。
これには、日本国内の有機農業企業が多く活躍した。
クーデター以後、連邦政府は農林水産業の株式会社化を強力に推し進めた。もちろん、乱獲や過剰生産による荒廃には常に目を配り、持続的で安定的な農業システムの構築という国防面と、新しい海外輸出品とする貿易面での目的があった。
そして、さらなるブランド化として化学肥料使用比率公示制度が生み出された。
美味しく、安全で、環境に優しい食品、というキャッチコピーで始まったこの制度は、農薬をどれだけ使っていないかを国家が保証するシステムで、毎年抜き打ち監査によって認定され、その使用具合によってランクが公式に発表される。
そして、無農薬有機栽培を実施していると認定された農業企業は、その作物で得た収益は公益性が高いとして税制上の優遇がされたのである。
この制度により、日本連邦国内は有機農業の効率化と大規模集積化が進んでいた。そうした企業にとって、緑の軍隊活動地域は新たな農地候補であった。
そうした企業が進出すると、それに付随する業種も参戦することになる。作物の加工、流通、通商。さらには豊かになった人々は、教育の機会を求め、娯楽を求めることになる。
こうして企業の参入を、紛争地域内での収益の無税という餌で呼び寄せたことで、緑の軍隊は急速に発展していった。
しかし、それが出来るのも、防衛識別圏を鉄壁の防御で守る兵士達がいてこそである。
特に激戦であったソマリアのバイドアでは、年間六十回以上の戦闘が記録され、三十年に及ぶ派遣で三万人もの敵を殺害し、千名もの殉職者を出した。
そんな彼らに対する報酬とは、まず二年の任期を終えた後の昇進の機会であった。任期を終え、帰国すると一階級特進する権利を与えられる。
ただし、これは航空機や戦闘車両の搭乗員では当てはまらないことが多い。何故なら、原隊での技能が、常に緑の軍隊で活用できるわけではないからだ。戦闘機パイロットが、緑の軍隊で一歩兵として戦った記録もある。彼らには、任期中の俸給が割増しになる程度の報酬しかなかった。
また、二年の任期を終え、あるいは途中で退役をせざるを得ない事態に遭遇した場合、二階級特進となり、新たな階級で恩給と医療費、老後の年金が支給される。由美達が遭遇した横溝竜平は、退役時の階級は少尉とされている。
そして、緑の軍隊での戦死は、三階級特進となり遺族年金が支給された。
この手厚い報酬は兵士達の好評を得、二〇一〇年の発足時に約二万人もの志願を得ることが出来た。
この中から、三個連隊規模の大部隊が編成され、各地へと赴いたのである。
横溝竜平は二〇四四年、シエラレオネへの最後の派遣部隊に伍長として参加。シエラレオネはしかし、派遣の最終局面であり、復興事業地域の権限移譲や新たに組織された現地国軍の教育が主な内容であり、戦闘はほとんどなかった。
しかし、二度目の派遣、二〇四九年のミャンマー派遣は様子がまるで違った。
「一回目で楽したツケだったんだな。完全に甘く見てた」
ミャンマーは、二〇一〇年代から比較的穏やかに軍事政権からの民主化が進んだ。ASEANの一員として、日本主導で誕生した東アジア機構や、後に拡大した西太平洋機構でも、軍事的、政治的、経済的な役割を担ってきた。
しかし、民主化は国家に対する帰属意識が充分でなければ分裂を誘発すだけである。それは、かつての旧ユーゴスラビアや様々な歴史が証明しており、ミャンマーも同じ道を辿ることになった。
独立運動は、中華人民共和国やかつての宗主国イギリスの介入によるところが大きいと研究者は語る。天然資源や、インド洋での勢力圏がその大きな理由であろうと推測される。
時の政権はこの事態に対処できず、首都ネピトーではクーデターが勃発し再び軍政が始まったが、既に求心力は無くなっていた。
二〇四五年、ミャンマーは完全な内戦に突入した。
この事態に、ASEAN、中国、アメリカ、イギリスが治安維持を名目に部隊を派遣するも、大いに火に油を注ぐ結果となった。そもそも、最も独立運動が激しいカナン州やシャン州などに、どの国も進出しなかった。
だが、二〇四八年にカナン州にインドが、二〇四九年にシャン州に格闘機一個中隊を含む、緑の軍隊一個大隊が進出した。
「ニュースで観ていたし、事前の状況報告も聞いていた。ヤバい状況だって知ってた。それでも、シエラレオネでの経験や楯の叛乱に生き残った自信が、楽観させたんだと思う。でも、あそこは地獄だった」
緑の軍隊がまず着手したのは、当時無法地帯と化し行政機能を失っていた州都タウンジーの確保だった。格闘機部隊を繰り出し、周辺を実効支配していたミャンマー民主同盟軍の部隊を駆逐。同時に麻薬密売ルートも殲滅した。
この、初期農地復興事業地域策定行動と呼ばれる強襲作戦は、代表が明確でない無政府地域であったソマリアやシエラレオネでも実施され、周辺の武装勢力に対する緑の軍隊の実力を誇示する行動でもあり、同時期に活動を開始し穏当に駐留を実施したインド軍とは対照的だと評された。
緑の軍隊は、タウンジー周辺をぐるりと囲む防衛識別圏を設定すると、ゲートや防壁の建設をしながら防衛戦を展開した。二週間ほどの間に二十回もの戦闘があり、六百人もの武装勢力を捕虜とした。
横溝によれば、この軍事作戦自体はありふれた電撃戦だったという。武装しているという理由だけで、見たことも無い格闘機という脅威に混乱させられ、そこに整然と組織だった装甲車と歩兵部隊が襲いかかる。敵は瞬く間に潰走した。
数日たち、緑の軍隊がいないことを幸いと進撃するも、どこからともなく現れた、圧倒的機動性、防御性能、そして火力を持つ格闘機に足止めされ、遅れて駆け付けた歩兵に蹴散らされるということを繰り返すうちに、武装勢力は息切れしてしまう。
そのあいだに緑の軍隊は着々と防衛網と防衛識別圏を完成させ、同時に市内の衛生改善、水源確保、都市計画策定が民間の協力によって実施されていく。
ここまでに要する時間は、僅か半年である。初期のサマーワ、バイドアでは三個連隊で二年かかった行動が、二〇四〇年代の緑の軍隊では一個大隊で半年というから技術の進歩は恐ろしい。
だが、本当の敵は別にいたと横溝は言う。
「タウンジーの本当の敵は麻薬だった。麻薬の流通網に打撃を与えて遮断したのは良かったけど、一週間も経つと問題がはっきりしてきた。中毒者の禁断症状への対処が大変だった」
シャン州はいわゆる黄金の三角地帯、カンボジア、ラオス、ベトナムに近接しており、そこから大量の麻薬が流入していた。生産拠点すらあったのだ。
これに関して、当時の緑の軍隊情報本部長、ジョン・アイリス・オーリンズ大佐も証言している。
「麻薬が蔓延していることは分かっていた。そのための医療チームも物資も他の戦域の三倍に増員した。しかし、女性や子供まで蔓延っているという状況は、我々の予想を超えていた。これは、完全に我が情報本部のミスだった」
五年をかけて緑の軍隊は、十五万人もの麻薬中毒患者を治療させていったわけだが、その数字は初期部隊には絶望的な数字だった。
職業訓練を施そうにも、中毒で仕事にならないなどのことが多々あった。
禁断症状が引き金と思われる刑法事件も多発した。一年目には、麻薬中毒者による殺人事件六十件、傷害事件は緑の軍隊あるいは文民警察官の出動した事件だけでも五百件。三十五万もの人々がひしめいた街を、麻薬で汚染すると、これだけの状態になるという見本のような状態だった。
「非番の日よりも、勤務中の方がほっとできた。四二式自動小銃もあったし、防具もある。味方のバックアップだってある。でも、街中だといつどこで襲われるか分からなかったんだ。それが男だけなら、まだマシだ。女や小学生くらいの餓鬼まで飛び掛かってくる。迂闊に出歩くなんて出来なかった」
実は横溝の退役理由は、|心的外傷後ストレス障害《PTSD》である。派遣から一年半たった頃、非番中に街を歩いていた彼は、鉈で斬りかかって来た女性を、着込んでいた短刀胴衣のナイフで返り討ちにしてしまった。
ちょうど道の角、出遭い頭の事件だった。
「鉈が、敵のマチェットに見えた」
武装勢力との不正規遭遇戦闘に、このころには慣れていた横溝にとっては、それは通常の反応であった。
ただし、相手がまずかった。
その様子は街頭カメラが捉えており、しかも慌てて救命行動を開始した彼の行動を鑑み、横溝は一年間の減俸と、帰国後半年間の奉仕活動という刑事罰が下されることになった。
だが、彼には別の問題が起きていた。
最初に気付いたのは、配属された部隊の同僚。アフガニスタンから参加した一人の兵士が、心配し彼をカウンセリングに連れて行ったのだ。
「彼は時々、何かに怯えるんです。それも街中とか、ゲートの任務とか比較的安全な時なんです。MNDAAと撃ち合ってても、屋内戦闘でも冷静で勇敢な尊敬できる兵士だったのに、子供がいるような安全なところで何かに酷く怯えるんです。何かおかしいと思いました」
この兵士の予想は的中した。
横溝は、子供の声に過剰に反応していたのだ。その原因は、彼が殺害した女性の子供がそばにいたことだった。
「葬式なんてくさるほど見て来た。軍人だから。そこにいる子供達が意味も分からず途方に暮れていたり、不意に衝動的に涙をこぼしたり、そんな姿を何度も見た。……俺が、この子にとって、そういう原因を作ってしまったんだと思った」
警備員のアルバイトをしながら、現在療養中の横溝。軍の恩給で生活しながら、精神科に通っている。
本来なら、事件を起こした横溝は不名誉除隊となるはずだった。
しかし、ミャンマー情勢、タウンジーの状況、事件の詳細、そして彼自身の勤務態度により、情状を酌量され刑事罰は残ったものの、軍人としてのキャリアに付いた汚点は全て削除されたのだ。
驚いたことに、彼は連邦国防軍に予備役申請している。
「――軍に、じゃないな。タウンジーにまた行きたいんだ。即応予備がダメなら、緑の軍隊の常勤になってもいい。それがダメなら、民間軍事企業の警備員になったっていい。最悪、身一つで向かったって構わない」
どこか必死な空気の彼は、最後に一言でその気持ちを表した。
「俺は、あそこでは壊す以外何もしてないから」
二〇六〇年、ミャンマー、シャン州は全域が緑の軍隊の活動領域に指定され、シャン州内での独立運動は鎮静化し、治安も大幅に改善された。