第一話 ひと振りの刀
始めちゃいました。
2060年4月5日 午前10時
栃木県栃木刑務所
灰色の壁と天井に取り囲まれた、陰鬱な空間に置かれた白いテーブルに、ただひとつ、白い光が差し込んでいる。
私は、それを眺めながら椅子に腰掛け、待ち人を待っていた。
ここに私が案内されたということは、相手は模範的な囚人だということか。収監間もなかったり、素行に問題のある人物だと、こうはうまくいかないだろう。
私の前にあるのは、テーブルと椅子だけ。ガラスも壁も存在しない。
やはりと思う。彼女ほどの人物は、なかなかいないと思っていたが、二百四十年に及ぶ懲役を科されながら、収監から一年足らずでここまで評価されるとは、彼女のカリスマは、いまだ衰えていないようだ。
足音がドアの向こうで微かに聞こえ、ドアノブが重々しく回る。
そして、ゆっくりと足音もなく、整然と、いっそ優雅と言った方がいい足取りで、彼女は室内に足を踏み入れた。明かり取りの窓から差し込む光が、彼女の頭上を掠めただけで、その紅い色の髪が鮮やかに輝く。
この灰色の世界を、彼女は一瞬で塗り変えてしまう。
その容姿から“真紅の女王”あるいは、その所属から“湾岸軍一番機”と呼ばれた、稀代の兵士がそこにいた。
「あら」
猫のように大きな瞳が柔らかく細められ、親しみの篭った笑みを、私に向けてくれた。
以前は、それなりにやり合った仲だったが、彼女の中にそういうわだかまりはもう無いらしい。
「お久しぶりです、相澤さん。それとも、旦那さんとよりを戻したんでしたっけ?」
相変わらず耳が早くて驚いたが、私は彼女を迎え入れるために立ち上がった。
「久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
彼女は、少し苦笑いを浮かべた。以前はそういう表情をすると、言いようの無い威圧感を感じたものだが、今の彼女は困り果ててる普通の女性だった。
そんな彼女だったが、手錠を外してもらった刑務官に礼を述べる姿は丁寧で優雅であり、そこには囚人という立場に身を縮こまらせている卑屈さはなく、やるべきことをやった者だけが持つ、自信と誇りが滲み出ていた。
「最近、太っちゃって大変です。どうしても運動不足で。それとも歳のせいかしら」
刑務官が退室したあと、可愛らしい笑みを浮かべた彼女。あの、研ぎ澄まされた刀のようだった頃を知っている私は、しかし今の彼女のほうが、よほど美しいと思った。
「三十三になったんだっけ?二十代の頃とは違うわよ」
「ええ。自分には関係ないと思っていたのに……」
不貞腐れたように言う。確かに、あの頃には運動不足になる要素なんて、ひとつも無かっただろう。
二人揃って声を立てて笑う。中年の入り口に入った新たな仲間を、私が歓迎したところで、二人とも自然に席に着いた。
「娘さんは元気ですか?」
先に口を開いたのは彼女だ。相変わらず先手必勝だ。柔らかくなったけれども、癖は抜けないようだ。
「あ、ごめんなさい。今日は、相澤さんの調査ですよね。つい、気になっちゃって……」
私の心のうちを読んだかのように、彼女は謝った。もしかしたら、最近一般の人と触れ合うことが多くなって、指摘されるようになったのだろうか。
「いいのよ。懐かしいなって思っただけだから」
「旦那に怒られるんです」
獄中で入籍した彼女の、相手の男性を思い浮かべる。
「彼、怒るのね。想像つかないわ」
「そうなんです。人畜無害な顔してるくせに、怒ると私より恐いんですよ」
「そうなんだ。うちの娘は元気よ。就職したし、忙しなくばたばたしてるわ。私も、いまだに特別職のままだから、休みもなかなか貰えないし」
「うらやましい。ここなんて、いつも暇ですから」
「ご家族は?面会は?」
「両親は月に一回くらい。公判中は、完全に拒否でしたけど、色々勉強したそうです。今では、早く釈放されるように署名活動しているみたい」
「刑期は……」
「あと二百二十三年。十五年くらい短く出来ましたけど……」
一年で十五年。現在の司法制度で考えられる、理論最速値に近い。よほどの模範囚でなければ難しい。執念か信念。強い心には、強い支えが必要なはず。
「娘さんに会いたい?」
他の囚人には絶対訊けない言葉。だが、この人なら真摯に答えてくれると思ったのだが、実際のそれは予想を超えていた。
ぱっと光り輝く満面の笑み。心の底から彼女は笑っていた。
「それは、もう!」
それ以上言葉にならないのか、私を見つめたままもどかしそうにしている。
「そうよね」
思わず私の頬は緩んでしまった。
「だって、私は母親として一日しか一緒にいられなかったんですもの。もう一歳と四ヵ月。どんなに可愛くなってるのか。もう想像するだけで楽しくて、一秒でも早く会いたくて。それなのに、旦那は来るんですよ。私は旦那じゃなくて、美鈴に会いたいのに。だから、旦那には面会来るなっていっちゃいました」
「可哀想に」
といいつつ、人妻二人揃って笑い合う。
「さて……」
不意に、目を細めた彼女。その鋭く美しく、気高い眼差しは、一振りの刀を思わせる。それは、彼女が未だに戦いを忘れていないという証でもあった。
「面会時間は、どれくらいなんですか?こんな世間話をしに来たのではないでしょう?FLAの、相沢涼江特別調査官」
不思議だった。かつて、戦場でその眼差しに射抜かれた時は、本当に身体が震えた。恐怖と言って差し支えなかった。その場にいる敵を粉砕するためにだけ現れた彼女は、ただ私に“邪魔をすれば殺す”と視線だけで告げた。
それが今は、同じ輝きを目の当たりにして心が躍っている。牙を抜かれた猛獣でも、翼を引き裂かれた不死鳥でも、刃を潰された刀でもない。その姿は私に悦びをもたらしてくれた。
今は、何をもって彼女は戦っているのだろう。兵士としての戦いは終わったはずだ。女として、妻として、あるいは母としてだろうか?
いや、まだ彼女にその実感は無いだろう。
「三時間よ」
「三時間?長いわね。誰の要請?総理?それとも野党かしら?近畿州とか?」
「政治家は、あなた達の作戦には触れたがらないわ。自分の厭な部分に気付いちゃうから」
鋭利な余裕の笑みを浮かべていた、彼女の相貌に初めて動揺が浮かんだ。
「まさか……」
「そう、そのまさか。あなた方の本当の声を知りたいというのが、ご要望。連邦職員に、その“お願い”を拒否出来る人はいないわ」
彼女は居住まいを正した。
「一度は軍人として忠誠を誓った身です。お役に立てるなら、何でも致します」
「よろしくお願いします」
「それで、どこからお話すれば?」
「そうね。あなたの自由でいいわ。私は、可能な限りそれを伝えます」
彼女は頷いた。そして、しばしの思案のあと口を開いた。
「そうね。まずは、あのどうしようもなく堅物で、不器用で、お人好しで、哀しいくらい傷付きやすい男の子の話をすべきかしら?」
二〇五八年二月。
太平洋の西端にある超大国の首都が戦火に見舞われた。事態は僅か十数時間で収束したが、正規軍同士による内戦という近年まれに見る惨事に、首都圏の防衛力と、多くの人命をうしなうことになった。
二人と同じ者のいない立場を異にする人達が、自らの正義を、本分を全うしようと闘い、抗い、そして散って行き、最後には祖国の首都をも焼き払うという事態に達した。
今でもその傷跡は癒えていない。
――不思議な事件だった。まるで結末が既に決定していたかのように、事態は推移していた。何年も、いや五十年前のあの夏の日から、それは続いていたかのようですらあった。
自分の為、自分の守りたいものの為に闘っていたはずなのに、その行動は吸い寄せられるように一点に集まり収束していった。
一なる個人、一なる部隊、一なる組織、そうした一なる存在たちが、たった一つの結末に収斂していくのを私は見た。
収斂する一なるものたち。
この報告書に副題を付けるなら、私はそう記すだろう。
まるで神なる存在が、ありとあらゆる事象を操って導いたかのように、結果は一つにしてそれ以外に無かった。
この報告書は、未来を選択するために、闘い生き抜いた人々の証言録である。