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 初めの数日は、さらに人が増えた。


 近寄るだけで騒音が酷くて、わたしは随分離れた位置から人の山を見ていることしかできなかった。

 あまりに遠くて、人の顔も判別できないくらいだった。


 けれどそれを過ぎると、人の山はあっという間にその背丈を減じさせた。


 わたしは日に日に減っていく人の山を、岩場の影から目を眇めて観察した。


 ――もしかしたら彼が来ているかもしれない。


 未練たらしい女だと、自分で自分を嘲ることで気持ちを落ち着かせた。

 勿体をつけたような理由がなければ、この場所に来ることも困難な心境だったのだ。


 そして彼が来ていないことを確認したら、そのまま塒に帰る。

 ルトと喧嘩別れしてから、元の塒に帰る勇気は出なかった。


 泣きついて相談したい気持ちもあったが、そうすることで自分が彼を信じていないと客観的に判断してしまうことが嫌で、今はしばらく離れた場所にある珊瑚礁地帯の一角にお邪魔させてもらっている。


 そんな生活が1週間も続くと、最初はあれほどいた人だかりも、元通りになっていた。


 しかし油断はしない。


 わたしは教訓を汲んで、岩場の影からこっそり確認することにしていた。


 それでも彼は会いに来なかった。


 来れなかっただけかもしれない。

 ……過剰な期待は厳禁だ。


 でもそのうちに、ふと自分の行動に疑問を持つようになった。


 思い返してみる。


 事の発端はわたしが桟橋に腰を掛けて歌っているところを、彼に見られたことだった。


 彼はわたしを褒め、歌を褒めて、多くの人にこの歌を聞かせたいと言ってくれた。


 わたしは、わたしを褒めてくれて、優しくしてくれる彼に協力したいと思ったけれど、ある意味では歌を吹き込んで、それが多くの人に届いた時点で彼の願いは叶ってしまっている。


 付属品であるわたしは、もはや用無しだとしてもおかしくなかった。


 人間にしてみれば新種の魚類。


 それが歌った歌が上手かったから煽てて録音させた。


 それだけ。

 それだけのこと。

 ――そうだろうか?


 彼のいない海岸線を眺めて、わたしは憂鬱を溜息に変えて吐き出す。


 聞いていたはずだ。


 彼は二重人格と言えるくらいに表裏があるのだと。


 わたしの頭の中は悪霊の巣窟になってしまった。


 その悪霊は、わたしの心を悪い想像で埋め尽くそうとしている。


 涙を呑む。


 わたしの心から、何かが千切れてしまいそうだった。



    *



 わたしは、わたし自身に何を求めているんだろう。


 彼に会って、何を喋るつもりなんだろう。


 わからない。


 わかりたくないだけなのか、それすらもわからない。


 けれど、気がつけば彼を探している。


 ただ、漠然とした「彼に会いたい」思いと、「彼と会わなければいけない」という強迫観念が胸の奥に沈殿している。


 朝になると、それが暴れだす。

 胸を叩く。

 喉元で言葉に変わろうと伸縮して、慟哭を吐き出させようと背筋に刺激を与える。


 それを噛み殺して、それでも尽きない焦燥感に押されるようにして海岸線の見える岩陰まで来てしまう。


 世の中はわからないことだらけだ。


 だって、自分のことさえこんなにままならない。


 自分で自分を理解できない。


 彼のことを思い出して一喜一憂することも。


 友達のことを考えて落ち込むのも。


 悪い想像に怯えてしまうのも。


 なんだか。


 なんだか……


 とても疲れた。

 ひどく、ひどく疲れてしまって、長く深く、眠ってしまいたい。

 わたしを揺り起こさないで。



    *



 冷たい雫が頬に落ちる。

 涼やかな感覚に意識が浮上する。


 ――――もう少し、眠っていたい…………。


 低いノイズみたいな雨の音が浮き上がるわたしの背中を押す。



 どれくらい眠っていたのか咄嗟にわからなかった。


 緩やかに持ち上げた瞼から、砂浜と波打ち際を背にした桟橋の情景が入り込む。


 水面を軽やかに叩く雨音。


 雨が降ってる。


 そんなことをぼんやり思う。


 まだここは夢の中なのかもしれない。


 思考がはっきりしない。


 いつの間にか、桟橋に寄りかかって眠ってしまっていた。


 わたしは指先を広げて、視界に映した。


 わたしの意識と同じように指先が空気を叩く。

 生きてる。


 雨音で頭の中が痺れるような、不快ではない不思議な陶酔感。


 体を起こしてみる。


 長時間おかしな体勢でいた体が、何処かぎこちない。


 周囲に首を巡らせる。


「ひうっ」


 変な声が出た。


「よく眠ってたな」


 彼が傘を片手に、わたしの顔を覗き込んでいた。


 頭と体が同時にフリーズする。


 思ってたこと。

 考えてたこと。

 言いたかったこと。

 聞きたかったこと。


 全部真っ白で、ただ雨音だけが耳元で喧しく騒ぎ立てている。


 硬直したわたしの前で、彼が眉をひそめた。


「美味くは無いぞ」


 そう言って、頬の辺りから髪を一筋掬った。


 理解が及んだ瞬間、顔が熱を持ったのを意識してパニックになった。


 ばしゃり。


 わたしは海の中で何秒間か、意識が整うのを待った。


 そう、今までのことは夢だった。

 彼を見つけたわたしは、たった今ここにやって来たのだ。


 先ほどまでの記憶を海に投げ捨てて、わたしはゆっくりと海面から頭を出した。


 頭に降り刺さってくる雨雫が、さっと止む。


「お、おはよう……ございます」

「ん、もう昼だぞ。おはよう」


 あああ!

 やってしまった!


 わたしはもう一度海に沈みこんで、浮き上がる。


「こここんにちは!」


 彼はにこりと笑った。


「久しぶり」

「あ、はい。お久しぶりです」


 そう、久しぶり。

 でもなんだろう。


 言わなきゃいけないと焦っていた焦燥感が、海に触れた雪のように溶けてしまった。


 ――わたしは今まで、彼とどんな風に会話してたっけ。


 未だに頭が低速回転のわたしを見下ろしながら、彼は脇に置いたアタッシュケースから一枚の書類を取り出した。


「ちょっとこれに時間がかかってな。どっかのバカ野郎のせいで予定が狂ったんだ」

「ば、ばかやろう……ですか……」


 おずおずと手を伸ばして、彼から紙面を受け取る。


 そこに書いてある内容を読んで、わたしは呆然と顔を上げた。


「こ、これって……?」

「お前の住民票」

「それは、み、見たらわかりますけど……」


 わかるけど、住民票って……なんだっけ?


「キィ、お前、三上って男と会っただろ?」


 まだ紙面をなぞっていたわたしはぎょっとした。


「そんな人は、し、しりません!」

「……男には会ったんだな」


 図星。

 胸にざくりと突き刺さった。


 でも、彼に嘘をつきたくはない。


「あ、あの。ちょっと前に、ジャーナリストっていう男の人には会いました……」


 彼はそれを聞いて肩を落とした。


「チッ、あの野郎。……ソイツが三上だよ。ジャーナリストっていうのは職業のことだ」


 2秒ほどぽかりと口を開いたまま、わたしは固まった。


「え……え? ……えっ!?」

「いや、いい。もう気にするな」


 どうやら騙されていたらしい。

 名前を聞いたのに、返ってきた答えが職業だったなんて予想外である。


「……あのな」


 彼が真剣な顔つきになった。

 わたしは気を引き締める。


 とても大事なことを、彼は言おうとしている。

 それがどんな内容であっても、わたしには聞く義務がある。


 ゆっくりと頷く。


「お前のあの歌な。今、オリコン1位なんだ。つまり今世間で一番聞かれてる歌は、お前の歌ってことだ」


 口を半開きのまま、わたしは彼を見上げた。


 彼は満面の笑みで、わたしに少し眩しい。


「その住民票はな。お前の歌を聞いてくれた多くの人が集まってくれたから取れたものなんだ。人魚は世間に認識はされてても、社会の一員とは認められてなかった。歌を発売することも、収入を得ることもできなかった。だけど、これからは違う」


 彼はわたしに手を差し伸べた。


 大きくて、暖かなその手が、何よりも頼もしく映る。


 予感がする。


 大きな予感。


 胸が震える。


 お腹の奥から、頭の先まで貫いた衝撃が、ゆっくりと広がった。


「俺と一緒に、お前の歌を世界中に届けよう。お前を必要としてる人の元に、その声を伝えよう。お前の声を、俺が運ぶから」


 僅かな間。


 雨音。


 頭の奥が痺れる。


 それが全身の隅々に満ちていく。


 予感だ。


 それは出会ったときに聞いた言葉。


 きっとこの予感は、そのときから胸の奥で眠っていたのだ。


「俺にお前の言葉を、一番に聴かせてくれ」


 わたしにはもう、涙と雨の区別もつかない。


 でも、雨はわたしに振りつかない。


 だから、これは、わたしの涙。


 今にも溢れてしまいそうな、わたしの涙。


「俺と一緒にいてほしい」


 抱え込んでいた全てが、解けて海に帰ってしまった。


 唯一つだけを残して。


 不安。

 孤独。

 恐怖。

 疎外感。


 彼は人で、わたしは人ではないから。

 限られた仲間だけの、果てしなく閉じた世界にいたわたしだから。


 認められたかったんだ。


 わたしという存在を許容してくれる人を失いたくなくて。

 捨てられないように何かの役に立ちたくて。


 わたしはただの、唄う魚類だったから。


 希少なだけの、ただの生き物だったから。


 殺されて、捨てられても、誰も見向きもしないような、そんな存在だったから。


 人を愛するなんて許されないことだと、そう思っていたのに。




 わたしは震える手を伸ばす。


 いいんだろうか。


 こんなわたしで、本当にいいんだろうか。


 わたしはわたしでいいんだろうか。


 わたしが、わたしになってもいいんだろうか。


「キィ」


 優しい声。


 彼はいつも、わたしに優しかった。


 それが全てで、それが真実。


 今にも溢れそうな涙。


 わたしにはもう、抑えられない。


「俺と行こう」


 わたしは彼の手をとる。


 疑ってはいけない。


 迷ってもいけない。


 わたしを人魚にしてくれた彼だから。


 わたしは彼を――――。


「……はい」











    *



「ねぇリカ、知ってる? 昔ね、この海岸で一人の人魚がね……――――」


 ――――――――――――

 ――――――――



  終

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