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わたしが「どうしたの?」と聞くと、彼は「どうもしない」と答えた。
季節はもう夏で、氷が恋しい時期になった。
ちゃぽりと音を鳴らして、わたしは首を傾げてみせる。
それを横目で見た彼は、視線を中空から目の前の紙面に戻した。
「どうかな?」
わたしが聞けば、数枚綴りになった紙面を元の順序に整えて、彼はそれを渡してきた。
「悪くないな。むしろいい」
書類を受け取ったわたしはにんまり笑顔になってしまって、慌てて取り繕ったもののすでに彼に見られた後だった。
たまらず赤面してしまうが逃げ場は無かった。
面映さに身を捩りながら、わたしは書類に視線を落とす。
わたしの歌。
わたしの楽譜。
彼はとても頭が良くて、わたしのために水に濡れても崩れない紙を作ってくれた。
その紙で作られた楽譜に再度目を通して、わたしは頷く。
「それじゃ、早く終わらせちゃおうよ」
思案気に顎を撫でていた彼は、それを聞いて笑みを浮かべた。
「そうだな」
そう言って、一人で移動できないわたしを隣のスタジオに連れて行ってくれる。
彼の友達は、彼のことを擬似二重人格だと言った。
表の顔と裏の顔があまりに違いすぎて、まるで多重人格みたいなのだと。
けれどわたしは、彼の優しいところしか見たことが無い。
それが表の顔なのか裏の顔なのかは、わたしには関係のないことだった。
彼がわたしに優しい。
それが全てで、それが真実なのだから。
準備を整えた彼が、薄いガラス窓越しに頷く。
わたしは瞼を落とし、ヘッドフォンから流れ出る旋律に同調する。
浅く、呼吸。
そしてわたしは、唄を綴る。
*
彼に会うのはいつも朝のことで、わたしはいつも早起きして彼を待つ。
友達はみんな「騙されている」とわたしを嘲笑う。
それと同時に「近くにこないで」とわたしを排斥する。
みんなが怯えているのだと知っていたし、仲良く出来ないかと考えた時期もあったけど、結局は一人で彼を待つわたしの姿こそが現実なのだ。
溜息が霞に変わって、空中でゆるゆると解けていく。
わたしは桟橋に身を預けて、二の腕を枕に丘の上を見上げた。
海岸線には人っ子一人いない。
彼がこの場所は穴場なのだと言っていた。
穴場は人がいない。
わたしに分かるのはそれだけ。
それだけ知ってればよくて、ここで待っていれば彼が会いに来てくれるという事実だけが重要なのだ。
だからそれ以上のことを考えたことはないし、考えようとも思ってなかった。
彼のくれた懐中時計を開く。
わたしのための特別製。
来てくれる時間はいつもばらばらだけど、大体7時から9時の間に姿を見せてくれる。
けれどここ最近、彼の姿を見なかった。
わたしの来る時間が合わなくなったのかもしれないと、いつもより1時間前に来て、いつもより1時間後に帰るようにしたけど、彼と会うことはなかった。
そろそろ10時が来てしまう。
わたしは懐中時計を仕舞って、ふと周囲が暗くなった事に気づいた。
太陽がわた雲に隠されたにしては突然のことだった。
空を見上げると、それよりもっと近い場所に黒い影があった。
人の姿。
逆光でよく見えなかったけど、大きくて不吉な気配。
「誰だろう?」と思うより先に彼の言葉が頭をよぎった。
――僕のいない場所で人と会ってはいけないよ。
わたしはハッ、として身を翻した。
慌てて逃げようとするわたしの手首を、その黒い影が捕まえた。
わたしは慄いて、必死に抵抗したけれど逃げ出すことは適わなかった。
「わあ! ごめんごめん、驚かせたね、逃げないでくれよぅ!」
影はそう言うとわたしの手首を離した。
バシャリと音を立てて遠ざかったわたしは、少し遠い場所から影を見た。
日焼けした黒い肌。
彼よりも屈強そうな体つきをした男の人だ。
花柄のシャツに緑の帽子を被って、小さな眼鏡をかけている。
「な、なななんですか? わたしに何の用ですか?」
人と会うだけでなく、会話までしてしまった。
後ろめたさを感じつつも、相手の言葉を無視しきれない自分がちょっぴり悲しい。
男はニカッと音がしそうな笑みを浮かべた。
「巷で噂の、期待の新人って君のことだろう?」
巷で噂?
わたしは首を傾げた。
友達からそのようなことを聞いたことは無い。
「聞いたことありません」
わたしがそう言うと、男はあからさまに驚いた顔になった。
「へぇえ! そうなんだ?」
その言い方に不謹慎な響きがあって、わたしは顔をしかめて一歩身を引いた。
途端に男は慌てて「ごめん」と連呼してくる。
「なら、ちょっとこれ聞いてみてよ」
男はポケットから機械を取り出して差し出してきた。
わたしはちょっぴり警戒して、眉を寄せて機械を睨みつける。
順番に男の顔も。
男は困ったように眉を下げた。
「えぇと、ごめんよ。そんなに信用ないかな、僕。わかった。じゃあ、ここに置いて離れてるから聞いてみてくれよ」
機械を地面に置くと、両手を挙げて後退していく男を見つめ、わたしはそれでも少し悩んだ。
彼の言葉を破ってしまうこともあったし、男の怪しさもある。
けれど結局、わたしは機械を手に取った。
彼はこの場にいないのだから、言わなければバレることはないだろうし、男は十分な距離を取っていて、逃げようと思えば逃げられる。
そう考えれば、巷の噂というものが気になってしまったのだ。
幸いにもその機械は見たことがあった。
MP3プレイヤーと言うのだと、彼から聞いたことがある。
わたしはイヤホンの一つをつけて、再生ボタンを押した。
耳を澄ませれば、やがて聞こえてきたのは何処かで聞いた声と旋律だった。
わたしの歌だ。
すぐに気づいた。
わたしが目をやると、男はすぐ隣まで戻って来ている。
「いい曲だよね。今、街ではこの歌が大ブレーク中なんだよ」
「大ブレーク?」
「とても多くの人が、この歌を気に入ってるってことだよ」
「ふぅん」
わたしは水面を見つめながら曲が終わるまで聞いた。
自分以外の口から自分の歌が聞こえてくるというのは、こそばゆいような不思議な感覚だった。
わたしが顔を上げると、聞き終わるのを待っていた男が口を開いた。
「それで、あんまりいい曲だから、みんな歌手のことが気になって調べてるんだよ」
イヤホンから、リピートされたわたしの唄が流れ出す。
「わたしを?」
「そう」
男は笑顔になった。
開けっぴろげで朗らかそうなのに、わたしの目には違うように映った。
警戒心がコトリと落ちる。
「……それで、何の用なんですか?」
歌も半ばでイヤホンを抜くと、機械を地面に置いた。
それを引き取りながら男はかぶりを振る。
「用ってほどのことじゃあないさ。巷で噂の歌手さんに握手してもらいたいなと思ってね?」
男が手を伸ばす。
握手。
少し悩む。
自分の歌が褒められたことは嬉しいし、握手をしてくれと言われることも嬉しい。
ただ、自分の中で譲れない、譲ってはいけない部分が囁く。
警戒が首を擡げ、わたしは訝しげに男を見つめた。
「握手はだめかな。じゃあ、いいや」
男は手を戻し、ひらひらと振った。
そのまま踵を返し、去ろうとする。
「今後の活躍も期待してるよ。期待の人魚さん」
わたしは自分の尾びれを見た。
綺麗な海では下半身が丸見えだった。
けれどわたしは羞恥より先に、別のことが頭をよぎった。
「あ、あの! 名前は」
男は丘を上がって行きながら振り向いた。
「期待の新人ジャーナリストさ」