ー其の捌ー
第八回をお送りします。
伸ばしに引き伸ばしたこの場面も、今回で一括りです。
次回、最終回です。
「四年もそんな馬鹿やっているとな。
その後もあちこちガタが来る。
下宿を出て、就職のために別に移り住んでも落ち着かねえんだ。
誰かが俺を監視している様な錯覚が、いつまでも付き纏って離れねえ。
人と関わると、常にあいつとの接点を疑ってしまってな。
気が付くと、人間そのものが怖くなって一人の時間が増えて行った。
そんな奴はもう出世なんざ出来ねえ。
程なく居場所も無くなって仕事も辞めて、あとはどうでも良い仕事で細々と最低限食って行ける金を稼いで、他は塒に引き篭る日々だった。
そうなるとな、顔の表情が変わらねえんだ。
喜怒哀楽とは無縁の生活で、必要のねえもんはいつの間にか忘れちまう。
それに気付いた時、初めて一生もんの罰を受けたと悟った。
自分の気持ちを偽ったバチが当たっちまった……
だから、いっその事こいつを生きる意味にしちまおうと思った。
馬鹿らしい話だが、この罰を抱えても尚生き続けられるのか、それだけを目的にするのも悪くないと、そう……」
そうか。
眼前に腰を下ろす彼こそが、本来の姿だ。
僕の知らない、得体の知れない男。
こんなにも衝撃的な告白をされても尚、冷静に対峙していられるのは、その実何一つとして耳に入っていないからだ。
今初めて出会った人間からの言葉を取り合う程、僕は寛大でも酔狂でもない。
そういう事だ。
僕が知る、あの綾一郎さんは、もう何処かに行ってしまった。
あと一晩位、どうして騙してくれなかったのか。
舌打ちをする行為すら煩わしく思えて、口を篭らせてしまう。
「……それで、どうして僕にそんな話をするんですか?
僕はただ、ここを畳む理由を……いや、それもただの世間話の様な、どうでも良い事なんです。
いつもの冗談だろうが、本当だろうが、僕には何の関係もない。
明日は早いですので、そろそろ出て行ってくれますか?」
自分でも冷めた物言いに驚いている。
だが、もう男に対して感情を乗せた言葉の一切を、僕の口から投げ掛ける気にはなれなかった。
僕は、彼に何を求めていたのだろうか。
人と関わる事が苦手で、いつも頼りなくて、時折見せる陰が尤もらしくて、誰かの支えが必要だと思わせる、そんな人に求めるものなんて始めからなかったのか。
今夜はどうも頭が働かない。
男は息苦しそうに浅い呼吸を二度三度した後、少しだけ天を仰いだ。
目に見えない何かを追っている様にも、次の言葉を接ぐタイミングを測っている様にも見える。
まだ続くのか。
最早一切の興味が薄れた今、僕は嘆息を吐いて男が立ち去るのを待つだけだった。
「あの日、葬式に出た。」
確かに最初に出会ったあの日、彼は喪服姿だった。
初対面の相手に、勝手に上がって塩を持って来いなんて、いかにも綾一郎さんらしい。 あの時は矢継ぎ早に放たれた言葉に抵抗する手段もなく、只々無難にやり過ごそうと思っていたっけ。
「それまではこことは全く無縁の土地に住んでいて、それでも一応お嬢には年賀状のやり取りをしていて連絡先は知られていた。
切ってしまいたい縁だったが、どうにも自然に消せるもんじゃなくてな。
急に電話が来た。
あいつが、急死したとさ。
許された、と思ったさ。
人が死んだのに、俺は素直に喜んだ。
ほっとしたよ。
最後に顔の一つでも見てやろうとさえ思った。
式の後に酒に任せて吐露しちまっても構わんとも考えた。
開放感に満ちていた。」
思えば、最初から世話を焼いた。
自分で出来る癖に、どうでも良い雑用をやらせてはヘラヘラとその様子を見て楽しむ様な人だ。
ずっと独身を貫いているなんて、信じられない位の生活力の無さ。
誰かの支えなく生きて行けるのか、いつも疑問に思っていた。
「棺の中のあいつは、白髪だらけでな。
年を取っていたよ。
当たり前っちゃ当たり前だがな。
二十歳そこそこのガキが爺になってたんだ。
流石にそうなっちまうと劣情を催すって事はなかった。
通夜から出棺まで付き添って、その間にあいつの話を色々と聞いた。
なんでも、晩年はこの下宿屋に一人で住んでいたそうだ。
実家との確執で勘当されたとかで、それに後ろめたさを感じて誰かと所帯を持つのを拒んでいたとさ。
お嬢に家の管理の引継ぎを持ちかけられた時、俺も元いた場所には一切の未練はなかったし、戯れに代わりに住んでやろうと思った。
そして、数十年ぶりの古巣に足を運び……お前に出会った。」
どうして僕はここに住むと、綾一郎さんと共に住むと決めたんだろう。
破格の待遇に釣られて、確かにそうだ。
でも何か、決定的な何かがあった筈だ。
それがいつまでも頭に残って、最終的に戻って来た。
「誰かがいれば、失ったものを少しでも取り戻せるなんて、馬鹿な事を考えた。
最初に大きな声を出してみた。
なかなか上手く行った。
調子に乗って、今度は笑ってみるとどうだと。
驚いた。
全然声が出ねえ。
息が詰まって、咳みてえなのしか出なかった。
それでも、何か心が晴れた気になった。
こいつを希望と言うにゃお粗末過ぎるが、そんなもんで十分だ。」
笑い声。
咳を押し殺した様な、あの奇妙な声が耳から離れない。
「精一杯、せめて形だけでも笑顔でいようと、顔面にあらん限りの力を入れてな。」
どうしてあんなに楽しそうに笑えるのだろう。
どうしてあんなに苦しそうな声を上げるのだろう。
明確な答えが欲しかった訳じゃない。
ただの興味でしかなかったのかも知れない。
傍に寄って確かめたかった。
向こうもそれを許してくれた。
答えが欲しかった訳じゃない。
誰にでも見せるのか、僕にだけ向ける感情なのか。
僕がいる事で、彼は多少なりとも救われたりしないだろうか。
いつか大声を上げて笑う事が、僕にそれを見せてくれる事があるのだろうか。
答えが欲しかった訳じゃない。
答えが欲しかった訳じゃ……
「だが、駄目だった。
どんなに頑張っても、笑えねえ。
気持ちが篭らねえ笑いが、こんなにも苦痛だとは思いもよらなかった。
気が付いたら止めちまった。
こうやって、大口開けて、腹に力込めても声が出やしねえ。
クッアッアッって、馬鹿みてえな声になる。
クッアッアッ……アッアッアッ……」
「……お前がそんな風に笑うな!」
眼前の男が、気が付くと笑っていた。
綾一郎さんの笑い声を上げていた。
能面の様な表情で、生気の欠片もない目を向けて、僕を見据えながら笑っていた。
僕の知らない、得体の知れない男が。
何かがこみ上げて来た。
それに従って、あらん限りに叫んだ。
「違うだろ。
お前じゃないだろ。
俺の知っている綾一郎さんは、そんな事言わない。
そんな不気味な顔を向けない。
そんな死人みたいな目をしない。
お前は誰だ?
何で僕に気持ちの悪い話をする?
僕がどんな反応をすると期待してるんだ?
勝手に悦に浸るな。
僕を出しにするな。
お前なんか僕は知らない。」
沈殿した澱を吐き出すかの様に溢れ出る言葉の数々。
一つ一つが耐え難い程不味くて、喉から口に上がる度に嗚咽を生じる。
最早自分でも意味が分からない。
ただ、体が溜め込むのを拒否している、それだけは理解出来た。
自然と涙が流れる。
感情が昂ぶっている所為か、吐瀉物を戻している時のそれと同じなのか。
悲しみが引き起こすものじゃ、それだけは絶対にない。
酸欠の時の様に、意識が所々遠ざかる。
無表情の男の顔が明滅を繰り返し、それが更に嗚咽を誘う。
「消えろ。
不愉快だ。
お前は、消えろ!」
最後にひり出した汚物がどんな形をしているのかは、涙で視界を遮られた僕には確かめられない。
男は、空気を求めて荒く呼吸をする僕を前にしても、まだ対峙しているのだろうか。
「……悦に浸るな、出しにするな、か……」
急に懐かしい声がした。
懐かしい人の気配がした。
目元を拭って見ようとしても、衰弱したいたのか思い通りに腕が上がらない。
呼びかけようとしても、もう声一つ上げられない。
「俺はな、吟介。
人生を余らせた。
全てを捧げる筈の対象が、急に消えちまったんだ。
もう死ぬ事も出来ねえし、生き直そうとしてみても、結局どうにもならなかった。
お前は俺をそのまま否定してくれよ。
決して共感するな。
同情するな。
達者でな。」
前方の空気が揺らいだ。
畳みの軋む音がして、そして遠のく。
足音は、襖が開かれ再び閉じるまでの間、滞る事はなかった。
男は部屋から去った。
漸く広がった視界の先に、綾一郎さんはいなかった。