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ー其ノ漆ー

第七回をお送りします。随分と細切れにしてしまい、なかなか話が進まないのですが、今回も一旦区切ります。予定変更であと二回で終了予定です。多分もう増えません(苦笑

 その言葉の意味を考えた。

 文法的には何の間違いもない。

 が、この場で、この男が、こんな表情で、口にする事の意味を見出せない。

 何かの冗談か。

 年寄り世代の比喩表現なのか。

 考えても、止めどなく溢れる疑問符に一つの思考が長続きしない。

 どういう事ですか?

 脳の処理がそれだけに全て費やされているかの様に、開いた口はただ弛緩しているだけなのか、全く機能を果たさない。

 尚も眼前の男は能面の様な顔を僕に向け、次の言葉を発しようとしているのだけは辛うじて分かった。

 親に手を振り上げられた時の、抗えない気持ちと大分似ている。


 「ある日突然だ。

 最初からじゃなかった。

 ヘラヘラしながら適当に筆を振るっていた事を一喝されて、形だけでも真面目に取り組んでいるふりをしながら、コンチクショウと毒づいていたもんだ。

 そうやって毎日睨み付けていたらよ、あいつの指が気になった。

 節くれだった俺のとは比較にならん程、細く靭やかで真っ白でな。

 そうしていると、今度は睫毛の長さに注意が行った。

 俺もこれ位長けりゃ、もうちょっと女受けが良くなるんだがって、溜息が出た。

 それからは、何かに付けてあいつの容姿が気になって、俺にはねえなと忌々しく思っていた。

 立ち居振る舞いから、読んでいる本の題名の果てまで気に停めて、全く共通点の無いあいつが、気が付くと俺の理想になっていた。

 憧れていた。

 心酔の域にまで達していたのかも知れねえ。」


 「それは、尊敬出来る人が出来たって話じゃないですか。

 らしくない顔で雰囲気作るから、どう取り合えば良いか分からなかったですよ。」


 僕は漸く安堵した。

 いつもの冗談の延長だと分かれば、気も落ち着く。

 大方、彼にとって余り深入りして欲しくない話題だったんだ。

 それを明け透けに問い質した僕も悪い。

 それでも、最後に位本当の話をして欲しかったと思うのは、その程度には互いの距離は埋まっていたという自信があったのだろう。

 自惚れを露骨に否定されるのは多少胸に響くが、今夜限りで終わる繋がりに今更それ程の影響もない。

 馬鹿か、と内心自分を罵倒する。


 「話は終わりですか?

 言いたくないなら、はっきりそう言ってくれれば時間も浪費しなくて……」

 「恋、だった。」


 少しだけ語気を強め、僕の言葉をかき消した彼は、少しだけ口を結び、それから大きく目を見開いた。

 何かを迷い、そして今何かを決断した。

 僕の都合など全く無視して。


 「俺も最初は、人間性に敬意を持っただけだと思った。

 そういうもんだと、無理矢理落とし所を見付けた。

 だがおかしいだろ?

 あいつの体が俺に触れる度、声を聞く度、身を固くしている自分が確かにいる。

 お嬢を親しげに会話をしている様を見ると、やり場のないもどかしさに気が狂いそうになった。

 それもお嬢相手じゃなかった。

 程無く思い知らされた、認めなくちゃ自分を保てなくなった。

 俺は、あいつに恋をした。

 異性に抱く、言葉通りの意味で。

 俺はあいつに、女に向けるべき視線を送り、この手で触れる事を渇望した。」


 恰も予め用意していたかの様に、朗々と紡がれる言葉は、何かの儀式にも思え、眼前の男の表情を殊更無機質な存在に見せる。

 今頃になって、初めて彼が真面目に話をしていると悟った。

 半年もの間、常に僕をからかい、巫山戯ていた男から、どうして瞬時にその言葉の真意を読み取れるだろうか。

 何より、こんな冗談の様な話を別れの晩に言われて真摯に聴ける訳がない。


 「認めて、直後にそれを後悔した。

 これは異常だ。

 悍ましい感情だ。

 精神が擦り減った破綻者の、唾棄すべき劣情……いや、こんなものは情欲に連ねる事すら汚らわしい。

 だからな、俺はそれをなかった事にした。

 端っからそんな気持ちを持たなかったってな。」

 「自分で矛盾していると分かっていますか?

 だってそうでしょう?

 芽生えた感情を恋だと認めないと狂いそうになると言っておきながら、なかった事にするなんて、それじゃ認めた意味がない。

 いや、それ以前に男に恋心を持つなんて発想自体……」


 この論議は、袋小路に入っている。

 感情を認めなければ、衝動を抑えきれなくなり、受け入れれば禁忌を犯した事に苦悩する。

 なら、どうすればいいのか。

 そこまで考えが及んで、そのまま口を閉じた。

 恐らくそこに至るまで、彼はあらゆる可能性を考えたのだろう。

 友情、憧憬、語られた人物像からすると孤独でいる事への憐憫も候補にあったろう。

 それらを潰して最後に残ったものが、人として破綻した感情だったとしたら、僕も彼の選択を頭ごなしに否定出来ない。


 「……破綻してたんだよ。

 リセットするしかねえじゃねえか。」


 僕の思考を見透かしたかの様に、ぽつりと言葉が返される。

 少しだけ、僕の知っている綾一郎さんの感情が乗っている気がしたが、その表情に全く変化は見られない。


 「どんなに醜く汚らしいもんも、知られなきゃそいつには存在しないのも一緒だ。

 だから、決して気持ちを悟られねえように努めた。

 いきなり距離を置けば何かあったかと不信がられる。

 いつも通りに書道を学び、冗談を言ったり、適当に小難しい話を茶化したり。

 そうしながら、まるで薄氷の上を渡る様に、僅かずつ距離を広げて、自然に関わりを絶てりゃ重畳。

 駄目でもどうせ四年で下宿ともおさらば、その間に胸を抉られても罰だと思えば気も紛れる。

 となると、事はあいつにだけって訳にゃいかねえ。

 お嬢や大家、他の下宿人達にも毛程の素振りを見せちゃならねえ。

 何がどう転んでバレるかも知れん。

 なら、近所の人や学校の級友にも気が抜けねえ。

 気が付くと、自分に関わる全ての人間に猜疑心を抱き、一刻足りとも休まらねえ生活が続いた。」


 深く、深く息を吸い、男はゆっくりと溜息を吐いた。

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