ー其ノ陸ー
第六回をお送りします。ここの場面はちょっと長くなるのと、思いの外難産で何時書き上がるのか分からないため、一旦区切ります。やっとここまで来た…あと2回です。
荷物は宅配便で済んだ。
元々家具も食器も、下宿暮らしでは買い揃える必要もなく、ましてや半年の生活ならそんなものだろう。
それだけに、ここには何の未練もない。
明日の朝もすんなりと出て行ける筈だ。
郷里の両親にも、念のため連絡を入れた。
初めて下宿を出る話をした時は、僕が何か問題を起こしたのではないかと心配し、綾一郎さんから直接電話口で説明を受けるまで原因が僕にあると信じて疑わなかったのは、どうにも不満が残る。
今日は一度も綾一郎さんと顔を合わせていない。
大学の講義もサボり、一日中引越しの荷造りをしていたから……という建前の元、何となく一人になりたかった。
部屋の隅に畳んだ布団に背を預け、開いた本の同じページをずっと眺めている。
「吟介。
起きてるか?」
襖の向こうから、声が掛かった。
最悪の間でやって来る彼を疎ましく感じ、そっと息を吐く。
「……いえ、大丈夫です。
どうぞ。」
ここで沈黙を決め込まなかったのは、大家に対する最低限の礼儀、などではなく、単に度胸がなかっただけだ。
程無く襖が開かれ、いつもの作務衣姿の綾一郎さんが顔を覗かせた。
頭の白髪が心なしか増えていると思ったが、蛍光灯の光の具合だろう。
綾一郎さんは僕の姿を見止めると、指先で頭を二度三度掻いて、失礼するよ、と目の前に腰を下ろした。
「挨拶なら、明日の朝改めてこっちからするつもりだったのに。」
態と検のある言い方をした。
何となく、意味もなく。
彼はそれを幼稚な反抗と受け取ったのか、鼻を鳴らして細めた目を僕に向けた。
それで更に眉間の皺を寄せる僕は、やっぱり幼稚なのだろうか。
「そう邪険にすんな。
どうした?
出て行く直前になって、一方的に追い出す俺に腹を立てたか?」
「今まで破格の条件で住まわせて貰って、その上引越し先の手配までしてくれたんですから、寧ろ感謝していますよ。
確かに唐突過ぎて受け止め切れない期間がありましたけど。」
談話の途中で、いきなり来月出て行けと言われれば、どんなに落ち着き払った人間でも冷静にはいられないのは当たり前だ。
だがそれよりも、気になる事や言いたい事は別にある。
「あの手紙が原因ですか?」
この一月の間、言えずにいた疑問。
踏み込んではいけない部分だと、退去宣告の後も努めて日常を続けて、それでも遂には会えば口にしてしまいそうになる位に膨れ上がった、不安とも好奇心とも付かない気持ちの悪い衝動。
僕は飲み込みきれず、ここぞとばかりに吐き出した。
「いいや。
原因ってのを敢えていうなら、もっと前だ。
そうさな、もう半年位になるか、なあ吟介。」
綾一郎さんの視線が唐突に落ちる。
半年前。
それは、言うまでもなく僕がここに来た頃の事だ。
僕は自分の名前を出された驚きと共に、投げた問い掛けを上塗りして放り返された事への気持ちの悪さが残った。
沈黙の間隙を、時折吐息の音が突き抜ける。
その度に自分の体が貫かれる気がして、全身の筋肉が強張ったまま解けないでいる。
「昔話をしただろう。
そうだ、お前に筆を教えた時だ。
半年前って言いながら、今度は一月前かと、また怒られそうだがな。
ちぃと我慢して聞いてくれや。」
次に言葉が戻った時には、既に綾一郎さんの視線は僕に戻っていた。
いつもの様に。
「俺の書の師匠、いけ好かねえヒョロ男だ。
あいつは、びっくりする位に俺とは真逆の人間だった。
育ちの良さと、それを鼻に掛けず孤高を美徳にする物腰。
人の中に身を置くのが苦手で、その癖近寄られるのは嫌いじゃないなんて面倒臭い奴でな。
完璧主義だが、価値を感じない物には無頓着で、それが意外と多いもんだから、世間知らずが甚だしい奴だった。
我が我がと何にでも頭を突っ込んで、興味がなくてもその輪の中に入らずには気が済まない俺とは、今こうやって思い返してもやっぱりかけ離れているな。」
何か別の事を話すのに、あれこれ前置きを捏ねられているのは明白だ。
落語家の枕を聞いている様な、だけどどうにも歯切れの悪い、お世辞にも出来が良い物とは思えなかった。
「最初はどうでも良い、その場の勢いで始めた書道だ。
お嬢の事もすっかり醒めた。
あいつも俺の思惑をそれなりに察していただろう。
それでも次第に本気で取り込んで行った。」
「それは聞きました。
書道その物にのめり込んだんでしょう?」
散々引き伸ばして置いて、一月前の焼き直しなんて、完全に時間の無駄でしかない。
今まであんなに他愛のない話を繰り返したのに、今日はそれが我慢ならないでいる。
また煙に巻かれて終わりなのか、最後までこの男とは真剣に何かを話す事なく別れるのだろう。
「半分はそうだ、それで合っている。
だが、それだけじゃあ足りない。
理由としては不十分だ。」
彼は僕を見据え、淡々と口を開く。
まるで僕の言葉を予め予測しているかの様に、次第に表情も消え始める。
いつも僕をからかう時に深くなる目元の皺も、今は力のない双眸を強調するかの様な陰を作るだけだ。
「もう半分は……いや、こんな言い方は適切じゃあねえな。
あいつが教えるもんが、生花だろうが舞踊だろうが、同じ様に覚えただろうよ。」
そこまで言うと、ゆっくりと、そして鋭い音で一度だけ大きく息を吐いた。
「俺の興味は、ただ一つ。
あいつの存在その物だった。」