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ー其ノ肆ー

第四回をお送りします。やっと話が進む辺り、佳境に入りましたが、話自体が地味なので多分静かに終わるかとw良い区切りがなかなかなかったので、今回は一気に大増量となりました。

 郵便受けの夕刊は、いつもの如く既に回収された後だった。

 綾一郎さんが帰宅しているという合図にもなっているが、この半年ここから何かが飛び出している所を見た事がない。

 彼が毎日広げている新聞は、実は配達されている物ではなくどこかで一々買って来ているのかと思う程だが、ちゃんと朝刊は来るので流石にそれはなさそうだ。

 と、不意にいつもの状態の筈の郵便受けから、何やら顔を覗かせているのに気付いた。 摘み出してみると、真っ白な和紙の封筒。

 綾一郎さん宛のようだ。

 随分と綺麗な筆書きで、書道に縁のない僕から見れば額で飾っても良いような、と少し大袈裟に思ってしまう程に繊細で女性的な文体だ。

 カルチャースクールの生徒さんか誰かだろうか。

 予期せぬ所で彼の肩書きを実感するとは、何だか可笑しな話だ。

 ともかく、この取り忘れを山車に、今日は綾一郎さんの仕事の話を聞くのも悪くはない。

 中に入ると、案の定綾一郎さんは居間でお茶を啜りながらテーブルに新聞を広げていた。

 やっぱり、郵便受けの中は確認済みらしい。


 「ただいま。」


 鞄を脇に放り投げ、すっかり定位置になったソファに腰掛ける。

 綾一郎さんは新聞から目を離さずに、お帰り、とやる気のない返事を返した。

 至っていつもの事だが、今日は何故かそれが癪に障った。

 手紙を彼の弱みと思ったのだろうか。

 態とらしく手紙を新聞紙の丁度彼の視線が向かう先に置くと、反応を待った。

 綾一郎さんは一瞬動きを止めた様に見えたが、気にせず新聞を読み続けているとも見える。


 「郵便受けに残っていましたよ。

 取りこぼしなんて、老化が進んだんじゃないんですか?」

 「そうかも知れねえな。

 それより、相変わらず直帰たぁ、何とも面白みに欠けるじゃねえかよ。」


 相変わらずの減らず口だが、僕の反応を面白がる彼が今日に限っては新聞から尚も顔を上げないでいる。


 「都会は怖いものばかりなんで、急いで帰って来ました。」


 我ながら上手い返しをしたと、少しだけ得意になる。


 「そりゃなによりだ。」


 そんな僕を一瞥して静かに口の端を上げる態度が、あからさまに馬鹿にしていて気に入らないが、今日は手紙というイニシアティブを持っているという強みがある。


 「珍しいですね、手紙なんて。

 しかも相手は女性みたいじゃないですか。」

 「そうだな、槍の集中豪雨でも来るか?」


 緩慢な手付きで封筒を取り上げると、作務衣のポケットに無理矢理押し込む。

 こうもあからさまに動揺してくれると心も踊る。


 「どなたなんですか?

 昔の教え子とか、まさか別れた奥さんとかじゃ……」

 「戸籍は綺麗なまんまだよ。

 こいつは、この家の本来の持ち主からだ。」


 言われて、確かに何度かそういう話があったと思い返す。

 大家を公言しているが、持ち主は別にいて下宿屋の管理をその人から任されているだけだという。

 長らく店子も入れず放置していた事に業を煮やして、ついに何か行って来たのかと、常識に当て嵌めれば当然の成り行きだった。

 確かにそれじゃ手紙だって見たくもないだろうと納得する反面、自分の絵図面と違う展開に人知れず嘆息した。

 流石にこれを掘り返すのは酷だと思い、話題を変えるべく口を開こうとした所で、ふと綾一郎さんの傍らに見慣れないものがあるのに気付いた。

 紫色の風呂敷包み。

 弁当箱より二回り位大きいそれは、しっかりと口を縛られ中を見る事は出来ない。


 「綾一郎さん、それって……」

 「ああ、商売道具だ。

 たまにゃ手入れしてやらんとな。」


 そういうと、不意に風呂敷包みに手をかけ、新聞紙の上にそれを乗せた。

 衣擦れの小気味の良い音を響かせ包みが解かれて行く。

 中には朱塗りの硯箱が現れ、テーブルの片隅に丁寧に置かれた。

 蓋が開かれると、年季を節々に感じさせる硯や文鎮などが見えるが、筆一つ取っても、素人目には改めて手入れをする余地なんかない程に美しく見える。


 「別に面白いもんは入っちゃいねえよ。」


 視線に気付いたのか、綾一郎さんが声をかけた。

 からかう様ないつもの悪戯っぽい笑ではく、力なく目を細める。

 なんだか、その姿には生気がどこかに散ってしまっている、そんな風に見えてしまい、思わず口篭ってしまった。


 「え……あ、あの……あ、そうだ。

 良かったら書道を教えて下さいよ。

 月謝は払えませんが、格好だけで良いんで。」

 「なんだぁ、格好だけって?

 まあ良いさ、じゃあこっちに座れ。

 筆の持ち方位はサービスで教えてやる。」


 促され、彼の隣に座る。

 どうしたものかも分からず、取り敢えず背筋を伸ばして正座していると、背後から音もなく手が伸びて来ると、硯箱から太筆を取り出し僕の手にそっと持たせた。


 「ほら、指の力を抜け。

 筆の上を人差し指と中指で押さえて、下を親指で支える。

 筆は半紙と垂直より気持ち傾けろ。」


 次々と指が自分の意志に反して動かさる様子を、心の準備も儘ならないまま目で追う。 その間に背後の人形師は硯に墨汁を流し、真っ白い半紙を新聞の上に敷く。


 「ぼ、墨汁ですか?

 書道って言ったら墨を擦ったりするんじゃ……」

 「馬鹿か。

 とうしろう相手に勿体ねえ真似出来るか。

 箱ん中の墨は純松煙だぞ。

 家賃一月分でも半分も買えやしねえ。」


 それがどれ程の物か見当も付かないが、勿体無いと万単位という事だけで、十分の僕の口は硬く結ばれた。


 「墨汁は穂の先から少し上位まで付けろ。

 軽くで良い。

 そのまま脇を開いて、肘や手首がテーブルに付かないように……そうだ、そのまま左端に下ろせ。

 気を抜かず、ゆっくりと右に走らせ……ここでしっかり止める。」


 半紙には横棒が一本、やや歪んでいるが出来上がり、僕は何だか分からないまま、取り敢えず緊張を解いて深く息を吐いた。


 「そいつが基本の一文字だ。

 ただの横線だと思うなよ。

 そのガタガタの線が真っ直ぐ引けるようになりゃ、板書の写しだって額縁に飾れる位にゃ綺麗に書けるってもんよ。」


 変哲のない、幅も疎らな横線と見詰め、とてもじゃないがこの先の学生生活を照らす光明には見えないと、背後の即席師匠に気付かれない様に苦笑いを浮かばえた。


 「しかし、お前も酔狂だな。

 こんな辛気臭いもんに興味を持つなんざ、やっぱり健全な若者とは言えん発想だぞ。」 「ちょっとした気の迷いです。

 そういう貴方は、その健全な若さをどうして書道に注ぎ込んだん……」


 問い掛けを言い切る間もなく、いきなり首筋に吐息がかかり、思わずその場で飛び上がった。

 辛うじて声だけは出さずに済んだものの、生温い滞留した空気がいつまでも絡み付いてはなれない、そんな妙な感覚が尾を引く。

 

 「なっ、何を遊んでいるんですか?」

 「あ?

 何となくだ、意味なんざねえや。

 まあ、強いて言えば、お前が生意気だからか。」


 ここまで明確な理由があるのに、何となくもないだろうと、内心毒吐くが、そんな子供の様な振る舞いがやけにツボに入り、そっちの興味の方が強かった。


 「俺が書をやる切欠な。

 何の事はねえ、ただの足がかりだったんだんだよ。」


 唐突に話題が戻った。

 余りの不意打ちにまた何かの冗談に繋がるのかと身構えたが、さっきの悪戯で立ち上がった僕に、俯いて座る彼の表情は読み取れない。


 「学生時分の話だ。

 俺も元々はこの下宿屋に厄介になっていた身でな。

 当時はこの辺も人が少なく、貧乏農家の倅でも飯付きで居座れる位の家賃で済んだ。

 大家は奥さんと娘の二人きりで、泥棒避けの男手も期待しての安さだったんだろうがな。

 他にも何人かが間借りしていて、それなりに喧しかったよ。

 今じゃ考えられんな。」


 所在なさげに棒立ちしていると、片手で座るようにと促され、大人しくそれに従った。

 「その中に、一人いけ好かねえ奴がいた。

 ヒョロっとした優男で物静か。

 馬鹿騒ぎする俺達を尻目に、まるで隠者の如く他人との接触を避けて暮らしていた。

 聞けば大変ご高名な書家のご子息って言うじゃねえか。

 そして何より気に食わなかったのは、そのヒョロ男にお嬢さんが懐いていたって事だ。 野郎の巣窟に年頃の女が一人きりだ。

 そりゃあ、店子一同の怒りの視線を一身に浴びていたよ。」


 自分も含めてな、とばかりに息を漏らす彼は、当時を回顧しどこか自重している様にも見える。

 そんな遠回しでなかなか本題に入らない状況に半ば苛立ちを感じたが、綾一郎さんの雰囲気に氣圧され、そのまま黙って聞くしかなかった。

 きっと怪談を話す時もキャラ付けを念密にする性質なんだろう。


 「そうこうしている内に、お嬢はそいつから書道を習い始めた。

 同じ部屋で二人になんて事になりゃ、もうお終いだ。

 それだきゃあ阻止しろと我も我もと気がつくと店子全員が弟子入りした。

 が、俺達の誤算は、ヒョロ男が恐ろしい程に厳格な師匠だったって事だ。

 元々真剣に習うつもりもない俺達は、憎むべき相手に筆の持ち方から座り方の果てまで駄目出しされて、あっという間に辞めてしまった。

 全てを逃げ遅れた俺に委ねて、な。」

 「調子に乗って深入りした挙句、逃げ時を逸するなんて、魔の抜けた綾一郎さんらしい。」


 言ってくれるじゃねえか、と口元を緩める彼だが、目が余り笑っていないのは自分もそう思っているからだろうか。


 「そのお嬢が、奥さんが亡くなった今、ここの持ち主って訳だ。

 謂わば兄弟弟子って所か。

 そんなこんなで、見事怨敵の喉元深く食らい付き、更にはその他大勢のライバル共も諍いなく蹴落とせたって思わぬ副賞まで勝ち取った。

 だがな、そうこうしている内に、そんなもんどうでも良くなる位書道にのめり込んじまってな。

 そこで漸く分かった。」

 「何がです?」

 「俺はな、お嬢の事を、言う程好きじゃあなかったんだ。」


 笑い所だ、とばかり目配せをする彼の姿で確信した

 やっぱり、ただの冗談の一つだった。

 僕の顔を眺め気が済んだとばかりにテーブルの上の道具を片付け始める綾一郎さんの様子を、口を半開きにしたまま暫く見る事になる。


 「……いやいや、全然笑えませんよ。」

 「じゃあ、笑えないついでにもう一つ。」


 風呂敷の口を縛り、腰を上げる彼の背中が、思い出したとばかり再び語りかけた。


 「ここは来月で引き払う。

 お前も別のアパートを探すんだな。」


 真っ白になった頭が、次に言葉を捻り出すまでの間に、綾一郎さんは居間から姿を消していた。

 僕はその場に、今度こそ助けの手もなく指先の果てまで縛り付けられた。

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