ー其ノ弐ー
すっかり間が空きましたが、第二回をお送りします。 短めですが、キリの良い所という事でよしなに。 補足:名前の読みは吟介「ぎんすけ」、綾一郎「りょういちろう」です。
「おーい。
茶、淹れてくれんか?」
目の前の新聞紙が何やら要求して来ている。
何だか分からないものは無視するに限る。
「おーい、吟介!」
自分の名前が耳に入って来た、気がする。
寝転がっていた革張りのソファから頭だけ上げ、長方形の紙面を見る。
「呼びました、綾一郎さん?」
途端にガサガサと音を立てて紙の壁が取り払われ、代わりに見慣れたおっさんの顔が現れた。
「ああ、さっきからな。
悪いが茶を淹れてくれんか。
ポットだの急須だの、そっちの方が近い。」
白髪交じりの頭を緩慢に掻きながら、男は依然として新聞に目を向けて話す。。
「僕はいらないので、面倒がらずに自分でどうぞ。」」
「そんな可愛げのない事を言っても、本当のお前は人の頼みを断れない心根の良い奴だと、俺はずっと前から知っているぞ。
だからほら、頼むわ。」
僕は暇潰しに眺めていた雑誌を傍らのテーブルに置く。
座椅子に胡坐をかいて新聞紙を片手に残りで適当に手刀を切る男を横目に短く溜息を吐くと、自分でも驚く程脱力した残りの体を起こして急須の蓋を開けた。。
「体が重いなぁ。
まだ十代なのに、それじゃ先が思いやられるぞ。」
誰のせいだ、と思うがこの人を相手に口論での勝機は皆無なのは身に染みて分かっている。
反論は主張する程度に留め、結局は要望に応じるのが常だ。
本格的に上京して、早半年が経過した。
奇妙な男からの申し出の後も幾つもの不動産屋を巡ったが、足が曲がらなくなるまで物件を見て回っても、その全てに納得が行かなかった。
一度はどこまでで妥協出来るか、とまで思っていたのに、一度最良を知ってしまうとどうにもならない。
電話で部屋探しが難航していると両親に報告する中でポロリと漏らすと、どう考えても裏があるのは見え見えな条件を手放しで歓迎するものだから、最早選択の余地は……というより、意地を張る理由がなくなってしまった。
帰省の当日に男と簡単な仮契約を交わし、両親と男とで電話で今後の流れと軽い挨拶をするまで一時間もかからなかった。
まるで現実味がないまま実家に戻り、そして四月に再び上京すると、あの日の怪しい廃屋は僕の新居になっていたという訳だ。
廃屋は下宿屋に、奇妙な男は田島綾一郎という名の大家に、迷路の様な路地は通学路に、それぞれ名前が改まると、面白い事にあれだけ躊躇した色々な要因がまるで最初からなかったかの様に受け入れられ、その置換も月を跨ぐ前にすっかり完了した気がする。
要は、住めばなんとやら。
今では居間でくつろぐはおろか、一端に悪態まで吐く有様だ。
我ながら順応性の高さに軽く引くが、寧ろ出会い方に問題があったんだ。
当時と同じ場面に置かれれば誰だって僕と同じ反応をした筈。
「そういや、今日は学校に行かないのか?」
わざと波々と淹れたお茶を慎重に啜りながら、綾一郎さんは不意に話題を振る。
「午後から2つあるだけなんで、頃合い見て出掛けて夕方には戻りますよ。」
「ったく、直行直帰は感心せんなぁ。
十代の健全な男子というのは、もっと繁華街に繰り出したり悪ふざけしたりで家にいる暇なんかない筈だぞ。」
こっちとしても、隠居の様な生活を送っている彼が深夜まで遊び倒している姿が想像も出来ないが、若い頃はもっとアクティブな人間だったのだろうか。
「まあ、親御さんから大事な息子を預かっている身としては結構な事だがな。
っと、もうこんな時間だ。
んじゃ仕事に行くから、出るなら戸締り頼むな。」
やっとまともな水位にまで減ったお茶を放り出し、綾一郎さんはそそくさと居間を出て行った。
飲みもしない物を要求するな、と思いながらも流石に少し意地悪が過ぎたかと、まだ持つのも躊躇する熱さの湯呑みを引き寄せながら反省した。
玄関の引き戸の開閉音が短く響くのを最後に、家の中は急に静まり返った。
二人暮らしなのだから、他に物音がしてもそれはそれで問題だろうが、正直この束の間の孤独にはなかなか慣れないでいる。
「あの人も、それが嫌で先に出るのかな。」
良い歳して?
取り留めのない事この上ない自問自答が馬鹿らしくなり、彼が飲み残したお茶を啜った。
適温になったそれは、しんみりと胃袋に染み渡った。