第六章 陰陽師と式
一.
「何か、良いことでもあったのですか。宮」
鼻歌交じりで髪に櫛を通していた穏子は、ゆっくりと顔を上げた。
灯火に照らされた御簾に、ぼんやりと人影が映っている。
「ふふ、分かる?」
くすくすと艶やかな笑い声を零し、御簾を上げる。
ふくよかな体つきをした男が、視界に映った。
……忠平であった。
彼はつぶらな瞳をぱちくりと瞬かせ、微笑んだ。
「おや、なんと無粋なことを。かような夜更けに尋ねてきた男に、易々と顔を見せるとは」
「あら。貴方こそこんな夜中に女の寝屋を尋ねるだなんて、それこそ無粋じゃない」
穏子は忠平の首に両腕を回した。
密着した身体から、微かな香りが鼻腔を刺激した。
……血の、臭い。
嗅ぎ慣れたそれを楽しみつつ、耳元に唇を近づけた。
「それとも、もっと無粋なことをしに来たのかしら?」
「はは、止してくだされよ。私と貴女様は姉弟ではありませぬか」
「なれど、所詮まやかしの関係でしょう」
「――」
忠平は一瞬沈黙した。
が、直ぐに持ち前の笑顔を顔に貼り付けた。
「私が男にしか興味を持たぬことは、ご存知でしょう? それに貴女様も、相手に困っている訳ではござりますまい。それとも何ですか? もしや――」
笑みを浮かべた唇が、嘲笑を漏らす。
「御寂しいのですか?」
「っ!」
吸い込んだ息が、ひゅっと音を立てた。胸の拍動が増し、思考が停止する。
脳裏に、ある男の顔が浮かぶ。
自分を破滅へと導いた、金糸の修羅が。
「違う!」
気がつくと、掌が忠平の頬を打っていた。
「二度と、かようなことを口にするな」
「……御意」
忠平は床に膝を付き、頭を垂れた。
「――ところで、安倍晴明が博雅の三位と接触したというのは、本当なの?」
「ええ」
忠平は頷き、くつくつと笑った。
「先日の競馬で披露していた納曾利を教えたのは、源博雅らしいですぞ」
「へえ、あの宮中一の堅物が……」
穏子は扇を懐から取り出し、口元を覆った。
「あな、憎らしや。化け狐め、主上だけでは飽き足らぬというのか」
黒い感情が、渦巻く。
共に、恐怖が身体の奥底から込み上げた。
大切なものを、失う恐怖。
依存していたものが手元から離れてゆく、恐怖。
「ああ、恨めしい……!」
唇を強く噛み締めると、口内に血の味が広がった。
「ええい、保遠は何をしている! 晴明を本当に殺してくれるのでしょうね!」
「――無論だ。その証拠に、賀茂家に送り込んだ刺客は、今も随分働いてくれている」
忠平に代わって、低い声が返答した。
部屋を仕切る几帳の奥から、ぬっと人影が現れる。
それは先程脳裏を過ぎった男と、同じ髪色の青年であった。
白い寝間着に身を包んでいる。
伝い落ちる汗と肌に刻まれた赤い刻印が、歳に似合わぬ色香をかもし出していた。
「おお、そなたが保遠殿か!」
忠平が喜色満面で歓声を上げた。
「いやはや噂には聞いていたが……、やはり保憲殿に良く似ている」
……保憲。
その名を口にした途端。
保遠が動いた。
「戯れ言を抜かすな」
素早く剣を抜き、振り下ろす。
「……え」
穏子には、何が起きたのか分からなかった。
だが、ぽたぽたと床に滴る血で我に返る。
「ぐ……っ」
刀を振り下ろした筈の保遠が、片膝をついていた。
肩を押さえた指の間から鮮血が零れている。かしゃり、と音をたてて脇差しが床に落ちた。
その様を、忠平が顔色一つ変えずに見ていた。
「……やれやれ、随分と躾のなっていない犬っころだ」
人差し指をぴくりと動かす。
同時に保遠の腕が不自然な方向に曲がり始めた。
「あ……がっ、あぁああああぁ……っ!」
保遠が、大きく悲鳴を上げる。
だが、忠平は止めようとしない。
それどころか、楽しげに笑みを浮かべている。
「くく……。しかし鳴き声はそなたの御爺様に良く似ておるな。良い声だ」
汗で濡れた保遠の髪を掴み、無理やり顔を上げた。
保遠は苦痛に顔を歪ませながらも、強い視線で睨めつけた。
くく、と忠平の唇から蠢笑が漏れた。
「ほう、気丈な所もそっくりだ」
「――其処までにしておきなさい、忠平。彼は晴明殺害の為の大事な人材なのよ」
声をかけると、忠平は「……御意」と渋々手を引いた。
「はぁっ、はぁっ……貴様!」
保遠が息を荒げつつ、殺意を帯びた瞳で睨みつける。
忠平はそれに動じることなく、へらりと笑った。
「乱暴な真似をしてすまなかった。だが、一つ忠告しておこう。弱い者が強い者に吼える程愚かなことはない。しかも、そなたは私達に雇われた身だ。それを忘れるでないぞ」
「く……っ!」
保遠はしばらく忠平を睨みつけていたが、やがて踵を返し、御簾を上げた。
すっ、と流し目で此方を見る。翡翠色の光が、瞳に灯った。
「己は、いつまでも貴公等の犬でいる気はない。只、晴明暗殺の命を松任するのみよ。気を抜けば、何時でもその喉をかみちぎってやる。よく肝に銘じておけ」
「ふふ、さすがに苛めすぎたか」
遠くに消えてゆく保遠の気を感じながら、忠平が苦笑した。
「ああいう歯向かってくる子犬は、悪戯をしてやりたくなるから困りますな」
「……本当に、それだけ?」
「何?」
穏子の問いに、忠平は訝しげに眉を上げた。
「貴方こそ、随分とあの男にこだわっているように見えるわ。そんなに、抱きごごちが良かったのかしら? あの、鬼姫は」
「ああ。確かに甘そうであったなあ……、あの男は。だがもう我が瞳に映すことも叶いませぬよ」
ふっ、と瞼を伏せ、再度笑む。
「なれど、今は保憲殿がいる。奴は、鬼姫に良く似た雰囲気を纏っておる。あな、早く喰らってみたいものよのう……」
く、く、く。
忠平は喉の奥で小さく笑い、舌なめずりをした。
その表情が孕んだ狂気に、背筋がぞくりと震えた。
まるで人ならぬ――鬼のようであった。
二.
数刻後。
夜の静けさに呑まれていた賀茂家にも、喧騒が訪れつつあった。
狩衣を身に纏った男達が、眠気眼で屋敷内を掃除している。調理場からは朝餉の香りが漂い、家事に勤しむ彼等の胃を盛大に鳴かせていた。
……賀茂保憲もまた、その被害者の一人であった。
「……む」
鼻腔を擽る香りに、重い瞼を開いた。
勢い良く起き上がり、周囲を見渡す。
御簾の隙間から、薄暗い部屋の中に一筋の光が差し込んでいた。
「朝、か」
低く呟いたその時。
腹の虫が、大きく鳴いた。
「……?」
保憲は眉を顰め、首を傾げた。
何時もは、朝早くに腹が減ることはない。それに、寝起きが悪い保憲が自ら起きだすこともありえぬ話だ。
――昨晩、激しい運動でもしたか……?
ふと、隣で人影が動くのが見えた。
衾を身に纏って眠る、晴明であった。解けた黒髪が、曝け出された肌を覆っている。雪の如く白いそれには、赤い刻印が大量に刻まれていた。
……所有印。
かような言葉が脳裏を過ぎり、保憲は顔を赤くした。
これらは、昨晩嫉妬に駆られた彼が付けたものであった。
その時は夢中であったが、今になってみれば後悔しか残らない。
――晴明のことだ。無理やり付けられたのだろう。せめて訳だけでも聴いてやればよかったものを。
頬に手を添え、顔を近づける。
「すまぬ」
寝息を立てる恋人の唇に、口付けを落とした。
同時にある激情が込み上げた。
「……っ、ふ……」
涙が、頬を濡らした。
……以前、無理やりに刻んだそれとは違う。
愛し合う男女にありがちな、嫉妬の塊。
ありがちな、感情。
それを堂々と伝え、実行に移すことが出来る。
そんな当たり前のことが。
こんなにも、嬉しい。
「――保憲?」
声が、耳を通った。
「な……何故、泣いておるのだ」
心配そうに見上げてくる晴明に、「否、何でもない」と首を横に振った。
「なれど」
「……晴明」
晴明の言葉を掻き消すように、抱き締めた。
ぬくもりを。
存在を。
確認するかのように。
「只、嬉しかったのだ。貴様の近くに居られることが」
腕に、力を入れる。
晴明の身体が、びくりと跳ねた。体温の高まりを、肌越しに感じた。
「ずっと、無理なのことなのだと思っていた」
視線を、晴明に移す。
蜜色の瞳と、目が合った。
「故に、嬉しいのだ」
「……戯け」
晴明が俯き、瞬く。
声が、震えていた。
「そんな……当たり前のことを、今更……っ」
はらり。
涙の花弁が、床に舞い散った。
「く……うっ……」
泣き声が、晴明の唇から漏れた。
「晴明」
穏やかな声で名を呼び、掻き抱く。
「傍に居てくれて、有難う」
耳元で囁くと、腕の中にある身体が小さく震えた。
気がつけば、晴明を押し倒す体勢となっていた。
「保……憲」
此方を見つめる視線は、僅かに熱を持っている。
それが、余りにも淫らで。
身体の芯が、疼いた。
その瞬間。
「保憲! 居るか!」
障子が勢い良く開き、忠行が顔を覗かせた。
「父、上……!?」
父親が腕に持っているものを見、保憲は驚愕した。
保憲が屋敷内に隠した筈の、大量の堰足図であった。
「この堰足図が我が弟子達の間で出回っておったのじゃが……どういうことかのう。これは御主のものであった筈」
「――保憲」
声が、空気を裂いた。
殺気を纏った、晴明の声が。
「その話、俺にも詳しく聞かせてくれぬか」
……晴明が保憲に鉄拳制裁を下すのは、僅か数秒後のことである。
三.
「――痛っ」
保憲は筆を動かす手を止め、顔を顰めた。
痛む頬を指先で撫でると、僅かに熱を帯びているのが分かった。
「ちぃ……」
小さく、舌を打つ。
込み上げた苛立ちをごまかすべく、指でとんとんと文机を叩いた。
すると、周囲に居た部下達がざわめき始めた。
「保憲様は、どうかなされたのか」
「やや、ご尊顔に傷が……!」
「あな、お労しや」
「もしやあの半妖の仕業か」
「しかし、傷ついた保憲様もまたお美しい……!」
ぶちり、と。
響いた、血管が切れる、音。
「貴様等」
素早く立ち上がり、部下達を睨みつけた。
色濃い殺気を、放ちながら。
「私を観察する暇があるのなら、仕事をしろ。呪で燃やされたいのか」
見る見るうちに、部屋の温度が氷点下に達した。
「はいぃっ!」
「お、お許しください!」
部下達は、血相を変えて瞬時に部屋を後にした。
「ふん、愚か者共め」
遠くなる喧騒を聞きながら、保憲は小さく悪態を吐いて腰を下ろした。気を取り直し、放置した筆に手を伸ばした。
「――何を苛ついてんねや? ご主人サマ」
背後から伸びた手に、筆を掠め取られた。
「……!」
振り向き、怒鳴ろうと息を吸いこむ。
だが、掌で口を塞がれたことによって、阻止されてしまった。
「まあまあ、そう怒んなや。せっかくの美形が台無しやで、色男はん」
くすくすと楽しげに笑みを零しつつ、見下ろす。
「で、どうやったん? 姫さんとの二回目の契りは」
「……、何」
掌を無理やり引き剥がして、聞き返した。不愉快な事が度重なった所為か、自然と眉根に皺が寄る。
「何故、そのようなことを訊く」
「そりゃあ、式神たるもの、大事なご主人サマのことは何でも把握しとかなあかんやろ? それに」
歪はそこで言葉を切り、俯いた。
「心配やったから。わての知らんところでやっすんが悲しむなんて耐え切れへんし、な」
保憲は、僅かに目を見開いた。
まさかかようなことを口にするとは。
――珍しきこともあるものよ。
呆然としていると、「で、どうなんや?」と歪が再度訊ねた。先程の自分の言動に照れたのか、顔が赤く染まっている。
「……契ってなど、おらぬ。契りたくないと言ったら嘘になる。だが、気付いたのだ。共に居るだけで充分幸せなのだとな。当たり前のことが出来る。それだけで、充分だ」
「ふうん、つまり贅沢は言わない、と?」
「契りが贅沢なのかは分からぬが。時がくるまで、待つつもりだ」
「成る程。まあ、何処まで保つか見ものやな」
「……ふん」
保憲は小さく鼻を鳴らしつつ、歪から視線を逸らした。
先程、晴明に早くも情欲を抱いてしまったからか、言い返せないのだ。
ごほんと小さく咳払いをし、歪の手から筆を奪い返した。
「もう御喋りは終いだ。今から大量の書を書かねばならぬ」
「せやな。でもあと一つだけ、ええか?」
歪の声色が、緊張したものへと変わる。保憲はその変化を敏感に感じ取り、筆を置いた。
「何だ」
「護白の野郎は、今何処におるんや?」
――そういえば。
保憲は舐めるように周囲を見渡した。
――最近、姿を見ておらぬな。
ごつ、と額に手を当て、瞳を閉じた。
広がった闇の中からは、何も感じることが出来なかった。
「霊気を、感じない」
呆然と、呟く。
……霊気。
生きている人間や妖ならば誰もが持つ、波動のようなものである。その存在を認知することが出来るのは、陰陽師のように強い霊力を持つ者だけなのだが。
「ど、どういうことや」
「分からぬ。霊気を認知出来ぬ程遠くに行っておるのか。或いは――」
栗色の瞳が、ゆるりと瞬いた。
「私達に自分が居る場所を知られたくないが故に、霊気を押さえているのか」
「畜生……。やっぱり怪しいと思ってたんや、あの野郎」
不可解な言葉に、保憲は片眉を上げた。
「何故だ」
「あいつ、突然人間の姿になる時あるやろ? 一月前の夜……やっすんが陰陽寮で残業していた時なんやけど。そん時に暇だったさかい、清涼殿に潜り込んだんや。其処で、人間の姿をした護白と保遠の野郎が密会しているのを見てしもうた」
「……保遠が?」
「せや」
歪は小さく頷き、眉根を寄せた。
「保遠は、何で突然平安京に戻って来たんや? 平安京から逃げたのは、あいつの意志や。復讐が目的でないとしたら」
「――本職である暗殺業の為、か」
畳み掛けるように呟くと、「そうやろうな」と歪が答えた。
「問題はその暗殺する相手や」
「そういえば、奴は初めから晴明に近づいていた」
そこである考えに至り、保憲は大きく息を呑んだ。
「まさか、保遠は」
「そのまさかや」
歪は大きく拳を振り上げ、壁を叩いた。
「あの野郎の目的は、姫さんの暗殺。そして恐らく護白は」
双眸を閉じ、拳をもう一度振り下ろした。
搾り出すような声で、言葉を紡ぐ。
「……保遠の、式や」
沈黙が、広がる。
「戯れ言を」
保憲の声が、静寂を裂いた。
「勝手な憶測をするでない。確かに保遠が晴明を殺そうとしているのには違いなかろう。だが、護白が奴の式神だとはとても信じられぬ」
「な、何でや!」
「――貴様は、仲間を疑うのか?」
突如、殺気を帯びた声に、歪の肩が大きく跳ねた。
保憲は、言葉を続けた。
「陰陽師にとって、式は化身同然だ。護白を疑うということは、私をも疑うことになるのだぞ」
「そんなこと言うてへんやろ! わては只、やっすんが心配で……!」
「忘れたか? 陰陽師の信念は平安京を守ることであり、仲間を信じることだと」
「せやけど、わては」
紡ぎかけた言葉は、刃によって掻き消された。
保憲が、歪の喉元に刀を突きつけたのだ。
「これ以上、戯言を抜かすな。愚か者」
栗色の双眸に、光を灯す。
強い殺気が、二人を包んだ。
「う、ぐ……っ!」
歪が、片ひざを付いた。
息が荒れ、あまたの冷や汗が滴っている。
「な、何でや。やっすん……」
縋るような瞳が、保憲を見上げた。
「信じることが信念なら、何で……。護白のことは信じて、わてのことは信じてくれへんねん」
頬に、涙が伝い落ちた。
「椿樹なら、絶対わてのことも信じてくれたわ……、阿呆」
がくり、と。
歪の身体が傾いた。
「歪……!」
咄嗟に、手を伸ばした。
刹那。
歪が、青白い光に包まれた。光に守られるようにして、ゆっくりと床に着地する。
同時に、背後で障子が開いた。
「何か諍いでもあったのか、若旦那」
護白であった。白髪を一つに結び、薄汚れた水干を着ている。
まるで、農民のような風貌であった。
「否、何でもない」
保憲は護白から歪に視線を映した。歪は、殺気に中てられたのだろう――意識を手放していた。
屈みこんで、目から零れた涙を拭う。先程、彼に抱いていた怒りの念はとうに消え去っていた。
「護白」
静かに、口を開く。
「何処へ行っていたのかは、あえて訊かぬ。だが、此れだけは言っておく」
振り向き、護白を見据えた。
「あまり疑われるような行動はとるな。……疑うことに慣れておらぬ莫迦が、泣くことになるからな」
「……はっ!」
護白は、一瞬目を見開いて固まったが、直ぐに片ひざを付き、頭を下げた。
四.
「全く、あのむっつり助平め……」
晴明は、目の前に広がる天井を睨み、小さく毒吐いた。
今日は、彼女にとっては貴重な休暇である。その為、保憲達が内裏に出掛けた今も寝床にいた。
しかし、晴明の心は穏やかではない。
「俺という者がいながら、他の女子の裸を見ていたとは。憎らしい奴だ」
……未だに、保憲が堰足図を所持していたことを許せずにいた。
分かってはいるのだ。
健全な――しかも若い男ならば、女の身体に興味を持たぬ方がおかしい。
――なれど。
晴明は再度吐息を漏らした。
――そんなの、ずるいではないか。
ごろりと一つ寝返りをうち、膝を抱える。
先刻、共に添い寝をしていた男の顔が、脳裏を過ぎった。
……どくん。
心臓が、大きく高鳴る。
何時もよりも幾分と柔らかな、表情。
身体を優しく包み込む、大きな両腕。
二人きりの時にしか聞くことが出来ぬ、優しく甘い囁き。
彼のことを思い出すだけで。
それだけで、こんなにも心が揺れ動く。
「――俺は、保憲だけを好いておるのだぞ」
一人でに口から出た言葉が、寝屋に響く。
急に恥ずかしくなって、晴明は膝に顔を埋めた。
「な、何を言っておるのだ俺は!」
「――何をだ」
頭上から、声が聞こえた。
視線を天井へ向ける。
視界に広がったのは、保憲と良く似た男の顔であった。
保遠である。
「ぎゃーっ!」
驚きのあまり、瞬発的に拳を突き出した。
「……、っと」
保遠は難なく鉄拳をかわし、晴明の腕を掴んだ。
「せっかく会いに参ったというのに、酷い仕打ちだな」
鳶色の瞳が、此方を見つめる。不機嫌そうに眉根を寄せるその顔つきは、保憲に酷似していた。
「煩い。びっくりしたのだから、仕方ないではないか」
思わず、目線を逸らす。
保遠が、くすりと小さく笑った。
「どうした、顔が随分と赤いが」
腕から離れた手が、優しく頬を撫でた。
「き、きききき貴様! ななな何を……っ!」
咄嗟に飛び起き、保遠から距離を置いた。
「ふん、忙しない奴よ」
驚き慌てる様を観賞しつつ、保遠が楽しげに哂った。
顔から段々と視線を下ろし、首の辺りでぴたりと止めた。見る見るうちに、表情が固くなってゆく。
「貴様……、それは何だ」
「え?」
保遠の視線を追うと、首筋に刻まれた印が目に入った。
「う、わ!」
小さく悲鳴を上げ、身体を掻き抱くように両腕で隠した。
恥ずかしさで、顔が火照るのを感じた。
「保憲の、奴か?」
耳元で、声が聞こえた。
その瞬間、伸びてきたて手が寝間着の襟を強い力で引っ張った。
はらり、と。
片肌が脱げ、赤い刻印が露になった。
慌てて隠そうとしたが、保遠の手で両腕を拘束された。
「成る程。昨晩は保憲の奴と宜しくやっていたという訳か」
嘲笑交じりに、保遠が哂った。
「何だ。保憲も無愛想な顔の癖にやる事はやっておるのだな。奴も所詮は只の男。幾ら化け狐でもかように美しければ、手を出さずにはおられまいよ」
「貴様ァっ!」
侮辱された怒りと悔しさで、全身が戦慄く。
だが、保遠は眉一つ動かさない。
くつくつと、低く笑い声を立てるのみである。
「なあ、晴明よ。奴との情事は、心地よいのか」
突如耳朶を打った声に、晴明は「やめろ!」と大きく首を横に振った。
「質問に答えろ」
保遠は意地悪く囁いた。
「奴の腕はどのように貴様を抱き、頂上へと誘うのだ? 昨晩抱かれたのだ、忘れる筈はあるまい」
「違う、抱かれてなぞおらぬ!」
「――嘘を吐くな!」
突然声を荒げた保遠に、肩が大きくびくついた。
刹那、自分の怒声で我にかえったのだろう――保遠が小さく息を呑む音が聞こえた。
「乱暴な真似をしたな、すまぬ」
謝罪の言葉を述べ、晴明を解放した。
「な……っ」
晴明は、呆然と保遠を見つめた。まさか謝られるとは思いもしなかったのだ。
「では、失礼する」
晴明の視線から逃げるように背を向け、障子に手を掛ける。
その、瞬間。
晴明は目撃した。
冷轍漢である筈の彼の表情が、戸惑いの色に染まった様を。
「保遠……?」
静けさを取り戻した寝屋の片隅で、晴明は小さく首を傾げた。
「奴は一体、どうしたというのだ」