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第四章 ぷろじぇくと・おぶ・みかど――春愁乱舞

 今回はコメディー色が強い作品となっております。

 本作ではお約束のちょっと下品なギャグも連発しておりますので、苦手な方は御注意を。


一.



 眩い光を帯びた上弦の月が、庭園を照らしている。

 その中で、はらりはらりと薄紅色の花弁が舞っていた。

 ……夜桜であった。

 冷気をはらんだ夜風に乗せられて、一片ひとひらの花びらが渡殿わたどのの上に落ちる。

 細長い指が、それをつまみ上げた。

 保憲やすのりは風に靡く髪を鬱陶うっとうしげにかきあげつつ、視線を横に向けた。

 宵闇よいやみの中で、優雅に舞い踊る桜花おうかが、目に映る。

 保憲は微かに口元を歪ませ、栗色の双眼そうがんを細めた。

 桜が散る儚い様は、遠い日の記憶を思い出させた。

 大切な者を目の前で失った、記憶を。

「――おお、保憲ではないか」

 突如とつじょ名を呼ばれ、はっと我に返る。

 目の前に、忠行の姿があった。

 白い寝間着を身にまとっている。両手に、大量の巻物を抱えていた。

「ちょうど、御主おぬし寝屋ねやを訪ねようと思っていたところじゃ」

「私に、何か用でも?」

「ああ。御主に渡したいものがあってのう」

 忠行は不可解な笑みを浮かべつつ、巻物を差し出した。

「……これは」

 嫌な予感をふつふつと感じながら、問うた。受取った大量の巻物から、ほのかに墨の臭いがした。

「まあ、見てからのお楽しみじゃ。……それよりも御主、最近、晴明せいめいとは如何どうなのだ?」

「如何、とは」

 保憲は解せない質問に面食らい、眉をひそめた。

 忠行は笑みを更に深いものへと変え、「やはりな」と呟いた。

「堅物な御主には理解出来ぬ話題であったか。この忠行の息子とは到底思えんわい。よよよ……、父上は悲しいぞ~」

「――何のことです」

 口元を袖で覆い、さめざめと泣きまねをする忠行を見、再度訊ねた。勿体をつける父親に対する苛立ちが、眉間の皺を更に深くさせた。

「否、こちらの話じゃ」

 忠行はくつくつと肩を揺らして笑いつつ、きびすを返した。

「まあ、その巻物を読めばおのずと分かるじゃろうて。御主もそれを見て良く勉強すれば良い。くれぐれも、晴明に不憫ふびんな思いをさせてやるでないぞ」

「……晴明……?」

 遠ざかって行く背中を見つめながら、首を傾げた。

「何故、奴の名が出てくるのだ」

 視線を、下ろす。

 ずっしりと、巻物が腕の中で重さを主張していた。

「……これを一体どうしろというのだ」

 途方に暮れた保憲は小さく舌打ちをした。

 とりあえず渡殿の上に腰掛け、巻物のうちの一つを開く。

 視界に飛び込んできたのは、男女の交わりを描いた絵画であった。

 ……堰足図えんそくず

 所謂、春画である。

 一瞬前まで胸の中で燻っていた疑惑が、ようやく一つに繋がる。

「……父上」

 ぐしゃり、と。

 怒りで震える指先が、巻物を握りつぶした。

 今すぐ忠行にじゅの一つでもくらわしてやりたい。

が、この事が騒ぎになり、堰足図の存在が知られるのは何としても避けなければならないだろう。

 先程の忠行との会話を晴明に知られるだなどと、考えただけでもぞっとする。

 それに、忠行に返そうとしても、しつこく感想を訊いてくるに違いない。

 それはそれで、面倒だ。

 と、なると……。

 ――隠す場所を、考えねばな。

 保憲は双眸を閉じ、小さく嘆息した。




二.




 同じ頃。

 晴明は、寝屋の前にある簾子縁に腰掛け、桜を眺めていた。

 片手には、さかずき

 その中で、甘い香りを漂わせながら、白濁が揺れていた。

 にごり酒である。

 ……ふわり。

 淡い色を湛えた花弁が、酒の上に落ちた。

 水面みなもに浮かぶ船さながらに、浮かんでいる。

「ふふ」

 晴明は小さく声を上げて笑い、杯に唇を近づけた。

「――ひ~めさんっ」

 背後から、声が聞こえた。

 同時に、ぎゅっと抱きつかれる。

 視界の隅で、群青の髪が揺れた。

「いきなり何をするのだ、ひずみ

「かぁ~っ、やっぱり宵闇よいやみの中で見る姫さんもすてきやなあ……」

「いや、だから何をするのだと」

「ほんまやっすんには勿体無いわあ」

「……人の話を聞け」

 手を伸ばし、緩みきっている歪の頬を思い切りつねる。

「い、いひゃひゃひゃひゃっ! ひめはん、いひゃいっ!」

「自業自得だ、莫迦ばか。それに、何時いつまで俺を抱きしめている気だ」

「わ、わはった! わはったはらっ! はなひてくらはい!」

 漸く、手を離す。

 歪は大急ぎで晴明から飛びのき、赤く腫れた頬をさすった。

「うう、ええやないか。抱き締めるくらい」

「俺は良くない」

「ちぇっ」

 歪は舌打ちをしつつ、晴明の隣に腰掛けた。

「――ところで、やっすんとは何処どこまでいったんや?」

「え?」

 急な話題転換に驚き、思わず聞き返した。

 一方の歪は、「どうなんや?」とにやつきながら答えを待っている。

「何処までとはどういうことだ?」

「だ、か、ら!」

 歪は晴明ににじり寄り、耳に口を近づけた。

「やっすんともう口付け以上のことはしたんかっちゅう話や!」

「な……っ」

 顔を真っ赤に染めた晴明を見、「……やっぱりか」と歪が呟いた。

「むっつりなやっすんのことやから、てっきり手エ出しまくりやと思っていたけど……」

「ばっ! 保憲はそんな男ではないわ、阿呆あほう! 葉月はづき以来、一切手出しなぞして来ぬ!」

「ほう。じゃあ葉月以来一回もちぎってないんやな?」

 歪がにんまりと笑い、問う。

「……あ」

 晴明は慌てて口元を覆ったが、もう遅い。「はかったな」と、歪を睨みつけることしか出来なかった。

「でも、それはまずいな」

 ふと、歪の顔から笑みが消えた。

「何年間も姫さんを我慢してきたんや。恋仲になってから一回くらい契ってもおかしゅうはないと思うんやけど……」

 何やら考え込んでいるらしく、漆黒の瞳を移ろわせる。

 やがて晴明に視線を向け、唇を開いた。

「――もしかして、倦怠期けんたいきか?」

「倦怠期、とは?」

 首を傾げると、「せや」と歪が頷いた。

「つまりやな、お互いへの興味が薄れているってことや」

「何!?」

 晴明は思わず大声を上げた。

 大祓おおはらえ以来、保憲とは常に行動を共にしていた。だが、かようなことになっているとは全く気付かなかった。

 むしろ、保憲はちゃんと恋人らしく接してくれていたのだ。

 少し照れながらも、自分から手を繋いでくれたり、抱き締めてきたりもした。その度に、全身で愛を表現されているみたいで、例えようのない幸福を感じていた。

 ――そう思っていたのは、俺だけであったのか?

「あ……、いや、まだそうと決まったわけやあらへんし! それに、倦怠期を脱出できる方法もあるんやで!」

 落ち込む晴明を見かねたのか、歪が随分ずいぶんと慌ててしゃべり始めた。

「……脱出法?」

「せや! 例えば」

 そこで歪は妖艶ようえんな笑みを浮かべ、晴明を人差し指で指した。

「肉体的刺激や!」

「なっ!」

 再び、顔に熱が集まる。

 晴明は歪から顔を逸らし、俯いた。

「な、なれど! か、かようなことを保憲が俺に求めておるとは思えぬが……」

「――甘いっ! 甘いで姫さんっ!」

「……なにがだ?」

 歪の剣幕けんまくに押されつつも、訊ねる。

 歪は晴明の肩をがしりと掴み、真摯しんしな眼差しを向けた。

「好きな女と契りたくない男なんておらへんよ。あのやっすんのことや。姫さんに気ぃ使って中々契りたいと言えへんねやろ。せやから、姫さんからきっかけを作ってやらへんと」

「お、俺からか……?」

「おん! ま、女から誘わせるやなんて情けない話やけどな」

 歪は苦笑しつつ、「でも姫さんならやっすんもその気になってくれるやろ」ととんでもないことを言って晴明をたじろがせた。

「そ、その気……!?」

「はは。どの気やと思ってんねん?」

 歪がけたけたと笑いながら、晴明の身体に視線をわせる。

 その動きが、胸元の辺りで急停止した。

「むう……」

 歪は低く唸り、胸に手を当てた。

 表情険しく、ぼそりと一言。

「――こりゃあ肉体的刺激は厳しいかもしれへんな」

 ぷつん、と。

 晴明の頭の中で、何かが切れた。

 数秒後。

 悲鳴と怒鳴り声が、屋敷中にとどろいた。





三.





「――で、俺のところに来たって訳か」

 みかどは、口元に小さく笑みを浮かべて、前方を見つめた。

 その視線の先には、歪がいた。

 腫れ上がった頬をさすり、「おん」と涙声で頷く。

「あのかわいいじゃじゃ馬はわての手にはおえへんからな」

 ……此処は清涼殿せいりょうでん

 日中というだけあって、たくさんの女房にょうぼうが忙しなく出入りしていた。

 だが、誰も歪には目を留めない。寧ろ、存在すら感じていないようであった。

「それにしてもあれやなあ……」

 歪はにやつきながら、周囲を見渡した。

「中々ぺっぴんさんが揃ってるやんか」

「そうか?」

「おん。むさ苦しい男だらけの賀茂家とは大違いや。ええなあ自分……」

 羨望せんぼうの眼差しを向ける歪に、帝は苦笑した。

「はは、そうでもねえよ。俺に言わせてみりゃお前達の暮らしのほうが自由って感じで羨ましいよ」

 帝は、ふっ、とまぶたを伏せた。

「幾ら表面は華やかに着飾って贅沢三昧していても、実際は際限のない制約に縛られているだけだ。帝の俺だって、こんな薄暗い部屋の中に一日中閉じ込められている。政治には一切関与できねえ。帝なんて地位も所詮名ばかりの只の飾りさ」

 幼い頃から、そうだった。

 妖異よういの如き容姿の皇子みこ

 災いをもたらす子供。

 表面上は帝として持てはやされていたが、影ではそう恐れられ、蔑まされていた。

 人の目を恐れて、清涼殿に帝を閉じ込められていたのがその良い証拠だ。

 あの薄暗い部屋の中で、幾度泣いたことだろう。

 何度、生まれてきたことを悔いただろう。

 だが、あきらめることしか出来なかった。

 死ぬことも、出来なかった。

かごの中の鳥」として生きるしか、道はないのだから。

 自由を手に入れる権利も、ないのだから。

 そしてそれは今も……。

「――かど、帝!」

 肩を叩かれ、はっと我に返る。

 歪が訝しげな顔で、此方を覗き込んでいた。

「どないしたんや、ぼーっとして」

「いや、何でもねえよ。ちょっと疲れただけだ。連日まともに寝てないんでな」

「……さよか」

 歪はまだに落ちぬようであったが、渋々頷いた。

 あまり触れぬほうが良いと、思ったのだろう。

「――ところで、さっきの姫さんとやっすんの話やけど」

「ああ。倦怠期、だろ?」

 帝はくつくつと笑みを零し、脇息に寄り掛かった。

 想い人と恋敵の倦怠期。

 まさか自分がかような相談を受けることになろうとは。

「っていうか、何でよりによって俺にそんな相談するんだよ」

「だって自分、そういう経験は豊富やろ?」

「……てめえそりゃあどういう意味だ」

 帝は額に青筋を立てつつ、呟いた。

 だが、歪のいうこともあながち間違ってはいないのだ。実際、今までたくさんの女と関係を作っていたのだから。

「ふん、まあ別に良いけど」

 帝は小さく息を吐き、にやりと笑った。

「晴明と保憲のことなら大丈夫だ。俺に良い考えがある」

「おっ、ほんまか!」

 歪が目を輝かせて身を乗り出してきた。

「さすが経験豊富な奴はちゃうなあ! この短時間で思いつくやなんて!」

「……だからその経験豊富って言い方やめろ」

「で!? どんな考えなんや!?」

「人の話を聞いていたのか、てめえは。……まあ良いが」

 ごほん、と小さく咳払いをし、口を開く。

「率直に言うと、肉体的刺激だ」

「でも、姫さんで肉体的刺激が期待出来ると思うか?」

「は? そりゃあ、当たり前――」

 言いかけて、ぴたりと思考が停止した。

 晴明の姿が、脳裏を過ぎる。

 顔に、熱が集まるのが分かった。

「おい、自分。何かやらしいこと考えているんとちゃうやろな?」

「ちっ、ちげえよ莫迦!」

「ふーん……」

 全力で否定しても直、歪はじと目で此方を見つめている。

「自分も案外、むっつりなんやな」

「なっ! むっつりって言うな!」

「じゃあムッソリーニや」

「ムッソリーニって誰だ!?」

「……ま、こんなくだらん話をしとる暇はあらへん」

 呆れ混じりに呟く歪を、帝はお前から始めたんだろうがと内心つっこまずにはいられなかった。

「で? 自分の言う考えって具体的になんや?」

「ふふん、それはな……」

 一旦言葉を切り、歪の耳元に口を寄せた。

 ……はらり。

 舞い落ちた桜花おうかが一片、部屋の中へ迷い込んできた。

 それが静かに床に落ちると同時に、二人の男の不気味なくすくす笑いが部屋を包み込んだ。



「何?」

 晴明はぴくりと片眉を上げて呟いた。

 蜜色の瞳を一つしばたかせ、向かい側に座っている忠行を見つめる。

「それは、まことなのですか」

 どうも信じられませぬ、と訝しげに問う。

そんな晴明に「本当に決まっておろうが」と忠行が苦笑した。

「わしもにわかには信じられなかったがの。まさかあの帝がかようなことを言い出すとは」

「ええ……」

 晴明はこくりと小さく頷き、俯いた。

 ……忠行の話によると、こうであった。

 帝が今朝突然、卯月うづきに催される競馬くらべうまでの演舞を、保憲と晴明にさせたいと言ったらしい。

 かような宮中行事での演舞は、本来であればやんごとなき身分の者がやるべきなのだ。幾ら陰陽頭の忠行がいる賀茂家であれど、宮中での地位の高さからして本来ならば無理な話である。実際、宮中の者達もそう思ったに違いない。

 だが、其処は帝のご命令。

 皆、逆らうことなぞ出来なかった。

 そうして、今忠行の元にその話が舞い込んできたのである。

「本当に、保憲と舞わなければならぬのですか」

 押し殺した声で、晴明は問うた。

 昨晩の歪との会話の所為で、保憲と顔を合わせることに多少の気まずさを感じていた。

「まあ、帝のご命令じゃからのう……。だが、御主達にしてみれば嬉しいじゃろう? 恋仲なのじゃからな!」

「たっ! 忠行殿!」

 高らかにのたまう忠行を晴明が慌てて制止した。

「かように大声でおっしゃらないでくだされ! 家の者に聞こえたらどうするのです!」

「ははは。今更隠さずとも御主等のことは周知の事実じゃろうて」

「忠行殿!」

「……ま、それはそうと」

 忠行は急に笑みを掻き消し、晴明を見据えた。

「確かに異例ではあるが、このことは賀茂家の名を更に知らしめる絶好の機会じゃ。どのような事情があろうと、我が賀茂家にとって損なことではない。陰陽師の端くれである御主にでも、それは分かろう?」

「……はっ」

 晴明は床に片ひざを付き、頭を下げた。

「されど、保憲が承知してくれるかどうか……」

「なあに、心配には及ばぬよ」

 忠行は整った唇を楽しげに歪ませた。

「奴は大抵のことは難なくこなせてしまうからのう。色事と、和歌以外はな」





 四.



 数刻後。

 晴明は屋敷の庭園にいた。

 萌黄色をした装束を身に着けている。

 競馬で踊ることになった演舞「納曾利なそり」の別様装束である。

 狩衣や直衣というよりは、束帯に近い格好であった。

 ほうから後ろへ引かれたきょがどうも邪魔臭い。

 更にその下には大口おおぐち指貫さしぬき、などを何枚も重ね着をしているので熱くてたまらない。

「ふう……」

 晴明は深く息を吐き、顔を顰めた。

「見た目こそ華やかだが、衣服とは思えぬ程に着心地が悪いな」

「……そのようなことを申すな」

 簾の縁に腰掛けている保憲が、静かに晴明をいさめた。

 彼も同じ格好をしているのだが、顔色一つ変えていない。

 寧ろ、良く似合っている。煌びやかに飾り立てられた装束が、彼をより勇ましく見せていた。

 その金髪も相俟あいまって、何処か人ならざる存在のようでもあった。

「何故、貴様はそう何でも着こなせてしまうのだ」

 ぼそりと呟くと、保憲は「戯れ言を」と微かに唇を歪ませた。

「貴様の方が似合っておろうが」

「……何?」

 予想外の言葉に驚き、聞き返す。

 保憲は仄かに顔を赤く染め、俯いた。もうこれ以上は言わぬとばかりに、唇をきゅっと引き結んでいる。

「や、保憲。今のはどういう……」

「知らぬ」

「知らぬでは、分からぬではないか……」

 しゅん、とこうべを垂れた。

 思えば、保憲から面と向かって見た目について何も褒められたことがなかった。一度で良いから、「かわいい」だの「良く似合っている」だの言われてみたかったのだが。

「もう良いわ。保憲の阿呆」

 か細い声で捨て台詞を吐き、踵を返した。

 刹那。

「待て」

腕を強い力で引っ張られた。

 振り向くと、鋭い瞳が此方を見つめていた。常日頃変化のない筈のそれは、僅かな焦燥しょうそうを湛えていた。

「――合っておる」

 低い声が、空気を裂く。

 腕を掴んでいた大きな手が、頬にそろりと触れた。

「……保憲?」

 名を呼ぶと、保憲の顔の赤みが更に増した。

「似合っておると、言っているのだが」

「……え……」

 沈黙が、二人を包む。

 指先が、ゆっくりと頬を撫でた。

「っ!」

 びくり。

 肩が、跳ねる。

 保憲が小さく眉を上げ、口端を上げた。

 顔が、段々と近づいてくる。

 熱を孕んだ吐息が、唇を掠めた。

『でも姫さんならやっすんもその気になってくれるやろ』

 歪の言葉が脳裏を過ぎる。

「ふっ!」

 身体が、自然に動いた。

「ぐ……っ!?」

 拳が腹に減り込む感触と共に、保憲の表情が苦悶くもんに歪んだ。

「げほっ、げほっ」

「保憲! 大丈夫か!」

 激しく咳き込みながらうずくまる保憲に、慌てて声を掛けた。

 栗色の瞳が、恨めしげに晴明を見上げた。

「な……、何を……するの……だ……っ」

「す、すまぬ……。だが、貴様が突然顔を近づけてくるから……」

 その言葉で、保憲の顔色が変わった。

 強い、怒りの色に。

「ほう、私の所為だというのか? 手を出してきたのは貴様の方ではないか」

 込み上げる激情を露骨に滲み出した低い声に、一瞬怯ひるむ。だが、負けじと晴明も声を荒げた。

「ああ、貴様の所為だ! 大体、何故急に似合っておるだなどと言い出したのだ! あれ程言うのを嫌がっておった癖に!」

「それは――」

 保憲が言い返そうと口を開いた。

 その時。

「――はい、そこまで」

 背後から伸びてきた手が、保憲の口を塞いだ。

「何朝っぱらから痴話喧嘩ちわげんかしてんねや? お二人さん」

 ……歪であった。

 浅葱あさぎ色の狩衣をふわりと身に纏い、笑みを浮かべている。

「幾ら倦怠期ちゅうても、喧嘩は良くないで。喧嘩は」

「――ぐっ、う……!」

 呻き声が、聞こえた。

 口を塞がれた保憲が、必死の形相で暴れていた。

息が出来ないのだろう。顔が猿のように赤い。

「おお、堪忍かんにんな」

 歪が慌てて手を離した瞬間。

 ボコッ。

 鈍い音を立てて、保憲の拳が顔に炸裂した。

「ぶへっ!」

 珍妙な悲鳴を上げ、地面に倒れ込む。

 その様を、黄金の鬼が恐ろしいほど冷やかな目で見下ろしていた。

「どういうつもりだ、貴様。主を窒息させるつもりか」

「~っ! 自分こそ、どういうつもりや! よくもわての美顔を殴りおったな!」

「何所が美顔だ。よく鏡を見ろ」

「なんやと!」

 ……また、始まった。

 晴明は小さく息を吐き、苦笑した。彼等の喧嘩はいつものことだ、止める必要もない。

「保憲の服を汚さぬようにするのだぞ~」

 そう声を掛けつつ、簾の子縁に腰掛けた。

「お前が安倍晴明、か?」

 声が聞こえ、頭上に影が差した。

「?」

 振り向く。

 柔らかな笑みを浮かべた男が、其処に居た。



「……源博雅みなもとのひろまさだ。帝の命により、お前たちに演舞を教える為に此処へ参った。……宜しく」

「此方こそ、宜しくお願いします」

 晴明が深く頭を下げると、博雅と名乗った男は「止せ」と呟いた。

「あまり堅苦しくされるのは好かぬのだ。雅楽や舞に身分なぞ関係ない。普通に接してくれ」

 ……源博雅。

 皇族に生まれながら、源の姓を賜ったやんごとなき身分の男である。

 雅楽――特に横笛おうてきに関してはずば抜けた才能を持っていた。彼の愛笛・葉双はふたつが、彼の奏でる笛の音に魅了された鬼から自分の笛と交換してもらったものだという話は、宮中でも有名である。

「……良い御方みたいだな」

 保憲に、ぼそりと呟く。

「……ふん」

 何故か保憲は否定も肯定もせず、不機嫌そうに顔を顰めた。

「――お前たちが舞うのは、納曾利であったな」

 博雅の問いに、保憲はこくりと頷いた。

「ああ。この格好を見たら訊かずとも分かると思うが」

「保憲! 無礼だぞ!」

保憲の皮肉を交えた物言いに、晴明は声を荒げた。 

「良いのだ、晴明殿。そのくらいの方が俺も教えやすい」

 博雅はくすくすと笑いつつ、おもむろに懐から笛を取り出した。

「では、保憲殿。先ずはお前から試し舞をしてみてくれぬか」

「ほう、試し舞?」

「ああ。お前たちがどれくらい踊れるのか見ておきたいのだ。この笛に合わせてな」

「――笛は必要ない」

 博雅の言葉をさえぎり、保憲は髪紐をほどいた。

 金の糸が、風に靡く。

 それらが背中に広がると同時に、舞が始まった。

 四肢が滑らかに動き、虚空を泳ぐ。その度に長い装束の袖が蝶の羽の如くひらひらとたなびいた。

 長い据を引きながら、足で地面の音を大きく奏でる。

空気さえも従える。そう錯覚させるような、玲瓏とした表情を全身が作り出していた。

 その舞には、美しい儚さと共に、息を呑む程の荘厳さが在った。

「凄い……」

 呟くと共に、一抹の不安が過ぎる。

 実は晴明、かような舞をしたことがなかったのだ。

 ――どうしたものか。

 悶々《もんもん》と悩んでいるうちに、保憲の舞が終わった。

「いや、さすがだな。保憲殿。見事であった」

 ぱちぱちと拍手をしながら、博雅が声を弾ませた。

「かようなすばらしい舞は見たことがない! 陰陽師にしておくのが勿体ないくらいだ」

「……ふん」

 保憲は小さく鼻を鳴らした。照れているのか、顔が赤い。

「では、晴明殿もやってみせてくれぬか」

「えっ、否……俺は」

 期待の眼差しが、晴明を貫く。

「……はい」

 喉まで出かけていた言葉を飲み込み、がくりと肩を落とした。




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