第三章 享楽の始まり
一.
……朝。
空が白み始めたのか、御簾の隙間から光が零れている。
これまで静まり返っていた内裏にも、再び喧騒が戻りつつあった。
渡殿や簾子の上を女房達が眠そうにしつつも歩き回っている。
そんな中。
ある部屋で、賀茂保遠は女と密会をしていた。
「――一体どういうつもりなの、保遠」
女の声が、耳を通る。
跪き、床を見つめていた保遠は僅かに片眉を上げたが、返事を返さなかった。
「何故、昨晩にあの化け狐を殺さなかったと訊いている」
女の白い手が頬を滑り、撫ぜた。
指先で顎を掴まれ、無理やり視線を引き上げられる。
恐ろしいほどに秀麗な笑みを湛えた姫君が、目に映った。
……藤原穏子。
朱雀帝の母親である。
「言った筈ですわ、安倍晴明を必ず殺めよと」
耳元で響く声は、酷く甘やかで心地よい。
だが、保遠を見下ろす瞳は怒りに満ち溢れていた。
「ああ、確かに其の通りだ」
保遠は小さく笑い、沈黙を破った。
「だが、貴公は直ぐ殺せとは言っておらぬ。己に言わせれば、何故こうして問いただされねばならぬのか理解出来ぬが」
「何ですって!」
怒りを露にした穏子は、右手を大きく振り上げた。
ぱしり、と乾いた音が響く。
保遠の指が、穏子の手首を掴んだのだ。
「な……っ」
「では己も貴公に問おう」
呆然とする穏子を見上げ、くすりと笑みを漏らした。
「己が一度でも安倍晴明を直ぐに始末すると言ったことがあったか?」
「くっ」
穏子はぎりぎりと歯噛みしつつ、保遠の手を振り払った。
怒りで歪んだ顔を檜扇で覆い隠し、二三度咳払いをした。
「……では、何時彼女を殺めてくれるのかしら? 幾ら私とて、待つのには限界があります」
「ふん、そう焦るでないぞ。本当は直ぐに殺してやっても良いのだが、それでは面白くないだろう」
保遠はくつくつと喉を鳴らし、立ち上がった。
昨晩会った女の顔が、脳裏に浮かぶ。
『貴様に、俺は殺させぬ』
そう宣言した彼女の瞳からは、恐れなぞ微塵も感じられなかった。
只、真っ直ぐに。
只、純真に。
憎むべき存在として、此方を見つめていた。
今まで自分に恐れを抱く者は五万と居たが、敵意を抱く者――増してや逆らおうとする者なぞ一人として居なかった。
――妙な女だ。
再度笑い声を漏らす保遠の髪を、冷たい風がふわりと揺らした。
「奴をじっくり甚振ってから殺めるとしようぞ。その為に先ず……、晴明を我が手中に収める」
兄の名を呼んだあの唇も。
敵対心を滲ませたあの瞳も。
心を揺るがすあの声も。
抗う手足も。
全て、を。
「恋慕に溺れた人間ほど、酷な死に方もする者はおらぬよ。裏切られた涙と絶望に塗れた死に顔も、悪くはない」
「成る程……」
穏子はくすりと微笑し、満足げに頷いた。
……同じ頃。
清涼殿の夜御殿の中で、何者かが大きく嘔吐いている声が響いていた。
灯台の火に照らされた屏風に、二つの人影が映っている。
それらを覆うようにして、大量の白濁が飛び散った。
「はあ、はあ」
帝は荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと身体を起こした。
何処か艶やかな唇からは、白い雫が滴っている。
帝は口元を手の甲で忌々《いまいま》しげに拭い、顔を顰めた。
「おや、吐き出すだなどと、酷いことをする」
背後で聞こえたねっとりとした中年男の笑い声に、びくりと肩が跳ねた。
答える間もなく、肉付きの良い両腕に身体が包まれた。
伸びてきた指先が身体中を緩慢な動きで撫で回す。
「忠平、やめ……っ!」
拒絶の言葉を紡ごうとすると、二本指が口内にゆるりと侵入してきた。
「ぐ、ぅ……っ」
汗と精の味が口いっぱいに広がり、思わず呻き声が漏れた。
しかし、忠平と呼ばれた男は動きを止めようとはしなかった。
「随分とつれない態度をお取りになりますな、貴方は。先程まであんなにも悦んでいたというのに」
指が歯列をなぞり、舌先をゆるゆると愛撫する。
まるで深く口付けられているような錯覚を覚え、眩暈を感じた。
「それに、最近はこの忠平とのお戯れをぷっつりと止めてしまって……。幾月寂しい夜を過ごしたことか。なれど、貴方はまたかようにつれない態度をお取りになる。私は夢に見る程貴方を思っていたというのになあ。――ちょうど、今のような夢を」
忠平が吐いた悩ましげなため息が、耳に吹きかかる。
「く……っ!」
身体中から力が抜け、帝は力なく床にへたり込んだ。
同時に、身体が戒めから解放された。
「もう、止めたいんだよ。てめえらと無意味に身体を重ねることは。俺は、母上やてめえの玩具じゃねえんだ」
「――良いのですか、それで」
「な、に」
予想外の返答に戸惑う帝を、忠平が見据えた。
「貴方の大切な方を失うとしても、ですか? ……例えば、安倍晴明のような」
「なっ!」
大きく息を呑み、瞠目する。
一方の忠平はにんまりと笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「此方が何も存じておらぬとお思いなのですか、帝」
「な、何のことだよ……」
じりじりと、後ろへ後退る。
だが直ぐに壁にぶつかり、逃げ場がなくなった。
「おやおや、惚けるおつもりか、帝。否――」
そこで忠平は言葉を切り、壁に手を置いた。
ちょうど、帝の顔の真横であった。
「――十六夜の君?」
耳朶を打った、呼び名。
それが耳を通ると共に、どくんと胸が高鳴った。
――何で、それを。
息が荒くなり、呼吸が苦しくなる。
「うっ……」
「おっと」
ふらりとよろめいた身体を、忠平の腕が支えた。
くつくつと、不快な笑い声が頭上から聞こえた。
「その反応からして、安倍晴明と恋仲であったのは、本当だったようですな」
「てめえ……、晴明に何をする気だ!」
「ふふん、案じなさるな。別に何もしませぬよ。貴方次第では、ですが」
「どういう、意味だよ」
「貴方が、私に大人しく抱かれていれば良いだけの話です。さすれば、安倍晴明には手出しをせぬとお約束致しましょう」
「……てめえ……!」
帝はしばらく忠平を睨みつけていたが、やがて力なく項垂れた。
「本当に、手出ししねえんだな……」
「勿論、一切手出しをしませぬよ」
乱れた髪を、忠平の手がかき上げた。
露になった項に唇を寄せ、赤い刻印を残す。
頬を伝う一筋の涙が、其処に落ちた。
二.
「……ん」
肌を打つ冷たい風で、保憲は目を覚ました。
「寒い……」
低く呟き、重たい瞼を開ける。
首を僅かに上げて身体を見下ろし、小さく首を傾げた。本来被っている筈の衾が、何処にも見当たらないのだ。
視線を、這わせる。
左横で、一人の男が衾に包まっていた。
一つに結わえられた白髪。
褐色の肌。
くっきりとした目鼻立ち。
保憲や晴明のように美麗という訳ではないが、凛々《りり》しい顔つきをしていた。
「何者だ、此奴は」
保憲は一人ごち、辺りを見渡した。
昨晩、新しい式の護白と共に床に就いた筈なのだ。
しかし、護白の姿は何処にも見当たらなかった。
「ふむ」
小さく唸り、ため息を吐く。
気だるさの残る身体を起こし、隣に居る男を見下ろした。
着古された黒い狩衣が、彼の呼吸に合わせて上下している。
微かに開いた唇から、鼾が漏れていた。
……どうやら爆睡中のようである。
「……おい」
声を掛けたが、一向に起きるけはいがない。
返事の変わりに、耳障りな鼾が返ってくるばかりである。
――どうやら、普通に起こしただけでは無駄らしいな。
ゆるりと瞬き、屈み込む。男の身体を包んでいる衾に向かって、手を伸ばした。
その、刹那であった。
伸びてきた両腕が、首に回された。
「な……っ」
抗う間もなく抱きこまれ、身体が男の上に倒れた。
「き、貴様」
漸く我に返り、もがく。
が、男の両腕はびくとも動かない。
それどころか、より強く抱き締められた。
「う……ん、もう食べられない……」
「く……っ、何を寝ぼけておるのだ貴様は」
男の寝言に舌打ちをし、保憲は再びもがいた。
ただでさえ、妖しげな噂が耐えないのだ。かような所を下郎や家の者達に見つかったらあらぬ誤解をされてしまうだろう。
そうなることは、何が何でも避けたい。
――なれど、どうすれば……。
ふと、男の額に目が行った。
下ろされた前髪の隙間から、赤い文字が見える。
“保”。
保憲が使役する式だけに与えられる、主従の証であった。
「貴様……、もしや」
沸き起こった確信を言葉にしようと、口を開いた。
瞬間。
「やっすん、何時まで寝ている気なんや? 姫さんなんかもうとっくに家を出てはるで」
目の前でぴしゃりと障子が開き、歪が顔を覗かせた。
自分と瓜二つの顔が、見る見るうちに驚愕の色に染まる。
はらり、と。
解けた髪紐が床に落ち、片肌が脱げた。
しばらくして。
屋敷中に楽しげな笑い声が響いた。
「はっはっはっ。それはとんだ災難じゃったのう。保憲や」
忠行は口元に当てて肩を揺らしながら、言った。
「確かに大層な変わりようじゃからのう。主である御主が気付かぬのも無理はない」
「……されど、変わり過ぎではござらぬか」
保憲は眉を寄せ、握り飯を口に運んだ。
隣では白い猫又がしゅんと項垂れていた。
「すまないでござる、保憲殿。見苦しい姿を見せてしまって……」
「おうおう、全くや。お陰でわてにあらぬ誤解をされるとこだったんやで、やっすんは。何や、わてより自分の方がよっぽど無能やんけ」
にまにまと意地悪い笑みを浮かべる歪を、護白の鋭い瞳が睨みつけた。
「外野は黙っているでござる」
「だっ、誰が外野やこらあ!」
「おや、頭だけでなく耳も悪いのでござるか。かわいそうに」
「お、おんどりゃあ……、よっぽどわてに殴られたいんやな」
「――朝っぱらから元気じゃのう」
火花を散らせている二人の式を微笑ましげに見つめ、忠行が苦笑した。
「歪が元気になって、良かったのう。保憲や」
「……は」
保憲は解せぬ言葉に眉を顰め、忠行を見た。
「心配していたのじゃろう? 歪のことを。確かに、椿樹が居なくなってからというものの、すっかり大人しくなってしまっておったからな」
「……戯れ言を。寧ろ私は、このまま大人しくしてくれたら良かったと思っておりまする」
「ふふん、素直じゃないのう。御主も」
「ふん」
けたけたと笑う忠行から顔を背け、立ち上がった。
顔が赤くなるのを感じつつ、歪達に歩み寄る。
「――何時までやっておるつもりだ、阿呆」
取っ組み合いをしている二人の頭に、拳骨を振り下ろした。
彼の口元には、あるかなしかの笑みが浮かんでいた。
三.
「――何故、其処まで距離を置こうとする」
鳶色の瞳が、此方を見つめる。
晴明は言い知れぬ悪寒を感じながら、じりじりと後退した。
文机に背中が当たり、書物が音を立てて床に落ちた。
「当たり前だ! 昨夜あのようなことをしておいてよくもぬけぬけと……っ!」
「……ああ。成る程」
保遠の口元に歪んだ笑みが浮かんだ。
手が頬に触れ、ゆるりと撫ぜた。
「お望みと在らば、もう一度してやっても構わぬぞ」
「なっ、結構だ!」
慌てて手を振り払い、叫ぶ。
保遠は心外だとでも言うように、ため息を吐いた。
「何だ、かわいげのない。昨夜は随分とかわいらしく相手をしてくれたというのに」
「……何時俺がそんなことをした」
「おや、覚えておらぬのか。なら、思い出させてやろうか。今此処で」
「やっ!」
両手首を壁に縫い付けられ、思わず小さな悲鳴が零れた。
逃れようと暴れるが、微塵も保遠の身体は動かない。
「く……っ」
せめてもの抵抗に、じろりと保遠を睨みつける。
「……ふふん」
保遠は小さく笑みを浮かべ、顔を近づけた。
ぎらり、と。
視界の隅で何かが光った。
直後。
翡翠色に輝く刃が、背後から保遠の首元に突きつけられた。
「何をしている」
怒りに満ちた栗色の瞳が、保遠を冷たい眼差しで見据えた。
保遠は動じることなく、刀の持ち主に目を向けた。
「随分と遅い登場だな、護り人殿」
「――保憲!」
拘束が緩んだの見計らい、晴明は保憲の下に駆け寄ろうとした。
……しかし。
「何処へ行く気だ?」
低い声が耳を通ると共に、腕を掴まれた。
「晴明を離せ、保遠」
「……ふん」
保遠は小さく鼻を鳴らし、晴明の顔に屈み込んだ。
触れ合うだけの、口付けであった。
「……なっ」
背後で保憲が息を呑む音が聞こえ、漸く我に返った。
「こ、の……っ」
片手を、振り上げる。
だが、あっけなく掴まれてしまった。
保遠は保憲から離れ、正面に向き直った。
「く、く。此奴と貴公は恋仲なのだろう、保憲」
「……それが何だ」
唸るように呟く保憲の眉間には、これ以上ない程に皺が寄っている。
「生憎だが、己も晴明が酷く気に入ってしまってな」
「何」
「故に、貴公から奪ってやることにしたのだ。かように良い女を貴公のものにしておくのは癪だからな」
そこで保遠は晴明を保憲に押し返した。
「……貴様」
「己に取られぬよう、精々足掻くことだな。護り人殿」
踵を返し、御簾を潜る。
保遠が立ち去った方角を、保憲は鋭い瞳で睨みつけていた。
静かなる冷気が、部屋中を覆う。
「や、保憲」
恐る恐る声を掛けると、栗色の双眸が此方を見た。
「けがはないか、晴明」
「あ、ああ」
小さく頷くと、保憲は「そうか」と安堵の息を吐いた。
「保遠の言ったことは気にするな。奴の望みがけして叶うことはない」
ぎゅ、と。
力強く抱き締められた。
「もう二度と、離さぬと誓ったのだ。私は、貴様をけして離さぬ。保遠に、渡しなぞせぬ……!」
「保憲……」
背中に回された掌に、自分のそれを重ねる。
「せい、めい……?」
戸惑い、小さく息を呑む保憲を真っ直ぐに見上げた。
「俺も、だ」
「な、に」
「俺も、けして貴様から離れぬぞ」
「俺が、保遠の言葉だけで易々と貴様から離れると思うたか? それ程、俺の貴様に対する愛情は軽いものではないぞ」
「晴明……」
保憲は目を丸くして晴明を見つめていた。その顔は、ほんのりと赤く色づいている。
やがて視線を逸らし、俯いた。
「莫迦者……。何故そのようなことを急に」
「貴様は違うとでもいうのか?」
「否。かようなことは言わずとも分かっておるということだ」
晴明は目をぱちくりと瞬かせ、微笑した。
「ふ、何だ? もしかして貴様、照れておるのか」
「違う」
「では何故、頬が赤くなっておるのだ?」
「……知るか!」
保憲は珍しく大きな声で叫び、どすどすと足音を立てながら部屋を出で行った。
「あ、待て! 未だ話は終わっておらぬよ!」
晴明はくすくすと笑いながら、その後を追った。
……陰陽寮の朝は、始まったばかりである。