第二章 春の宵闇の中で羅刹は啼く
一.
夜。
晴明は、大広間で食事をしていた。
賀茂家では、大広間で皆揃って食事をするのが常であった。
――あの保遠という男は、一体何者なのだ……。
保遠に飛び掛った際の、保憲の顔を思い出す。
晴明に見向きもせずに駆け出した背中から、強い意思を感じた。
弟を殺すという、意思を。
――あ奴等の間に、一体何があったのだろう。
隣にいる保憲を、見遣る。
保憲は何事もなかったかのように、ただ黙々《もくもく》と飯を口に運んでいた。
「――どうした、晴明」
突然保憲に名を呼ばれ、びくりと肩が跳ねた。
保憲の瞳が訝しげに此方を見つめていた。
「箸が止まっている。私の顔に何か付いているのか」
「い、否! 何でもないぞ!」
晴明は慌てて飯を口の中にかきこんだ。
「うぐっ! げほっ、ごほっ!」
だが、喉に飯が詰まり、激しく咽てしまった。
――何をしておるのだ、俺は。
自分が情けなくなり、涙がじんわりと視界を覆った。
「何をしておるのだ、貴様は」
くすくすと笑う声が聞こえ、恥ずかしいやら悔しいやらで顔が赤くなった。
「……笑うな、莫迦」
ぼそりと呟き、俯く。
すると、保憲の手が顎を掴んだ。
視線が、重なる。
「……付いておるぞ」
保憲は指で晴明の頬を擦り、人差し指に付いた米粒を口に入れた。
瞬間、周囲に居た男たちが一斉に吹き出した。
皆、保憲の父・忠行に仕える弟子である。
「や、保憲様……、御乱心か?」
「しかも相手はあの半妖だぞ」
「もしやあの二人はそういう仲だったのか」
「まあ確かに美男同士でお似合いではあるな」
「う、羨ましい……じゃなかった許すまじ晴明!」
晴明は、弟子達の間で好き勝手に繰り広げられる憶測に、顔が熱くなるのを感じながら、保憲を見上げた。
「き、貴様……何を……」
「どうかしたのか晴明。随分と顔が赤いが、熱でもあるのか」
保憲は晴明に近づき、額同士をこつんと軽くぶつけた。
「――っ!」
声にならぬ悲鳴をあげ、急いで保憲から後退した。
「……晴明?」
保憲は晴明が何故かような反応をするのか分からないらしく、微かに眉を顰めた。
「ききききき、貴様! 無自覚にも程があるぞ!」
金切り声で怒鳴り、保憲を指差す。
当の保憲は眉間の皺をより深いものへと変え、「何の話だ?」と呟いていた。
「――これ、保憲。あまり晴明を苛めてやるな」
障子が開き、初老の男が入ってきた。
白髪交じりの黄金の髪。
切れ長の鋭い瞳。
老いを感じさせぬ端麗な容貌。
保憲に良く似た彼の名は、賀茂忠行。
稀代の陰陽頭である。
「おっ、お疲れ様です忠行様!」
「まことに恐れながら、晩飯を先に頂いております!」
弟子達が素早く手を床につき、忠行に向かって深々と頭を下げた。
「何、そのくらい構わぬよ」
忠行は苦笑いを零しつつ、晴明達に向かって足を進めた。
どさりと、保憲の隣に腰掛け、ぽんと肩を叩いた。
「全く、御主の鈍感ぶりは目にあまるものがあるぞ」
忠行は、ほう、と悩ましげにため息を吐いた。
「それだから何時までたっても女人に……否、今の御主にかようなことを言うのは無粋じゃな。のう、晴明や」
忠行は晴明を見遣り、くすりと笑みを零した。
「たっ、忠行殿!」
「何をそんなに焦っておるのだ……」
顔を真っ赤にして叫ぶ晴明を、保憲が不思議そうに見つめた。
そんな彼等に、忠行は口元に檜扇を当て、心底楽しそうに笑った。
「ほ、晴明。御主も案外初心じゃのう」
「あまり人をからかわないでくだされ!」
「まあまあそう怒るでない、晴明。ほんの戯れではないか」
忠行はそう言いつつ、立ち上がった。
「父上。晩飯を召し上がらないのですか」
保憲の問いに、忠行は「否」と首を横に振った。
「席をしばらく外すだけじゃよ。今から晴明に少し話があるのでな」
「晴明に?」
片眉を上げる保憲を見下ろし、忠行はにんまりと笑った。
「何じゃ、保憲。もしや父上と食事が出来なくて寂しいのか」
「……は」
きょとん、とした顔の保憲を忠行の両腕が包み込んだ。
「そうか、そうか。父上は嬉しいぞ、保憲。じゃが心配せずとも大丈夫じゃ。今夜はたっぷり御主を寝床の中で可愛がってやろ――」
ばきぃ、と。
忠行がまだ言い終わらないうちに、保憲の拳が彼の頬に炸裂した。
二.
「うう……、保憲め。このわしに手を上げるなぞ躾がなっとらんぞ。親の顔が見てみたいわ」
「保憲の親は貴方ですぞ、忠行殿」
赤く腫れた頬を擦りながら毒吐く忠行に、晴明は苦笑しつつも言った。
「ふん、あんな不良息子を育てた覚えはないわい」
「また貴方はそんなことを……」
かような会話を交わす二人の周囲で、桜の花弁がはらりはらりと散っている。
彼等は今、屋敷の庭園にいた。
「――ところで、話とは何ですか。忠行殿」
舞い落ちてくる花弁を指先で愛でながら、晴明は訊ねた。
「ううむ」
忠行は低く唸り、視線を移ろわせた。
「……今朝、保遠に会ったじゃろう。御主はあ奴と保憲の間に流れる空気の異常さに、疑問を抱いたか」
「はい」
頷く晴明を見、忠行は「やはりそうか」と呟いた。
「すまぬ。御主にはやはり、話しておくべきだった。じゃが、突然保遠の奴が賀茂家を尋ねてくるとは思わなかったからのう」
「あの保遠という男、一体何者なのです。何故保憲は、あの男に恨みを抱いているのですか」
「何も保憲だけが保遠を恨んでいる訳ではない」
遮るように、忠行が言った。
「奴は、賀茂家の者全員から恨みを買っているのじゃ」
忠行は踵を返し、ゆっくり歩き始めた。
「今からちょうど十年前の、かように桜が咲いておる時期じゃった。……わしの細君である紅華姫が、亡くなった」
「存じております。歪から聞きました故」
「歪は、紅華が殺されたとまでは言っておらんかったろう」
「……何」
予想外の言葉に、晴明は大きく息を呑んだ。
「誰に、殺されたのです」
「保遠じゃよ」
忠行が立ち止まり、振り向く。
彼の双眸に、翡翠色の炎が灯っていた。
狂おしい程の、怒り。
それが如実に伝わり、身体が震えた。
「紅華を殺したのは、保遠じゃよ」
「な、何故そのようなことを」
問うと、忠行は「分からぬ」と小さく頭を振った。
「じゃが一つだけ確かなのは、奴がそれを自分の意志でやったということじゃ。その証拠に、奴は笑っていたのじゃよ」
「笑って、いた?」
「そうじゃ」
忠行はふっと目を伏せ、唇を噛み締めた。
「己の母の血に塗れて、狂ったように笑っていた。奴からは、罪悪感というものが微塵も感じられなかった……!」
「それで、保遠をどうしたのです。検非違使にでも引き渡したのでしょうな」
「否……わしは何もしなかった。保遠を、京の外へ逃がしたのじゃ」
「え」
ざあっ、と突風が吹き、髪が靡く。
桜吹雪の中で見えたのは、忠行の涙であった。
「わしは……、自分の地位が惜しかったのじゃ。もし陰陽頭の息子である保遠が人を殺めたことが世間に知られれば、宮中の貴族が黙っちゃいない。特に藤原氏なぞが賀茂家に代わって陰陽寮を牛耳ろうと、全力で潰しにかかるだろう。当然、そうなればわしの地位も危うくなる。わしはそれがどうしても嫌だった。だから保遠を逃がし、紅華が病死したと世間に公表したのじゃ」
「忠行殿……」
呆然とする晴明に、忠行はふっと嘲笑を浮かべた。
「わしが恨んでおるのは保遠なぞではない。息子を正しい方向へと導いてやれなかったばかりか、私欲に溺れて地位にしがみつくことしか出来なかったこのわし自身だ。晴明よ、かような浅ましい老いぼれを軽蔑するか?」
晴明は小さく微笑み、「否」と呟いた。
「軽蔑なぞしませぬよ。忠行殿が守ったのは自分の地位だけではない。陰陽寮や賀茂家を藤原氏の手からちゃんと守れたではありませぬか。もし貴方が保遠を逃がさなければ、今の俺達は此処にはいませぬ。俺だって、賀茂家に養子入りすることも、大切な者達とも出会えなかった。もしかしたら、あのまま自分の霊力で人を傷つけ続けていたやもしれませぬ。だから……、貴方を軽蔑なんて絶対にしませぬよ」
「晴明……」
泣き崩れる忠行の身体を支え、すう、と目を細める。
怒りが、ふつふつと込み上げるのを感じた。
「貴方が、悪いわけではありませぬよ」
空を見上げ、言う。
「自分を責めるべきなのは、保遠です」
ぎりっと歯噛みをし、震える双眸を閉じた。
三.
その日の夜中。
晴明は寝屋で文を認めていた。
……帝への文であった。
保憲と恋仲になった晴明であったが、未だに彼との交流は続いていた。
「ふう」
晴明は筆を置き、小さく息を吐いた。
そして書き終わった文を畳み、桜の花が咲いた枝と紅色の簪を紐で結びつけた。
満足げにそれを見つめ、微笑む。
帝の喜ぶ顔を思い浮かべると、ついにんまりとしてしまうのであった。
「――随分と、楽しそうだな」
背後から、声が聞こえた。
「誰ぞ!」
瞬時に刀に手を掛け、振り向く。
抜刀し、首元に突きつけた。
「貴様は……!」
瞠目する晴明の瞳には、口元に微かな笑みを湛えた保遠が映っていた。
「そう警戒するな。何も貴公を取って喰おうという訳ではないのだ。只、貴公に会いたくてこうして参っただけよ」
晴明は刀を鞘に納め、ふわりと笑みを浮かべた。
「偶然だな。俺も貴様に会いたかったところだ」
保遠は「ほう」と低く呟き、床に腰掛けた。
「貴様等兄弟の事情は、忠行から聞いたぞ」
晴明の言葉に、保遠の眉がぴくりと動いた。
「何故、母親を手に掛けたのだ。よっぽどの事情があったのだろう」
「――貴公に、教える義理はない」
「え」
鳶色の瞳が、晴明を射抜く。
放たれた強い霊気が、寝屋中に広がった。
身体がびくりと弓形に跳ね、そのまま動かなくなった。
「な、何をした貴様!」
「まあ、待て。己の用がまだ済んでおらぬだろう」
くつくつと喉を鳴らし、晴明ににじり寄る。
「己が何故、こうして貴公の元に来たか分かるか」
「否」
眉を顰めて答えると、吐息が掛かるほどに顔を近づけられた。
「……貴公と、戯れにさ」
言葉が紡がれると共に、戒めが解けた。
咄嗟に身体が反応せず、床に倒れ込む。
同時に覆いかぶさってきた保遠が紐で両腕を拘束し、晴明の動きを封じた。
「なっ!」
動揺の色を浮かべる晴明に、保遠は肩を揺らして笑った。
「今此処で貴公に手を出せば、保憲はどのような顔をするだろうな」
伸びてきた手が、襟を掴んだ。
「見たところ、あ奴は貴公に心底溺れているらしい。もし貴公の首に鬱血の一つでも付けようものなら――」
そこで保遠はくすりと笑みを零し、晴明の耳元に顔を寄せた。
「無情なあの冷血漢も、酷く取り乱すだろうよ」
瞬間、するりと衣擦れの音が響き、夜風が肌を撫ぜた。
脱がされた衣服が床へ落ち、首元に微かな痛みが奔った。
保遠の唇が、首筋に当てられていた。
「っ!」
慌てて保遠の手から逃れようと暴れた。
刹那、保遠の両手が晴明の首へ伸び、床に押し付けた。
「ぐ……、あぁっ!」
突如襲ってきた息苦しさに、晴明は大きく喘いだ。
「否、それとも……貴公を此処で殺したほうが奴の良い表情が見られるやもしれぬ。なあ、そうは思わぬか」
保遠の嘲笑混じりの声と共に、ぎりぎりと首が締め付けられた。
「う、ぐう……っ!」
大きく頭を横に振る晴明を、保遠は楽しそうに見下ろした。
美しい筈の彼の顔は、悦楽で醜く歪んでいる。
「死ぬか、晴明」
声が、耳朶を打つ。
首を締め付ける力が、より強くなった。
「ぐっ!?」
視界が暗転し、瞼の裏で複数の火花が散った。
――俺は、死ぬのか。
脳内に、ある男の顔が浮かぶ。晴明はその名を、躊躇なく口にした。
「保憲……」
呟いた声が耳を通り、全身を駆ける。
途端に、恐怖が身体を支配した。
一旦生まれた感情は、波紋のように広がり、侵食する。
「……っ、あ……」
一筋、温かいものが頬を伝う。……涙であった。
それは、晴明の抱いた恐怖を代弁するかの如く、しとどに溢れ続けた。
別に、自分が死ぬことは恐ろしくない。
だが、保憲と離れることが恐ろしかった。
永遠に続くと思われた闇の中で見つけた黄金の光。それを失うことが怖かった。
「な、に」
保遠が息を呑む音が聞こえた。
直後、息苦しさから漸く解放された。
「げほっ、げほっ」
晴明は大きく咳き込み、息を吸い込んだ。
涙で霞んだ視界の中で、保遠が呆然と晴明を見ていた。
「貴公は、恐ろしくはないのか」
「何がだ」
不可解な質問に、晴明は眉を顰めた。
「普通殺される人間は自分の死を恐れるものだ。他人のことなぞ気にかけもせぬ」
保遠は、すうっと瞳を細めた。
「だが貴公は保憲の名を呼んだ。自分以外の人間の名を呼んでいた。……何故だ」
「……別に俺は自分が死ぬことを恐れてなぞおらぬ」
「何だと」
晴明はふっと瞼を伏せた。
「だが、死ぬことで保憲と離れるのが恐ろしい」
数月前の情景が、頭に浮かぶ。
『貴様と繋いだこの手は、もう二度と離さぬ』
突然目の前に現れた黄金の護り人は、晴明を侵して暗闇を、一瞬のうちに薙ぎ払った。
共に過ごす時が。
隣に居る心地よさが。
繋いだ手の暖かさが。
彼の存在の全てがかけがえのないものに変わることに、そう時間は掛からなかった。
もう、離したくない。
嘗て伝えられた言葉は、晴明にとっても同じだった。
「……保憲は、暗闇の中で足掻き続けた末に、漸く見つけた大切な者なのだ。其奴を失うというのは、俺にとって死ぬよりも恐ろしいことなのだ……、だから」
晴明は言葉を切り、ゆっくりと顔を上げた。
「貴様に、俺は殺させぬ」
「……くっ……」
晴明を見つめる保遠の瞳が大きく揺れた。
にぃっと口元が釣りあがり、蠢笑が漏れ始めた。
みるみる、声が大きくなる。
「ふふ……、ははははははっ!」
突然天を大きく仰いで笑い始めた保遠を見て、晴明は「何が可笑しい」と片眉を上げた。
「くく……、まさかこの己にたてつくとはな」
保遠はくつくつと笑いながら、晴明の両手を拘束していた紐を解いた。
「……っ」
至近距離まで顔を近づけられ、思わず視線を逸らした。
やはり兄弟だけあって、保憲と顔立ちは良く似ていた。故に、何だか目を合わせるのが恥ずかしくなったのだ。
「決めたぞ。貴公を必ず己のものにしてみせる」
「……え」
言われたことが理解出来ず、呆然と保遠を見つめる。
一方、目の前にいる男はふっと不敵に微笑んだ。
「貴公のような上玉、あの堅物にくれてやるにはもったいないからな」
保遠はいつの間にか、息が掛かる程晴明に顔を近づけていた。
「な、何を……っ」
焦って距離を置こうとした晴明の動きが、止まる。
「……あっ……!」
塞がれた唇の隙間から舌がぬるりと滑り込み、晴明は小さく悲鳴を上げた。
抵抗する間もなく、身体の自由を激しい口づけが奪ってゆく。
空中をもがくように彷徨っていた手が、すとんと床に落ちた。
瞬間、漸く唇が解放された。
互いの口内を隔てるように繋がった銀色の糸が肌を滑る。
その見るに耐えない光景に、晴明は顔を赤くした。
「貴様……っ!」
晴明は羞恥の余り涙ぐみながらも、保遠を睨みつけた。本当は殴りつけてやりたかったのだが、先ほどの口づけで身体中の力が抜けてしまって動けないのだ。
そんな晴明に対し、保遠は鋭い瞳を細めてくすりと笑った。
「ふん、早く己のものになるがいい」
「誰が貴様のような男のものなぞになるものか!」
「……ふん」
保遠は再度笑みを零しつつ、障子に手を掛けた。半分ほど開いたところで、つう……と流し目で晴明を見つめた。
「もう一度言う、早く己のものになれ。保憲なぞに、貴公は渡さぬ」
風が、吹く。
ふわり、と。
夜風が保遠の着ている僧衣をはためかせた。