序章
序章
丑三つ時。
丸々と肥えた月が、神社の境内を照らしていた。
……季節は、春である。
桜が、夜風に吹かれて散っていた。
空に吹き上げられた花弁は、まるで水面を漂う波のように見える。
「ぎゃああああっ!」
春の夜の静寂を切り裂いたのは、悲鳴。
ごとり、と。
人の首が、血飛沫を上げながら階段を転げ落ちた。
貴族のそれである。
目玉が今にも飛び出そうな程に見開かれ、恐怖で顔が醜く歪んでいた。
「ふう……」
男は小さく息を吐くと、血が付いた脇差を二・三度軽く振った。
紅が、飛び散る。
男の恐ろしい程に整った顔を濡らしたそれは、まるで花弁のように鮮やかで。
それがより一層彼の不気味さを強調していた。
脇差を懐に納め、頭を覆っていた漆黒の頭巾を解く。
金色の糸が、宙を躍った。
「赦せよ、これも仕事のうちなのだ」
首なしとなった死体を見下ろし、呟く。
屈み込み、襟に向かって右手を伸ばした。
その途端。
動かぬ筈の死体の指先が、腕を掴んだ。
ぎりぎりと強い力で締め付けられ、爪が肌に食い込む。
男の着ている僧衣に、じんわりと血が滲んだ。
「……ほう」
男は顔色一つ変えずに、まじまじと死体を見つめた。
「息絶えながらも未だ立ち向おうとする貴公の執念は、驚嘆に値するな。だが――」
すう、と目を細め、空いたほうの手で脇差を抜いた。
「――己は今、貴公と遊んでおる暇はないのだよ」
根こそぎ斬り落とされた腕が吹き飛び、曲線を描いて地面に落ちる。
同時に、刀が心の臓を貫いた。
肉に刃が減り込む感触が、左手に伝わる。
「くっ」
男は小さく顔を顰め、刀を引き抜いた。
そして視線を這わし、口を開いた。
「――おい、いつまで隠れておるつもりだ」
衣擦れの音が、響く。
階段を上ってきたのは、五つ衣に身を包んだ一人の女であった。
豊かな黒髪。
白く、ふっくらとした頬。
整った目鼻立ち。
女の所作の一つ一つが並々ならぬ気品で満ち溢れており、一目で位の高い貴族だと分かった。
「噂どおりの見事な刀捌きですわね」
女は唇に笑みを浮かべ、男を見据えた。
「貴方の力を借りたいのよ、保遠」
「……ふむ」
男は低く唸り、刀を収めた。
「貴公のようなやんごとなき者が一体誰を殺したがっておるのかはしらぬが……、それ相応の礼はしてもらえるのだろうな」
「無論ですわ。貴方が望むなら幾らでも。そして」
女は男に歩み寄り、吐息が掛かる程に顔を近づけた。
細い指先が、頬を撫ぜる。
「貴方が望むなら、身体でもたっぷり御礼は致しますわ」
「ふん、それは楽しみだ」
男は口端を歪ませ、女の手を頬から引き剥がした。
「――時に、貴公は己に誰を殺して欲しいのだ」
天を仰ぎ、問う。
女はくつくつと声を殺して笑い、「陰陽寮の安倍晴明よ」と答えた。
「貴方も噂ぐらいは聞いたことがあるでしょう?」
「ああ……」
男もまた笑みを浮かべ、頷いた。
「京で数多の男を手篭めにしておるという、奇怪な狐の半妖であろう」
「……其の通りですわ」
女は男に背を向け、俯いた。
「あ奴だけは……、あの化け狐だけは許せぬ!」
頭を掻き毟り。
髪を振り乱し。
身悶え、叫んだ。
「あれは……寛明は私のものよ! 他の誰にも……、あの狐にも絶対に渡しはせぬ!」
女は振り返り、男を睨んだ。
身の毛も弥立つ程に、恐ろしく禍々《まがまが》しい形相であった。
「絶対に、安倍晴明を亡き者にするのよ。さもなくば、貴方の命は無いものと思いなさい」
「案ずるな、女」
男は床に片膝をつき、頭を垂れた。
「貴公の命令通り、安倍晴明を必ず我が刃で貫いてみせようぞ」
顔を上げ、女を見上げる。
鋭い双眸に、翡翠色の光が灯った。
「この命に代えても、な」
さて、いよいよ十六夜ノ巻が幕を開けました。
安倍晴明の運命や、如何に。