第十四章 血
一.
「……で、どうする」
深刻な顔で、歪が問う。
彼の視線の先には建礼門≪けんれいもん≫があった。
幸い、門番はいない。
「ここから先はいよいよ内裏なわけやが。自分ら、今からこの暗闇の中ですんなりと帝を見つけ出す自信あるか?」
はは、とかわいた笑みを浮かべる歪の隣で、晴明は溜息を吐いた。
問われるまでもない。晴明達は一応宮中に仕える身ではあるが、広い大内裏のすべてを把握できているわけではない。ましてや帝の生活空間など、本来なら一生縁がないやもしれぬ場所である。
「ないな」
「――誰が皆で一緒に帝を探すといったのだ。莫迦共め」
保憲が呆れ混じりに吐き捨てた。
「ここからは二手に別れて、清涼殿を目指す。そのほうが早いだろう」
「二人ずつに別れるということか」
晴明の問いに、保憲は違う、と首を横に振った。
「私は一人で良い。護白と歪は晴明につけ」
「えっ、せやかてやっすん。自分、姫さんよりも清涼殿に来たことないやろ。道わかるんか?」
「歪の言う通りだ。やはりみんなで探したほうが良いやもしれぬ」
歪と晴明が詰め寄る。だが、保憲は譲らない。
「貴様ら、私が何の策も用意していないとでも?」
「へ?」
「ど、どういうことや」
保憲は懐から一枚の紙切れを取り出した。
大内裏の見取り図であった。
「父上が私にくれたものだ」
「……忠行殿、いつのまに」
「これもおっちゃんの作戦の内か」
「ふん、これで文句あるまい」
まるで自分の考えたことのように、保憲は胸を張った。
その様子に晴明は苦笑しつつ、紙切れを覗き込んだ。
「確かに、文句はでないな」
「せやけど、わてらはどないするんや?見取り図は一枚しかないんやろう?」
「それは」
保憲が口をひらいた瞬間、左肩にわずかな重みを感じた。
見ると、いつの間にか戻ったのか、猫の姿の護白が肩に乗っていた。
「護白ならば、清涼殿の場所がわかる筈だ」
保憲は続けた。
「保遠と共に、何度も穏子殿の元を訪れているだろうからな」
「なるほどな。だが貴様、一人で大丈夫なのか? 保憲と護白さえ別れれば、二人組で行動することも可能だぞ」
晴明は保憲の手を取り、訴えた。
「今の貴様はいつもの賀茂保憲ではないのだから、誰に狙われても不思議ではないのだぞ」
真剣な表情の晴明に、保憲は眉根を寄せて呟いた。
「……何をそんなに心配しているのだ、貴様は」
一方、歪は肩を震わせながら、主の肩に手を置いた。
「貞操の心配とちゃう? ほら、さっきの誘惑見てしもうた後やし……」
声が震えている。笑いをこらえているのだ。
「歪、笑いごとではないぞ。女の格好では刀を抜けぬし、抵抗出来ぬであろう。いつも以上に警戒せねば」
「晴明」
保憲は若干困惑した表情で晴明の手に自分のそれを重ねた。
「それを言ったら貴様もだ。護白と歪を護衛につけたのだ。私のことを心配する前に自分のことを考えろ。案ずるな、私は襲われてもすぐに正体をばらせば、相手の気も削げよう」
「正体がばれてしまう」
「では抵抗せぬというのか」
堂々めぐりである。
「だあーっ、時間がないのに何をいちゃいちゃと」
歪が我慢できないといった様子で間に割り込んできた。
「わてがいるからやっすんは大丈夫や! いざという時はこれが知らせてくれるし」
歪が額を指しながら、言う。彼の額には忠行と保憲の名が刻まれている。式の証である。
以前道満との戦いのさなか、忠行の危機を知らせたのも、この印である。
「まあ、そうだな…。頼むぞ、歪」
「おん」
頬笑みを交わす二人を尻目に、保憲が小さく呟いた。
「……私がどれ程弱いと思っておるのだ貴様ら」
二.
その後、晴明達と別れた保憲はとある建物にいた。
夜更けであるが、まだ起きている者がいるのであろうか。女の秘めやかな囁き声や笑い声が微かだが聞こえる。
仄かに漂ってくる薫りや御簾から垣間見える衣はどれも上質で、此処がやんごとなき姫君たちの住まいであることが容易に伺えた。
どうやら此処は女御や更衣達が住まう宣耀殿≪せんようでん≫のようだ。
--厄介なことになった。
保憲は小さく嘆息し、前方に視線を遣った。黒々とした長い髪を腰のあたりまで垂らした女房が、静々と歩いている。その腕には1匹の猫を抱えていた。
……先ほど紫辰殿≪ししんでん≫の近くにある桜の木の下で、彼女に声を掛けられた。
姿を見られたから致し方ない、と脇差で気絶させようとしたのだが、できなかった。
その女は、保憲の前妻であった。二十二の時、晴明への叶わぬ想いを断ち切る為、夫婦となったあの姫君である。
思わず名前を呼びかけたが、正体を隠していることを思い出し、なんとか踏みとどまった。
彼女は保憲に気付いておらず、女子≪おなご≫の夜歩きを心配し、自分の住まいに夜が明けるまでいるようにと勧めてくれたのだった。
--宣耀殿で帝の居場所を聞き出し、隙を見て逃げ出すしかなさそうだな。
宣耀殿の女御や女房ならば清涼殿の場所を知っているだろう。宣耀殿に少しの間滞在し情報収集をしてから清涼殿を目指すのが良い。
「――ところで」
女房が突然足を止め、振り向く。
「ずっと気になっていたのですが、貴女はもしや賀茂家の方でしょうか?」
「え」
「……髪の色をしている方は賀茂家の人間しか、見たことがありませんから」
まあ一人だけしか見たことがないのだけれど、と女房は俯いて自嘲気味に笑った。
返す言葉が見つからず、保憲は無言で女房を見つめた。
迂闊だった。
よく考えれば、短い間ではあったが彼女は保憲の妻であった女だ。正体を隠し通せる訳がない。増してや、この目立つ髪色では……。
--仕方があるまい。
保憲はひそかに懐に手を入れ、柄を握り締めた。
「もしや、貴女」
女房がこちらに歩み寄り、手を伸ばす。
赤い唇が微かに開いた。
これから彼女が保憲に何を言うのかは想像がつく。此処は何としても切り抜けねばならぬ。
例え、何を犠牲にしても。
懐の刀が、かしゃりと小さく音を立てる。
冷や汗が、保憲の頬を滑り落ちた。
「――賀茂保憲殿の妹君か何かかしら」
「は?」
予想だにしなかった問いに、なんとも間のぬけた声が出た。
女房はそんな彼に気付かないのか、くすくすと楽しげに笑った。
「やっぱり。保憲殿に良く似ていらっしゃると思っていましたわ。お名前は何と仰るの」
「……賀茂八重≪かものやえ≫と申しますの。因みに妹ではなく、遠縁の親戚ですわ」
さすがに妹は無理があるだろう。賀茂家は母が亡くなって以来、男所帯で通っている。
「まあ、そうでしたの。では、私が保憲殿の妻であったことも知っていますの?」
「え、ええ」
保憲は複雑な気分でうなずいた。
「実は内裏でも有名ですのよ、その話。夫の薦めで最近宮仕えするようになってから内裏に出入りするようになったのだけど、初め来た時は驚きましたわ。保憲殿は内裏でも女性に人気がおありなのね」
「はあ、そうですの」
気の抜けた返答をする保憲を、女房は訝しげに見つめた。
「あら八重殿たら保憲殿の人気をご存じありませんでしたの。内裏の女性は皆毎日噂してますわよ」
それはそうだろう。
自分の人気なぞ、知らなくて当然だ。
「じゃあ八重殿をお連れしたら皆様びっくりするでしょうねえ。早く行きましょう」
「あっ、あの」
さあ、と保憲の手を取る女房に慌てて声をかけた。
「貴女を何てお呼びしたら宜しいでしょうか」
「あら、私としたことが。相手に名を聞く前に自分から名のらなくてどうするのかしら。楓、とお呼び下さい」
「楓」
保憲は微かに眉を寄せた。
かつて聞いていた名とは違っていたのだ。
「あだ名ですのよ」
女房は恥ずかしげに微笑み、歩きだした。
「保憲殿には別の名で呼んでいただいてたのだけれど、此処に来てから女御様があだ名をつけてくださったの。内裏の方は皆そのあだ名で呼んでくださりますのよ」
「……そうですか」
楓の花言葉は、大切な思い出。
彼女は今まで大変な苦労をしてきている。
両親の他界、没落した屋敷での貧しい暮らし、保憲との別れ――。
すべてが保憲の所為ではないとしても、不幸せにしてしまったことにどこかで負い目を感じていた。
だから、せめてこれから。
美しい、大切な思い出を内裏で作ってゆくと良い。
そう、思った。
「良い名ですね」
かつて妻と呼んだ女の楽しげな横顔を見ながら、保憲は小さく笑みを浮かべた。
三.
宣耀殿に着いた保憲は楓の案内で、女御・白雪の寝屋に行き着いた。
白雪は朱雀帝の正妻で本来は皇后と呼ばれてもおかしくない立場であるが、先帝の中宮・藤原穏子の力が強い為、女御の地位に甘んじている。
その名の通り、肌が雪のように白い美しい女であった。
「--というわけで、八重殿を匿っても宜しいでしょうか。白雪様」
楓が主に問う。
白雪はやんごとなき身分にも関わらず、几帳を隔てることなく楓と顔を合わせている。
日ごろからそうなのであろう。楓も動じることなく会話をしている。
「朝までならどうにかするわ。八重、どうぞお楽になさって」
「お心遣い、痛み入ります。それにしても、まさか楓殿が女御にお仕えだとは」
「今の夫のおかげですわ」
楓は頬を赤く染め、はにかんだ様に笑った。
楓の父は、もともと宮中でも消して低くない地位に就いていた。加えて夫の家の後ろ盾もあって今のような恵まれた境遇を受けているのであろう。
「白雪様や他の女房の方々にも本当に親切にしていただいて」
「楓はとっても良い子だもの」
「まあ、お上手だこと」
くすくすと笑いあう女たちを余所に保憲は落ち着きなく周囲を見渡した。
当然、朝まで此処にやっかいになる気はない。
別れた晴明たちも気にかかる。
急いで清涼殿のことを聞きだし、此処から出ねばなるまい。
「あの――」
保憲が口を開いたその時。
御簾がふわりと浮きあがった。
「御免――雅やかな笑い声につい足が向かってしまった」
男の声であった。
「こんな夜更けにどなた」
楓が応対に向かう。
「あら、忠平≪ただひら≫様」
楓の声音が弾む。
藤原忠平。
晴明の名付け親であり、今の政≪まつりごと≫の実権を握る――摂政である。
「忠平……」
白雪が呟く。見ると、無表情である筈の彼女の顔が僅かに険しくなっている。
「白雪殿?」
白雪は保憲の方に膝を進め、耳元に唇を近づけた。
「……忠平には気をつけて」
「白雪様……? なぜです」
保憲の問いには答えず、白雪は身体を離した。
忠平が、寝屋に入ってきたからだ。
会うのは朱雀帝の病を治す為に晴明と参内した時以来だ。
妻だった楓が保憲に気付かないのだ。
忠平が気づくことはないだろう。
「夜分遅くに申し訳ありません、女御様」
柔和な表情で忠平が言う。
「宮が宮中の警備を固めよと仰るもので。見回りに来たのですよ」
「特に変わりないわ。強いて言えば、猫が逃げたくらい」
「それは結構。……ところでそこの姫君はどなたですかな。見かけない御顔ですが」
忠平が問うと、白雪が保憲を守るかのように二人の間に立った。
「八重よ。内裏のどこかに御用があるみたいなのだけど、迷われたみたい。女子が一人で外にいるのは物騒なのでこちらにお連れしたの」
「なるほど。しかしそれでは白雪様が休めないでしょう。八重殿が宜しければ私の酒盛りに今から付き合っていただけませぬか。無論、後ほど目的の場所までご案内致しますが」
「はい」
保憲は返事をしながらちらと外を見た。
青白い月光が御簾の隙間から差しこんでいる。
夜もだいぶ更けてきた。早く帝を探し出さねばならぬ。
先ほどの白雪の忠告が気になるが、今はなりふりかまってはいられない。
「喜んでお付き合いしますわ」
「ほう、それはありがたい。酒の席が華やぎますな」
保憲がうなずくと、忠平は顔をほころばせた。
「さて、八重殿もこう仰っているので、お連れしても良いですな?」
「……お気づかいありがとう、忠平」
白雪は無感情に礼を述べた。先ほどわずかに見せた険しさは微塵もない。
「いえいえ、私も思いがけず良い酒のお相手に会えたので助かりました」
では、と忠平は一礼し、保憲の肩に手を置いた。
「さあ、まいりましょう八重殿」
轟、とひときわ激しく風がうなりをあげた。
忠平の袖が靡き、ふわりと浮かぶ。
一瞬だけ鼻をかすめた臭いに、保憲は思わず息を止めた。
心臓が苦しいほどに早鐘を打つ。
陰陽寮の者ならば常日頃から嗅いでいる臭いなので慣れてはいる。保憲を狼狽させたのはそれが、けして有りえない人物から臭ったという事実であった。
禍々しい、血の臭いが。
四.
「今宵は良い月ですな。八重殿」
「ええ」
さあ、と促され、保憲は酒が注がれた杯に口を近づけた。
むせかえるような酒の匂いが鼻腔を刺激する。
なんとか飲み干した傍から控えていた女房が酒をなみなみと注ぐ。保憲は酒であふれそうになる杯を眺めながら、眉根を寄せた。
「私を酔わせようという魂胆ですか」
几帳越しに忠平を睨む。
「まさか」
忠平は朗らかに笑った。
「八重殿は女御様の大切なお客様。そんな無礼な真似は出来ませぬよ」
「それは失礼しましたわ」
保憲もつられて微笑む。
「ところで忠平様」
「はい」
保憲は杯を傍らに置き、膝の上で拳を握り締めた。
沈黙が広がる。
保憲は今、迷っていた。
先ほど忠平から臭ったのは間違いなく妖のもの。それが意味するのは唯一つ。忠平が妖に取りつかれているということだ。
妖を祓うのは造作もないことだ。しかし今をときめく関白殿下に、妖が憑いていまする、だなどとどうしていえよう。関白は政治の中心ともいえる存在なのだ。そんな彼に妖がとり憑いたとなれば忠平本人だけでなく 彼を取り巻く貴族、皇族までもが混乱に陥るに違いない。
それに、この場で祓いをしたとしても正体がばれてしまう。
だが妖をこのままにしておけどんな禍いが起こるかわからぬ。陰陽助≪おんみょうのすけ≫
としても見過ごすわけにはいかぬだろう。
――どうしたものか。
保憲は迷うに迷っていた。
「何か、悩みでもおありかな」
見かねたのか、忠平が問うてきた。
「女御様の寝屋を出てから御様子がおかしいとは思ってはいたのだ。女御さまと何かありましたか」
「いえ……」
保憲は扇で口元を隠し、うつむいた。
緊張からか、酒に酔うたか、頭がふらつくような気がする。
心なしか、顔ものぼせるように熱い。
「――人払いを。酒ももう良い。早急に二人にしておくれ」
何を思ったか忠平は近くに控えていた女房にそう告げた。
「忠平殿……?」
「人には知られたくないことなのでしょう。私も内密にします故、話していただけませぬか」
「お気づかい恐れ入ります」
保憲は去ってゆく女房達を見つつ、小さくため息を吐いた。
こうなったら忠平にだけは全てを話してしまうか。
保憲の知る限りでは彼は温厚で誠実で宮中でも信頼の厚い男だ。
晴明の名付け親でもあるし、保憲たちはかつて帝を救ったこともある。
もしかしたら力になってくれるやもしれぬ。
「忠平殿、もしや妖が憑いてはいませぬか」
「――なに」
几帳越しに、忠平の身体が強張ったのがわかった。
保憲は慌てて言葉を紡いだ。
「いえ、先ほど忠平殿のお身体から微かに血の臭いがしましたの。妖や妖に憑かれている者からは皆かような臭いがするのです。何か心当たりはござりませぬか」
「ははあ、それで先ほどは御様子がおかしかったのですな」
「御無礼だとは承知しているのですが……」
「いやいや、とんでもない。私は感心しておるのですよ、よくぞわかりましたな」
「――は」
「貴女が初めてですよ、私の臭いに気付いた人間は」
忠平の言葉には大きな違和感があった。
「どういう意味です」
額からにじみ出る脂汗を拭い、問う。言い知れぬ不安感に身体が震えてくるのがわかった。
「わからぬか」
几帳の向こうで肩を揺らして笑うその声は、保憲の知っているものではなかった。
気がつけば、濃い血の臭いが周囲に充満している。
「わからぬか、八重殿。いや保憲殿というべきかな」
「なっ」
保憲は大きく息を呑んだ。
「何故わかったのか知りたいか。いや、その前に」
忠平が言葉を切った、刹那。
視界が大きく歪んだ。
突如激しい眩暈に襲われ、保憲は仰向けに倒れ込んだ。
全身が、焼けるように熱い。
起き上がろうにも酷い倦怠感と痺れで身体が動かせない。
「――貴方の立場をその身体に教えておいたほうが良いだろう」
頭上に影が差す。
いつものように温和な笑みを浮かべた忠平が傍に立っていた。
「貴様、何をした」
「酒に薬を混ぜただけだよ。ああご心配なく、命を奪うものではない」
迂闊だった。
保憲は小さく舌打ちをした。
「貴方が不用心すぎるのがいけない。やんごとなき姫君は男には特に警戒するものだ」
「ふん、あいにく私は姫君ではないのでな。おまけに相手を温和で友好的な男だと勘違いしていたのだ。いくらやんごとない姫君でも相手が薬を盛ってくるとは夢にも思わんだろうよ」
保憲は皮肉交じりに口端を歪めた。
「貴様、一体何者だ。妖なのか」
「ああ」
「では藤原忠平は人間ではなかったというわけか」
「否、それは違う。私は頼まれたのだ、こやつにな」
忠平は自分の胸を指し、目くばせをした。
「永遠の命を手に入れたい、とな。妖に身を差し出せば不老不死になれると思ったのだろうよ。確かに間違ってはいないが、自我をのみこまれてはおしまいだ」
「……何だと」
保憲は茫然と呟いた。
「では貴様は藤原忠平の身体を乗っ取ったというわけか」
「その通りだ。まあ人間の体を楽しんでからすぐに開放してやっても良かったのだが、そうもいかない事情ができた」
忠平は保憲を見下ろし、囁くように言った。
「賀茂江人を喰い損ねたのだ」
「……何」
「聞いたことがないか、江人が何故死んだのかを。芦屋道満≪あしやどうまん≫が内裏を追われた時、道満を逃がした罪で拷問にかけられ死んだのだと」
「違うのか」
「それは全て私が仕組んだことだ。検非違使に拷問にかけられた後なら易々と喰えると踏んでな。前々から美味そうだと目を付けていたのだ」
保憲は戸惑い、忠平から目をそらした。知っていた話とはずいぶん違う。
「江人はそれを許さなかった。私にいびられ玩≪もてあそ≫ばれたのが余程悔しかったのだろう。自害したのだ。陰陽家の誇りか何か知らんが愚かな真似をしてくれた」
忠平は保憲の顎を掴み、無理やり目線を合わせた。
「だがその直後、貴様が産まれた。こうして見ると本当に奴とよく似ておるわ。私の見立ては間違いなかったという訳だ」
「触るな、下衆が」
保憲が唾を吐きかけると、足で床に頭を叩きつけられた。
「ぐっ」
「その下衆に今から喰らわれるのだ、さぞ悔しかろう」
「貴様ァッ!」
怒りに震え、叫ぶ。
江人に会ったことすらないが、保憲は知っていた。
忠行や椿樹が彼の死をどれほど嘆き悲しんでいたかを。
内裏を追いやられた道満の無念さを。
「ふふん、そんな顔すらも似ているとは素晴らしい」
忠平はにんまりと下卑た笑みを浮かべた。
「このまま殺すにはあまりにも惜しいな」
そのねっとりとした声音に保憲は瞠目し息を詰めた。
逃げろと、頭の中で警鐘が鳴る。
だが薬で身体が動かない彼には、どうしようもできなかった。