第十二章 籠の中の鳥
一.
夜。
月も星も雲に隠れてしまったのか、空には一点の光もない。
黒々とした闇が、京を覆い尽くしている。
その中で、帝はひっそりと息を潜めていた。
塗り籠の中も、清涼殿も、周囲を御簾で覆われ、光を遮断されている。
幼き頃はその暗さが、心細く、怖くてかなわなかったが、今はもうなれた。
「――昨晩はよくやりましたね、主上」
無明の淵から、声が聞こえた。
女のそれである。
帝は閉ざしていた赤い唇を、微かに開いた。
「……母上の命令ですから」
「そうね」
女は無邪気に笑った。
「貴方には何も残っていないもの。もう、私に逆らうことなぞ出来ませぬ」
「ええ、貴方しか残っていない」
帝は淡々と言った。
以前、自分はどのように喋り、笑っていたのか。
それすらも、想い出せない。
帝は、絶望していた。
どんなに身分の差を凌駕しようとしても、自分の信じる道を突き進もうとも、所詮は籠の中の鳥。
愛する者を抱き締めることも、叶わない。
己を犠牲にすることでしか、この手で護ることも出来ない。
「これで、晴明には手出ししないんですね」
「勿論」
帝はふう……、と安堵の息を吐いた。
これで、護ることが出来る。
隣から伸びてきた両腕が、帝の身体を包んだ。
むせ返るような香の薫りが、鼻腔を擽った。
「貴方が手に入ったんだもの。もうこれ以上何も望まないわ」
女が帝の身体に乗り上げ、耳元で囁く。
彼女の紅を引いた唇が、ぬらりと闇の中で光った。
「ひろあき」
背後から名を呼ばれ、帝は足を止めた。
主上でもなく、帝でもなく、実の名で呼んでくる者は宮中でも一人しかいない。
帝は唇に笑みを貼り付け、振り返った。
「お呼びですか、白雪殿」
一人の女が簾の子縁を駆けてくるのが見えた。
単を足で踏みそうになりながらも、髪を振り乱して駆けてくる。
やんごとなき姫君ならば、ありえないことである。女の後ろを女房達が慌てて駆け寄ってきた。
「白雪様! 何をなさっているのです」
「女御ともあろう方が、はしたのうございますよ」
女房達に袖を掴まれ、白雪と呼ばれた女は漸く立ち止まった。
「あら……」
ぼんやりとした表情で、首を傾げた。
「なんでとめるの」
「う……っ」
女房達は白雪に真っ直ぐに見つめられ、怯んだ。
白雪は、黙っていれば相当な美人であった。
其の名のとおり、白い肌にほんのりと赤く染まった頬。
紅い唇は小さく、上品である。
大きくで子犬のように丸く澄んだ瞳は、長い睫に覆われている。
だが、光を宿していない。ぼんやりと何処か遠くを見つめているように見えた。
まるで、人形のように無機質な女であった。
「ひろあき」
女房達の手を振り払い、白雪が駆け寄ってきた。
「何でしょう」
にっこりと、微笑む。すると白雪は再び首を傾げた。
「へんなひろあき。いつもはもっとらんぼうなことばづかい」
二人を遠巻きから興味本位で眺めていた人々が、俄かにざわつく。
此処は内裏といえども、昼間。
宮中外の者も出入りしている。
帝が乱暴な言葉を遣うのは、ほんの一握りの親しい者の前のみである。故に、帝の本性を知る者は殆どいない。
「……白雪殿」
帝は小さく息を吐き、眉を下げた。
「それは白雪殿の前だけです。貴女に気を許しているから故に、言葉がつい乱れてしまうのですよ」
「きをゆるす?」
「ええ」
帝は白雪の耳元に唇を寄せた。
周囲の者に微かに聞こえる程度に声を潜める。
「夜の貴女がかわいらしくてつい……」
近くにいた女房達がまあ、と黄色い声を上げた。
「さすが夫婦ですわね」
「白雪様が羨ましいですわ」
白雪は目を伏せ、俯いている。傍から見れば恥ずかしがっているようにも見えるが、帝は違うことを知っている。言葉の意味が理解できていないのだ。
そんな彼女の腕を掴み、手にしていた檜扇を取り上げた。
「あっ」
白雪が声を上げる。構わず、閉じていた檜扇を広げ、白雪に差し出した。
「お顔は檜扇で隠してくださいね。私以外の者に見せるのは口惜しい」
再び、悲鳴が上がる。
これで、言葉遣いのことはごまかせるだろう。
帝は白雪に背を向け、密に息を吐いた。
猫を被るのも、大変だ。早く清涼殿に帰り、部屋でくつろぎたい。
帝は歩く足を速めた。
……しかし。
歩いても、歩いても、背後からけはいが消えない。漂ってくる香が、けはいの正体を示している。
白雪だ。
女房達を振り切ってきたのだろうか。一人のようだ。
やんごとなき身分の者――特に女子は人前に姿を現さぬもの。焚き染めた香や御簾から覗く単の色使いで自己の美しさや趣味のよさを表現するのが美徳である。
巾帳に身を潜めることなく、顔を檜扇で隠すことなく、内裏をついて歩くとはいかがなものか。
帝はついに足を止めた。
清涼殿に着いていた。
清涼殿は帝の生活の場。もう、猫を被る必要も無い。
「どういうつもりだ」
帝は低く呟いた。
「何でついてきやがった」
「ふふ」
楽しげに笑う声が聞こえた。
「何笑っていやがる」
振り向く。
白雪は帝に近寄り、頬を指でつついた。
「なっ」
突然のことに、帝は思わず固まった。
「やっともとにもどった」
「……お前な」
帝は深くため息を吐き、うなだれた。
「もっと公と私を弁えろよ。俺は外では朗らかにしないといけねえんだ。なのにあんなこと言いやがって」
「こうとし?」
「――」
聞き返す白雪を見下ろし、再びため息。
何故こんな女が女御なのだ。
「……もういい」
帝は片手をひらひらと振り、御簾を潜った。
白雪は女御――帝の正妻である。
女御には、身分もさることながら、聡明で優しく美しい、完璧な女性が選ばれる筈である。
だが、白雪は違った。
顔立ちは確かに美しいのだが、ぼんやりしていて知性がない。おまけに世間知らずで言葉の引き出しが少ない。
例えるなら、赤子のような女。
幼い頃から夫婦であったが、未だに男女として結ばれていなかった。
故に、子供もいない。
白雪を正妻に選んだのは、穏子である。
理由は、帝にも分かっていた。穏子は白雪の幼さに目を付けたのだ。
白雪なら帝と結ばれることなく、帝に執着する穏子を脅かすこともないだろうと。
彼女は、女としての存在意義を全否定された、形だけの存在であった。
「白雪」
帝は、後ろを振り返り、名を呼んだ。
「てめえも俺と同じだな。誰にも必要とされていねえ……、忌むべき存在なんだ」
呟いた声は、重々しかった。
背負い込まされた、業のように。
「……」
白雪は何も答えなかった。
理解出来なかったのだろう。只、感情のない瞳で帝を見つめていた。
「哀れな女だな、てめえは」
帝は白雪から目を逸らし、御簾を下ろそうとした。
ふと。
白雪が、帝の腕を掴んだ。
「……な、に」
「ひろあき。ついてきて」
「は?」
突然のことに、驚く帝をよそに白雪は歩き出した。
「ちょ、待てよ!」
白雪は意外と早足であった。帝は若干駆け足になりながらも、ついていった。
やがて、清涼殿の最奥にある倉庫にたどり着いた。
古い倉庫で、普段はめったに人が寄り付かない。また、悪い噂がたえぬらしく、扉には数多の呪符が貼られていた。
帝も、実際に目にするのは初めてだ。
「此処がどうしたんだよ?」
漸く足を止めた白雪に、息を切らしながら駆け寄る。
白雪は無表情で此方を見た。
「中に、男の人がいるの」
三.
「……な」
目の前の光景に、帝は大きく息を呑んだ。
「何でお前が此処に」
まず視界に入ってきたのは、床に広がる金糸。
ぼろぼろに敗れた狩衣から除く、白い肌はどす黒く固まった血に覆われている。
保遠であった。
床に這い蹲り、荒く息を吐きながら、此方を見上げている。
「き、貴殿こそ……何故、此処に」
「俺の女御が案内してくれたんだ。頼んじゃいねえがな」
「己も、頼んじゃいないさ」
ふっ、と弱弱しく笑みを浮かべ、保遠が言う。
「てめえ、意外と元気じゃねえの」
帝も皮肉交じりに笑った。
「で、何でてめえが此処にいる。何があった」
しゃがみこみ、保遠と視線を合わせる。
保遠は、すっ、と目を細め、口端を歪ませた。
「それは、貴殿がよく分かっているのではないか?」
「……どういうことだ」
「忠平さ」
「何」
「忠平にやられたのだ」
「……忠平、が?」
帝は呆然と立ち尽くした。
保遠の傷は普通のものではなかった。濃く重い霊気が、周囲に漂っている。
見鬼の才がある帝には、わかった。
これは人から受けた傷ではない。
人ならぬもののそれだと。
「でも……、忠平は人だ」
「貴殿は知らなかったのか? 生まれてこのかた、ずっと傍にいたのにも関わらず」
保遠は眉根を寄せ、唸るように言った。
「忠平が、妖だと」
「――何の話ですかな」
低い声が、耳を貫いた。
びくり、と身体が跳ね、背筋に悪寒が奔る。
ゆっくりと、振り返る。
一人の男と、目が合った。
……藤原忠平。
唇は笑みを浮かべているが、その目つきは氷のように冷たい。さぐるような眼差しで、帝を見下ろしている。
片腕には白雪を抱えている。意識が無いのか、ぐったりと下がった四肢がだらしなく揺れている。
彼女は倉庫の入り口で待っている筈であったのに。
身体が、動かなかった。
重い沈黙が、周囲を支配していた。
額から伝った汗が、頬を流れ、床に落ちる。
ごくり、と喉を鳴らして唾液を飲み込んだ。
「……珍しく夫婦揃って何処へ行くのかと思ったら」
くく、と喉の奥で忠平が笑う。
「お二人は見てはならぬものを見てしまいましたな」
「――いつからだ」
帝は震えだした身体を叱咤し、口を開いた。
「いつから俺たちを、父上をも騙していた」
忠平は先代から宮中に仕えていた。先代・醍醐帝をも騙していたことになる。
「初めからですよ」
「は?」
「初めから、藤原忠平は人ではなかった。なれど、騙してなぞおりませぬ」
「何を言っている」
「分かりませぬか、そのままの意味です」
忠平は瞳を細め、首を傾げた。
「一体いつ、人ではない、と貴方に申しあげましたか?」
「……っ、ふざけるな!」
帝は声を荒げた。
――俺はこんな妖にずっと、言いなりにされてきたというのか。
ぎりぎりと奥歯を噛み締め、視線を落とす。
込み上げる感情が、怒りなのか絶望であるのか。最早分からなかった。
――妖に摂政として政権を握らせ、更にはこの身体をも……。
震える身体を、自らの手で抱き締める。
「ああ……」
忠平が眉根を下げて嘲笑した。
「今更後悔しているのですかな。妖に身体を捧げたことを」
瞬間。
帝の中で、何かが切れた。
「てめえだけはゆるさねえ……」
低く呟き、壁に立て掛けてあった材木を手に取る。
「う、らああああああっ!」
声をあげ、忠平に飛び掛る。
「止せ!」
後ろから保遠の声がしたが、構わなかった。
強い憤怒だけが、帝を突き動かしていた。
――何でだよ、忠平。
涙で、視界が滲む。
目の前の男を、これほど憎いと思ったことはなかった。
いろいろと酷い目には遭わされたが、帝にとっては父親のような存在であったのだ。
少なくとも昼間は、皆から信頼される、良い男であった。
貴族達に囲まれて、柔和な笑みを浮かべながら、内心は何を思っていたのだろう。
ただの食料か、言葉を喋る肉塊としか思っていなかったのであろうか。
――何で。
段々と、忠平に近づいてゆく。
彼の口元が、微かに歪む。
ぷつりと唇に血が滲み、垂れる。
瞳が三日月形に細まり、笑みが浮かぶ。
微かに唇が開き、唾液がねちゃりと音を立てた。
今までに見てきた中で、最も愚劣で醜い表情であった。
ぞわり。
恐怖と嫌悪感が身体中を駆け巡る。
思わず、足を止めた。
忠平に袖が触れるほど近づいていた。
「貴方達人間が、妖に敵うとでもお思いか」
忠平の右手が、帝の首に触れる。
「妖にとっては貴族も乞食も、只の人。その気になれば、たとえ帝であろうとも幾らでも殺めることが出来ます」
指先に力が入る。
「あ……っ」
帝は小さく悲鳴をあげた。
皮膚に爪が食い込み、息が詰まった。
だが、恐怖で動けない。
「貴方の首を折ることも、締めて窒息させることも」
唇が耳元に近づき、言葉を注ぎいれる。
「――歯で肉を切り裂き、食い殺すことも」
酷く官能的であまやかな声であった。
情欲に濡れた、嬌声。
最早、忠平は人間ではない。
本能を剥き出しにした妖であった。
「あな、喰らってみたいものよ。その瞳も肌も骨も指の皮でさえも」
濃い血の臭いが、鼻を付く。
妖の臭い。
強い、死の薫り。
――何故、今まで気がつかなかった……!
涙が頬を伝った。
「なれど、貴方は殺せぬ」
忠平の手の力が緩む。
解放された帝は、力なく床に崩れ落ちた。
「今の摂政という地位を結構気に入っておりますのでな。それに」
視界が、霞んでゆく。
立ち込め始めた闇にまぎれて、声が響いた。
「貴方の味も、気に入っていますのでな」
ねっとりとした声音が意識に蔦のように絡みつき、動きを奪う。
抗う術も無く、帝は深い闇の底に引きずりこまれていった。
忠平の描写が怖くかけたので満足です笑