第十一章 我が恋を人知るらめや
一.
「――何処へ行っていたでござるか」
「貴殿には関係ないことぞ」
「こんなしけた所で貼り付けになっている拙者の身にもなれ」
護白の大きな瞳が、じろりと此方を睨む。
畳の上に悠々と座っている様は、まるで本物の猫のようであった。
愛嬌があれば、もっと良いのだが。
かようなことを考えながら、保遠は床に座した。
御簾の隙間から日が射し、床に細長い影が出来ている。
人の喧騒が、微かに聞こえた。
昼近くになり、京もよりにぎやかさを増しつつあるようだ。
「保遠」
護白が、顔を此方に向け、静かに問うた。
「任務は果たせたでござるか」
「ああ」
杓杖を布で磨きつつ、答える。
「内裏の女房一人。どうも最近は、やんごとなき者の中にも、帝に不満を持っている者が多いらしい」
「朱雀帝も哀れでござるな」
「あの見た目では、仕方あるまいな」
目を伏せ、指先で髪を撫ぜる。
和人には在り得ぬ、黄金色。
「人間は、自分とは異なるものを排除したがるものぞ」
「それは、経験談か?」
護白がからかい混じりに問う。
不快に感じ、無言で鋭い視線を送った。
「おお、怖い怖い」
言葉とは裏腹に、けたけたと愉快そうに笑った。
「ふん」
小さく鼻を鳴らし、床に転がった。
途端に、気だるさが身体を侵食してゆく。
冷や汗が、額から伝い落ちた。
「もう、長くないやもしれぬな」
ぼそりと、呟く。
静かな部屋に、やけに大きく響いた。
「……これから、どうするつもりでござるか」
「どう、とは」
「安倍晴明でござるよ」
ああ、と気の抜けた声が、唇から漏れた。
「殺すのでござるな」
「否」
護白が、微かに息を呑む音が聞こえた。
「では、任務を放棄するでござるか」
「――答えを、見つけたのだ」
口角を微かに上げ、護白を見据えた。
「己が、これからすべきことの答えを、な」
「御主、やはり」
護白が、すっ、と目を細めた。
「安倍晴明のことが」
「……ああ!」
がばりと起き上がり、くつくつと笑う。
「かように気分が晴れたのは久し振りだ。己は」
一旦口を噤み、息を吐く。膝に顔を埋め、囁くように言った。
「遠くないうちに無くなる命なのにな。嬉しいのだ」
声が、小さく揺れた。
「たまらなく、嬉しいのだ……」
「叶わぬ恋でござるぞ」
「分かっている。だからこそ、奴を護りたい」
「ふん」
護白は呆れ混じりに笑った。
「御主も所詮人間でござったか」
「ああ」
顔を上げ、笑い返す。
「結局、羅刹にはなりきれなかった」
「――無事で済むと良いでござるが」
護白の言葉が、部屋に波紋のように響き渡る。
それを掻き消すかのように、保遠は声を上げた。
「己はどうなっても良いさ。ただ」
立ち上がり、障子を勢い良く開く。
たちまち、重苦しい霊気が、身体を包み込んだ。
ふわり、と髪が靡き、宙に躍る。
「晴明を、護るのみよ」
数多の人間が、廊下に犇いていた。
皆、胡乱な目で此方を見ている。
「これは、呪でござるか……」
肩に降り立った護白が、呟く。
「恐らくは、穏子殿の仕業か或いは――」
「いらぬ推測より、この場を切り抜けるのが先ぞ!」
懐から脇差を取り出し、抜刀した。
からん、と、鞘が音を立てて床に落ちる。
瞬間。
人の波が、押し寄せてきた。
「コロス」
「アレヲコロセ」
殺す。
皆、その言葉を呟きながら近づいてくる。
「ふん、忙しない者共よ」
肩の上の護白を掴み、部屋の奥の御簾を上げる。
「なっ、御主まさか」
「今すぐ賀茂家へ逃げろ。奴等の狙いは己だ」
大きく振り被り、投げた。
「晴明を、頼む」
背後の空気が、風圧で揺れた。
振り向く。
刀身が、視界を覆い尽くした。
「くっ!」
咄嗟に受け止め、振り払う。
片手で印を結び、早口で呪を唱えた。
「おんあびらうんきゃんしゃらくたん――」
印を結んだ指を動かし、九本の線を空に描く。
九字であった。
指先が、翡翠色に光り、盾を作った。
光に怯み、人々がじりじりと後退してゆく。
人ごみの隙間から、何かが見えた。
人のようで。
人では無いもの。
「なっ」
その正体に気付いた保遠は小さく声を上げた。
背筋がぞわりと粟立ち、冷や汗が身体を濡らす。
「おんきりきりばさらうんはった――万魔供服!」
慌てて刀を構え、呪を唱える。
……だが、遅かった。
どくん。
心臓が大きく跳ねた。
呼吸が、止まる。
首元に痛みを感じ、視線を下ろした。
目に飛び込んできたのは大きな牙。
その先には――。
「――っ!」
言葉にならぬ悲鳴が、唇を割った。
がくり、と膝が折れ、そのまま床に崩れ落ちた。
二.
……同じ頃。
晴明は庭園の掃き掃除をしていた。
夏も刻々と近づいてきているようで、日がじりじりと容赦なく照り付けてくる。
額に浮き出た汗を袖で拭い、小さく息を吐いた。
「保遠は、無事であろうか」
今朝のことである。
血を吐いた保遠を案じ、賀茂家に連れ帰ったものの、薬師を呼んでいる間にいなくなってしまったのだ。
「何を呆けておるのだ」
ざり、と砂を踏む音が聞こえた。
隣に保憲が立っていた。
箒を肩に担ぐようにして持ち、無表情で此方を見下ろしている。
頭には、烏帽子の代わりに白い布を巻いていた。
三角巾である。
「いつまでたっても片付かぬぞ」
いつものように威厳のある声で淡々と言うが、何処か滑稽に見える。
思わず、噴出しそうになった。
「な、何だその格好は」
笑いたいのを堪えて、問う。
保憲は訝しげに、眉を顰めた。
「歪に教わったのだ。掃除をする時に最適なのだと。髪の汚れを防ぐのだそうだ」
貴様もするか、と布を差し出された。
淡い、桜色である。
「……遠慮する」
それを装着した様を想像し、顔を青くして断る。
想像の中の自分は、大層間抜けな姿であった。
「……そうか」
保憲は何も言及せず、懐に布を収めた。
少し残念そうに見えたのは、気のせいであろうか。
ふと、背後から視線を感じ、振り向く。
「歪」
名を呼ぶと、歪はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「姫さんは被らへんの? 頭に」
「保憲だけで充分であろう」
晴明は苦笑しつつ、保憲に目を遣った。
「――ぶはっ」
瞬間、堪らず噴きだした。
晴明ではなく、歪がだ。
初めはくつくつと声を抑えていた。
しかし、段々と肩の揺れが大きくなってゆくにつれて、笑い方も大胆なものになっていった。
「あはははっ、まさかわての言葉を間に受けるとはなあ」
こりゃ傑作や、と両手をたたいて、歪は保憲の肩を抱いた。
「やっすんのそういう単純なところ、好きやで」
「主を笑いものにしておきながら、いい度胸だな貴様」
保憲は不快感を隠そうともせずに、歪の手を払った。
三角巾を外し、歪に投げ渡す。
栗色の瞳を、すっ、と細め、吐き捨てるように言った。
「私は貴様のかようなところが嫌いだ」
「や、保憲」
どうどう、と保憲の肩を数回叩く。
主と式の言い合いは、見ていてあまり気持ちの良いものではない。
そんな晴明の考えが分かったのか、保憲の表情が僅かに緩んだ。
「本当は、好きなくせに。やっすんてば素直やないなー」
い、け、ず。
わざとしなをつくって、身体をくねらせる。
保憲と瓜二つなこともあって、まるで忠行のようであったふざけているときの忠行のようであった。
「……ちっ」
保憲が、小さく舌打ちをした。
みるみる表情が曇ってゆく。
「――歪っ!」
晴明は思わず怒声を上げた。
せっかく鎮火しつつある火に、油を注いでどうするのだ。
しかし、とうの歪は涼しい顔である。
「まあまあ、ほんの冗談やないか」
へらりと笑みを浮かべた、その時。
保憲の背後で、影が揺れた。
何だ、と考える間もなく、保憲が動いていた。
素早く後ろを振り返り、片手を差し伸べる。
すとっ、と掌に着地したのは白猫――護白であった。
掌から地面に降り、恭しく保憲に頭を下げた。
「護白」
保憲の声が、空気を揺らす。
「保遠が、何処にいるか知っているか」
はっ、と歪が息を呑む音が聞こえた。
「保憲、何を」
保憲に目で制され、晴明は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「保遠から、母上の話は聞いた。奴にはもう晴明を殺める意思はない。つまり、私達の敵ではない。もう、貴様も私に素性を隠す必要なぞないだろう」
どういうことだ。
保憲の言葉の意味が分からず、歪に視線を向ける。
歪は食い入るように保憲を見つめていた。何故か、今にも泣き出しそうにも見えた。
「……御主の思っている通りだとすれば、どうするでござるか」
護白は地面を見つめたまま、搾り出すように言った。
「どうもせぬ」
保憲の声色は、心なしか優しかった。
「貴様は紛れも無く私の式だ。たとえ保遠の式であったとしても、その事実に変わりはない。私の為に尽くしてくれておる者をどうこうする気はない」
「……莫迦でござるな、貴方は」
護白は小さく呟き、顔を上げた。
「保遠が今何処にいるのかも、どうしているのかも教えられぬ。御主達に危害が及ぶのは、避けたいからな。なれど」
ふ、と小さく笑って目を伏せる。
「晴明殿を任せられた故、これまで以上に保憲殿に尽力するでござるよ」
「あの保遠が、晴明を任せた?」
保憲が呆然と呟く。
晴明は顎に手をあて、視線を移ろわせた。
「保遠の他に、俺を狙う輩がいるということか――あ。」
刹那、思い出した。
帝が言っていた言葉を。
「帝が仰っていた。中宮が、保遠を雇ったのだと」
「何」
「どういうことや、姫さん」
「理由は分からぬ。だが、確かにそう仰った」
帝の顔が脳裏を過ぎる。
『――有難うな』
今にも消えてしまいそうな、儚げな笑みを浮かべていた。
――そうか。
漸く、分かった。
帝のあの表情の意味が。
――帝は、中宮から俺を護ろうとしていたのだ。
何故、早く気付いてやれなかったのであろうか。
「……っ!」
口元を手で覆う。
強く噛み締めた唇から、微かに呻き声が漏れた。
「晴明」
肩に手が触れる。
保憲が心配そうに此方を見下ろしていた。
「どうかしたか」
「否、何でも」
手を振り払い、視線を逸らした。
保憲は訝しげに瞳を細めたが、そうか、と呟くだけで何も聞こうとはしなかった。
晴明は、帝のことを話す気にはなれなかった。
心配ではあったが、最後に見た彼の笑みが晴明の口を閉ざしてしまうのであった。
「まあ、つまり」
歪が、言う。
「保遠の後ろには、更に強力な敵さんがおった、ちゅうことやな。わてら賀茂家だけの問題やない」
「内裏も大きく関わっていることになる」
付け加えるように、保憲が言葉を挟んだ。
「何にせよ、今まで以上に付け狙われることとなろう。なれど、相手が相手だ。慎重に行かねば」
再度肩に手が置かれた。
栗色の瞳と、視線が交わる。
「問題は、何故貴様を中宮が狙うかだが」
鋭い双眸の奥底で、激しい感情が渦巻いているのが分かった。
……強い、怒り。
「――許さぬ」
保憲が、肩を掴む指先に力を籠め、呟いた。
それは、晴明にしか聞こえぬような声であった。
帝から晴明に文が届けられたのは、それから二月後のことであった。
そこには、十六夜の晩、清涼殿に来るようにと記されていた。
三.
旧暦八月――初秋。
大内裏の庭園では草や野花が生い茂り、あちこちで虫が鳴いていた。
夜の帳が降りた空には、十六夜月がぼんやりと浮かんでいる。
晴明は御簾の隙間から庭園を眺めつつ、杯を口に運んだ。
「……覚えておいでですか、帝。俺たちが初めて会ったのもかように月の綺麗な晩でした」
隣に、目を向ける。
晴明と向かい合うように、帝が座っていた。
白と赤の花模様が描かれた狩衣を身に纏い、銀髪を背中まで下ろしている。
肌の白さも相俟って、まるで女子のようにも見える。
帝は、ああ、と小さく呟き、瓶子を晴明の杯に傾けた。
静かな晩であった。
此処は清涼殿。
晴明が来て直ぐに帝が人払いをした為、二人きりである。
「――ところで」
晴明は杯を床に置き、帝を見つめた。
「何用で、俺を此処に?」
帝は小さく息を吐き、目を瞑った。
「……晴明殿」
唇が、言葉を紡ぐ。
同時に、紅く鋭い瞳が晴明を射抜いた。
氷のように、冷たい視線。
「今晩で、会うのは最後に致しましょう」
口元は笑っている。
だが、何処か狂気を孕んでいる。
冷たい、笑みであった。
「何故、です?」
身体が震えだしそうになるのを堪えつつ、訊く。
「もしや、俺の為に無理を言っているのですか? 中宮から、護ろうと」
「……おめでたい人だ」
帝が、はっ、と小さく笑った。
「分からないのですか? もう用がなくなったからですよ」
「どういうことです」
「貴女には、保憲殿がいるではありませぬか」
「……え?」
帝がゆっくりと立ち上がり、此方に近づいてきた。
足を進める度、衣擦れの音が静かな部屋に響いた。
肌が触れそうな距離まで近づかれても、身体が痺れたように動かなかった。
白い指先が、晴明の頬を撫ぜる。
「貴女を好き勝手に出来ぬのなら、もう傍に置いておく価値なぞない。私が貴女の思うように、友でいたいと思っているとでも? 貴女のような――」
紅い唇が、ゆっくりと持ち上がる。低い声が耳を通り抜け、刃となって心臓を貫いた。
「――化け狐なんかと」
言われた言葉を理解する間もなく、つう、と頬を何かが伝う。
唇から、言葉にならない声が漏れた。
「ひっ……く」
「何を泣いているのですか?」
帝の指が、目元を拭う。
「泣きたいのは、こっちだというのに」
帝は大きくため息を吐くと、懐を探り始めた。
「そうそう。これもお返しします。どう処理しようかと悩んでいたのですが、ちょうど良い」
差し出されたのは、紅い簪であった。
春、晴明が帝に贈ったもの。
喜ぶ顔が見たい一心で、贈ったもの。
受取ろうとしない晴明に痺れを切らしたのか、帝は差し出した手を引っ込めた。
「いらないのですか? なら仕方ありません」
指先から、簪が滑り落ちた。
「あっ!」
小さく声をあげた次の瞬間、簪が帝の足で踏み潰された。
ぱきぱき、とひびが入る音が聞こえた。
「何故っ! 何故、かようなことを!」
思わず、帝に詰め寄った。
両肩を掴み、揺さぶる。
「今までの友情は、全て嘘だったのですか!?」
「――晴明殿」
帝の手が、晴明のそれに重なった。
ふ、と帝は優しい笑みを浮かべ、言った。
「化け狐の分際で、私に触るでない」
「な……っ!」
同時に、視界が反転した。
強い力で床に叩きつけられ、痛みで息が詰まる。
その隙をつかれ、両手を頭上に拘束された。
「何をする!」
抵抗しようにも、身体の上に帝が乗り上げている為、動けない。
帝は晴明の耳元に唇を寄せ、低く声を注ぎいれた。
「いくら化け狐とはいえども、このまま手放すのは勿体無いな……」
ぞくり。
背筋に悪寒が奔る。
此方を見下ろす視線には、見覚えがあった。
今まで幾度と無く、晒されてきた。
酷いことをしようとする直前の、侮蔑と嫌悪と欲望の入り混じった男達のそれであった。
帯が解ける音がした。
夜の冷たい空気が、肌に触れる。
しかし、恐怖で身体が動かぬ。
「やめてください!」
金切り声で叫んでも、帝の手は止まらなかった。
指先が腿を伝い、その付け根を撫ぜる。
晴明は強く目を瞑り、呟いた。
「……保憲」
涙が、とめどなく溢れた。
「保憲殿なら、来ませんよ」
首にちろりと舌先を這わせつつ、帝が言った。
「今頃、陰陽寮で宿直をしている筈」
「まさか、初めからこのつもりで貴方は」
帝は答える代わりに、晴明の胸元に手を差し入れた。
「や……っ!」
晴明は小さく肩を震わせ、堪らず泣き声を上げた。
「もう、いやです。こんな……」
「そうですか」
ぴたり、と帝の動きが止まった。
晴明から身体を離し、顔を背けた。
「帝……?」
「あまりの抵抗されるので、冷めてしまいました」
帝は顔に笑みをはりつけ、言った。
感情がない。
まるで、人形のようであった。
「身なりを整えて、お帰りください。そしてもう、私とは関わらないでください」
夜風が、吹く。
雲に月が隠れたのか、辺りの闇がより濃いものとなった。
宵闇の中で、声だけが響く。
「もう、あのような目には遭いたくないでしょう」
それは、先ほど見た冷たい表情とは裏腹に。
ほんの僅かに、哀れみが込められている。
何故か、そう感じた。
四.
……暗い。
辺りは闇に呑まれ、ひっそりと静まり返っている。
ただ、唇から漏れる息の音が、微かに響いている。
陰の世界。
晴明はその中を、駆け足で進んでいた。
どんなに足を進めても、灯りは一向に見えぬ。
「誰か……」
震える声で呟く。
子供の頃に感じた、感情が蘇る。
闇のように先の見えぬ、孤独。
胸を締め付ける、寂しさ。
「誰か……」
片手を、虚空に翳す。
袖から伸びる白い手が、宵闇の中でぼんやりと不気味に浮かんだ。
人ではないもののようであった。
……否。
本当に、そうやもしれぬ。
人というには、他の者と違った点が多すぎる。だから、帝にも拒絶されたのだ。
この先も、かように辛いことばかり起こるのなら、いっそのこと死んだほうがましにおもえた。
涙が、頬を伝った。
「――姫さん?」
声が、聞こえた。
ひたひたと床に足を滑らせる音が、近づいてくる。
同時に、前方から人影が現れた。
「何で、此処に?」
歪であった。
周囲を見渡す。
暗くてよく見えぬが、陰陽寮の一角らしい。
簾の子縁の上に、足をつけていた。
「ははあ、やっすんに何か御用でも?」
歪はにやにやと笑っていたが、晴明の顔を見て、瞬時に表情を変えた。
「なっ、何かあったんか? こんなに泣いて」
問いには答えず、がばりと抱きついた。布越しに、肌のぬくもりが感じられ、心が落ち着いた。
「帝は、俺のことが必要ないそうだ」
掠れた声で、言う。
「俺が、化け狐だ、か……ら」
涙で、言葉が濡れてゆく。
肩を震わせ、大きくしゃっくりあげた。
「普通の人ではない、化け狐だから……だから俺は」
「――もうええ!」
同じ言葉を繰り返す晴明を、歪が強く抱き締めた。
「もう、何も言わんでええ!」
「ひ、ずみ……?」
「姫さんは、化け狐なんかやない。陰陽寮の、安倍晴明や! 他の人間と何が違うっていうんや!」
肩を掴まれ、身体が離れる。
歪の手が、優しく頬に触れた。
「目も、鼻も、口も、手足も、ちゃんとある。おまけに、誰よりも綺麗や」
「歪……」
「それに、帝以外にも姫さんを必要としている人はおる。わてもやし、忠行のおっちゃんも。博雅もそうや。そして」
金糸が、視界に映る。
端整な顔立ちをした男が、歪の肩越しに見えた。
月に照らされて、肌が微かに青白く光っている。
闇の中に佇むその姿は、まさに幽鬼を思わせた。
「やっすんも、な」
歪が静かに呟き、にこりと微笑んだ。
「姫さんの居場所は、ちゃんとある」
「歪」
保憲が晴明を見、口を開いた。
「一体何が」
問う保憲の唇に、歪が人差し指を押し当て、制した。
「まあ立ち話もなんやし。中で酒でも呑もうか」
懐から徳利を取り出し、再度笑みを浮かべた。
「涙の薬は、酒が一番ってな」
五.
「さて、どうしたものか」
杯を口元から離し、保憲は唸るように言った。
薄い唇が酒に濡れてぬらぬらと妖しい光を帯びている。
物憂げに細める瞳の先に、柱にもたれて眠る晴明の姿があった。伏せられた睫が、涙で濡れている。
指貫から僅かに覗く足には、何も履いていない。恐らく、裸足で清涼殿から此処まで走ったのであろう。足の裏が傷だらけであった。
「晴明がああも取り乱すとはな。よほど酷い目に遭うたのだろう」
「せやな」
向かい側で、歪が頷く。
「帝の奴、何をしたんや」
「あの帝が晴明を傷つけるようなことをするとは信じられぬ。何か理由があるのだろう」
「中宮か?」
「――」
保憲は一瞬言葉を詰まらせ、歪を睨んだ。
「此処は陰陽寮だぞ、歪。口を慎め」
「相手が中宮だからって、見過ごすつもりか!?」
歪は杯の酒を飲み干すと、乱暴に床に投げようと手を振りかざした。
「止さぬか」
保憲は慌てて腕を掴み、歪を止めた。
「……もし、あの方が影で動いているのだとしても、私達にはどうしようも出来ぬ。帝と晴明を極力関わらせぬようにすることくらいしか、な。さすれば、晴明が狙われることもなくなるであろう」
「何で、そう言いきれるんや」
手を振り払い、歪が訊ねた。
怒りで息は荒いが、口調は冷静であった。
「――昼間の清涼殿の中に、光が射しているのを見た事があるか?」
「は?」
突然の問いに、歪が瞳を瞬かせた。
「確かに、ないな」
「私も何度か清涼殿に足を運んだことがあるが、日中にも関わらずどの部屋も御簾が下げてあった。まるで」
保憲はそこで言葉を切り、顔を顰めた。
「……牢のようであった」
「確かに菅原道真の祟りやら、親王が亡くなったりした後で生まれた子やから、大事にしたいのも頷けるけどな。ちょっと度が過ぎる気がするけど」
「それだけだと、良いのだが」
ふう、と小さく息を吐く。
「帝と中宮に関する噂を、聞いたことがあるか」
「……ああ」
歪はぼそりと答え、口を閉ざした。
まだ童子であった晴明が帝の病を治して数年経った頃。
平安京の貴族達の間で、ある噂が流れ始めた。
親子である筈の帝と中宮が肉体関係にあるというものであった。無論、直ぐに藤原氏や皇族の圧力でもみ消され、禁句とされた。
「あれが本当だとしたら、どう思う」
「どうって」
歪は困惑した表情で、視線を移ろわせた。
「中宮の一方的なものではないか、と私は思う」
「なっ」
歪が大きく息を呑んだ。
「帝が生まれた当初、あの特異な外見を指して道真公の祟りだと恐れた者もいたという。母である中宮も、影で疎まれたに違いない。辛い想いをされたであろうな」
「だから、帝を恨んで一方的に?」
「恨みもあるだろうが、病的な程に帝に執着しておられるのだろうな。だとすれば、帝と仲の良い晴明を狙うのも納得がいく」
「哀しい話やな……」
歪は晴明に視線を向け、静かに言った。
重い沈黙が、二人を包み込む。
御簾に吹き付ける夜風の音は、慟哭のようであった。
「せやから、帝と姫さんを関わらせないようにしたほうがええっちゅうことか」
歪の問いが、沈黙を破った。
「ああ。晴明さえ狙われなければ、後は帝と中宮の問題だ。私達が首を突っ込んで良いことではないだろう」
「――待てよ。じゃあ、帝は!」
歪はばっ、と勢いよく立ち上がり、叫ぶように言った。
「姫さんを護る為にこんなこと」
「……歪、あまり騒ぐな。晴明が起きる」
「す……、すまん」
歪は小さく謝罪し、床に座した。
「晴明には絶対に知らせるな。このことを知って一番傷つくのは、奴だ」
「おん」
保憲は歪の返答に安堵し、よし、と頷いた。
立ち上がり、晴明を起こさないようにゆっくりと抱え上げる。
横抱きである。
「歪、牛車を用意しろ」
「……は、何で!?」
突然の命令に歪がやや遅れて聞き返す。そんな彼を、保憲は冷やかに見下ろした。
「屋敷に帰るに決まっておろう」
「いやいや、自分今晩宿直やろ?」
「む」
そういえばそうであった、と保憲は低く呻いた。
が、直ぐに思いなおし、懐から一枚の札を取り出した。
呪符である。
呪を唱え、虚空に翳す。
翡翠色の光が煌き、霊気で袖がふわりと靡いた。
次の瞬間。
目の前に、もう一人の賀茂保憲が現れた。
瓜二つどころか、割らずにそのまま――顔立ちも着ている物も全く同じ。
「まさか自分」
歪の冷やかな目線を無視し、もう一人の自分に告げた。
「私の代わりに、宿直を頼む」
「はっ」
片ひざを床につけて鋭く返答する様に、保憲は満足げに頷いた。
なんと従順な。
誰かとは違って。
「姫さんのこととなると、形振り構わずやな」
その誰かが、呆れ混じりに呟く。
「涙の薬は、酒だけではない」
保憲は御簾を上げながら、口端を歪ませた。
「誰かが傍に居てやることぞ」