第十章 咎人の涙
更新が遅くなりました……。まだ読んでいただけてるのかしら。
晴明が久しぶりに男前です。
一.
「保遠! 急にどうしたというのだ! しっかりせぬか!」
覆いかぶさるようにして倒れた保遠の身体を起こし、叫ぶ。
月光に照らされた彼の顔は、不気味なほどに青白い。
身体を強くゆさぶってみたが、一向に目を覚まさない。
「どうすれば……」
途方にくれて、呟く。
生臭い血の臭いが、鼻をついた。
「……あ」
冷や汗が、頬を伝う。
全身に悪寒が奔り、小さく声をあげた。
幼い自分の掌が赤く染まっている光景が、脳裏に鮮明に映し出された。
賀茂家に養子入りしてからというものの、数多の妖を祓ってきた。
血や屍には慣れた筈なのに。
――何故、今思い出しておるのだ俺は。
胃から熱いものが込み上げ、思わず口を片手で覆う。
涙で、視界が滲んだ。
――誰か、おらぬのか。
僅かに上がっている御簾の隙間を縋るように見つめる。
刹那だった。
「――晴明?」
背後から、障子を開く音と共に、声が聞こえた。
振り向く。
赤い瞳と、視線が重なった。
帝であった。
「み、かど」
震える声で名を呼ぶ。
帝は晴明のただならぬ様子に、何事かとすぐさま駆け寄ってきた。
「何があったんだよ、これは……」
帝は床に転がる血塗れの女と、抱えられた保遠を交互に見、眉を顰めた。
「……こいつは、賀茂保遠か。何故一緒にいるんだ」
「帝こそ、どうしてご存知で」
「てめえ、何も知らねえのか」
赤い瞳が、呆れた視線を此方に向ける。
「こいつにてめえを殺せと頼んだのは、母上だ」
「何」
驚愕する晴明に構わず、帝は自嘲的に笑う。
「母上は、俺に近づく輩は皆排除したがるからな」
ふと、真顔になり、晴明から目を逸らした。
「とにかく、此処にいるのは危険だ。そいつを置いて、早く賀茂家に戻れ」
「なれど、保遠は」
帝は晴明を鋭く見据えた。
「助けるのか? またてめえを殺しにくるかもしれねえんだぞ」
「そうやもしれませぬ。なれど俺には、此奴がそうも悪い者にはおもえぬのです」
「どういうことだ」
晴明は、ふ、と目を伏せた。
「――泣いていた」
「え」
「此奴が、泣いていたのです」
先程見た、保遠の涙を思い出す。
誰を想っていたのかは分からぬ。
だが、それはまぎれもなく保遠の本心から出たものであった。
「あ奴はきっと顔は平然としていても、心で泣く男なのです。根拠はありませぬが。でも俺は、たとえ命を狙われているとしても、奴の本当の心が知りたい」
「だから、助けたいと?」
「はい」
「とんだ莫迦だな」
ふっ、と小さく笑う。どこか、悲しげであった。
「まあ、そんなところが好きなんだがよ。母上に見つからないうちに早く帰れ」
「……帝は」
「は?」
「帝は、大丈夫なのですか。最近宮中でやつれきっておられるとの噂がありまする。それ故に心配になって此処に参ったのですが」
帝はまじまじと此方を見つめ、噴きだした。
「阿呆。俺の心配している暇があったら自分のこと心配しろよ」
「中宮の所為ですか、やつれておられるのは」
「……な」
帝の顔から、笑みが消えた。
構わず、続ける。
「随分と、痩せられましたな」
にじり寄り、頬に触れる。
紅の双眸が、大きく見開かれた。
「それに近頃は会いにも来てくれませぬ」
「それ、は」
「此方を見よ!」
視線を逸らそうとする帝の右頬を、思い切り抓った。
「いっ!」
たちまち痛みで顔が歪んだ。反射的に晴明を払いのけ、赤く腫れた頬を両手で押さえる。
「何っ、すんだこらあ!」
声を詰まらせながら叫ぶ帝を、ぎろりと睨みつけた。
「当然の報いですぞ。悩んでいることがあるのなら、何故俺に申してくれぬのです」
「莫迦野郎、言える訳ねえだろ! もうてめえを辛い目に遭わせたくねえんだよ俺は!」
「――俺は、護られる為に貴方の友になったのではない!」
部屋中に、悲痛を帯びた晴明の声が響く。
「はあ、はあ」
晴明は荒く呼吸を繰り返し、床を見つめた。
「俺では、頼りにならぬとでも、いうのですか……っ」
泣くつもりではなかったのに、涙声になってしまった。
情けない。
袖の下で、ぎゅ、と拳を握り締めた。
「……ああ、頼りにならねえよ」
帝が、低く呟いた。
「てめえが知る必要のねえ悩みだ」
ふいに、顎を掴まれ、視線が上がった。
「晴明――」
赤い唇が言葉を紡ぐ。
揺れる、灯火のような。
風に乗って響きわたる、笙の音のような。
そんな、声で。
「――有難うな」
今にも、消えてしまいそうだ。
そう、思った。
それ程に儚げな笑みを浮かべ、帝は此方を見下ろしていた。
「ずるい御仁だ、貴方は」
そんな表情をされたら、何も言えなくなってしまう。
轟々《ごうごう》と。
夜風が唸りを上げる。
御簾が、勢いよく舞い上がった。
「そら、早く帰れ。牛車は朱雀門にある」
靡く銀糸をかきあげつつ、帝が言う。
其処に、先程の表情は無かった。
「……はい」
いつもの、皮肉めいた笑みを浮かべた彼を見つめ、晴明は小さく頷いた。
二.
「今、何と言ったのだ」
鋭い視線と殺気が、身体中に突き刺さる。
立ち竦みそうになる自分を内心で叱咤しながら、晴明は目の前の男を見据えた。
「……保憲」
名を呟く晴明の頬から、一筋の汗が伝い落ちた。
此処は、賀茂家の門前。
晴明は、迎え出てきた保憲と向かい合っていた。
背後の牛車の中には、保遠が居る。
「――答えよ、晴明!」
普段聞くことの無い彼の怒声に、身体が跳ねる。
ぎらぎらと翡翠色に瞳を光らせて立つその様は、まさに修羅の如く恐ろしいものであった。
「保遠をこの屋敷で治療させて欲しい、と言ったのだ」
緊張で溢れる生唾を飲み込み、声を張る。
「ならぬ」
保憲が冷たく言い放った。
「何故だ、仮にも血を分けた兄弟であろう! 此奴は恐らく何らかの病に罹っておる! 早く治療せねば」
「――死ぬであろうな」
眉一つ動かさず吐き捨てられた言葉に、晴明は大きく息を呑んだ。
「貴様は……貴様は、何とも思わぬのか。保遠が死んでも何も感じぬというのか!」
「感じぬ。死んでも当然の人間だ」
淡々と、呟く。
冷たい、あまりにも玲瓏過ぎる声音であった。
「そ奴は、もはや私にとっては兄弟でも何者でもない、母上の敵だ。病に罹っているのなら、都合が良い。早く、そこらで野たれ死ねば良い」
「保、憲……?」
呆然と、呟く。
目の前に居るこの男は、本当に保憲なのであろうか。
いつも自分を護ってきてくれた、保憲なのだろうか。
少なくとも、自分の知っている彼は、かように冷たい男ではなかった。
見た目はどうあれ、心根は誠に優しい男であった筈だ。
うろたえる晴明を見、保憲は微かに笑みを浮かべた。
「物心つかぬ間に母を亡くした貴様にはわからぬだろうよ。永久に続くと思われた繋がりを断ち切られる悲しみを」
「何」
「記憶が、思い出があるからこそ、失った時の悲しみは大きいのだ。貴様には、母の記憶さえもなかったであろう」
「……ああ」
小さく、頷く。
「だが、分かるぞ。繋がりを断ち切られた時の悲しみも、苦しみも」
「な、に」
「母上が障子に遺してくれた、和歌があった故」
脳裏に、一句の歌が浮かんだ。
幼い頃に親の居らぬ悲しみを満たしていた、母の歌。
「それを毎日のように詠んでいた。少しでも、母を近くに感じていたかったからな。だが、ある日いじめられていた女房の子供等にそれを破られたのだ」
保憲が、はっと息を呑む。
「それで、けがを負わせ、賀茂家に養子入りをしたのか」
「ああ。おかげで貴様と出会えた」
保憲の表情が、驚愕に染まる。
「どういう、意味だ」
「失ったものも大きかったが、それによって得られたものもある。それは貴様も同じではないのか」
「……そんなものある訳がない」
「ならば、作れば良いではないか」
一歩、また一歩と足を踏み出す。
「少なくとも、母君は今の様な貴様を望んではおらぬであろうよ」
「それは」
保憲は顔を顰め、片手で頭を押さえた。
「確かに、母上は死に際に言っていた。保遠を憎むな、と。恨むならこの母を、とも」
「そうであったのか」
手を伸ばし、保憲を抱き締めた。
「ならば、もう苦しむ必要はない。誰も、恨む必要はない」
ゆるりと瞬き、優しく笑みを浮かべた。
「真実は、別の所に在るようだ」
「そう、か……」
保憲の瞳から、はらはらと涙が零れ落ちた。
三.
「何処だ、此処は」
逆さに映る天井を見、保遠は誰とも無く呟いた。
視界を、白い蝶が横切った。
式だとわかったが、放置することにした。
身体がけだるくて、蝶と戯れる気にはなれなかった。
額に手を遣ると、水で濡れた布に触れた。
僅かに残っている移り香が、薫る。
「……晴明」
薫りの主を呼んだ、その時。
御簾が上がり、朝日が顔を照らした。
細長い人影が、床に映る。
「目が醒めたか」
声が、聞こえた。
視線を這わせる。
晴明が、御簾の隙間から顔を覗かせていた。
「身体の具合はどうだ?」
「ああ……、大分良い」
起き上がりつつ、頷く。
晴明の膝元に、冷水の入った桶が置いてあった。
「良かった、血を吐いた時は驚いたぞ」
晴明は安堵したのか、小さく息を吐いた。
「まさか、一晩中己を介抱していたのか」
「そうだが、何だ?」
至極当たり前のように答える晴明を、まじまじと見つめる。
「貴様、莫迦なのか?」
思わず、かような事を口にしていた。
つい数刻前まで命を狙われていた人間を看病するだなどと、正気の沙汰ではない。
よくぞ、賀茂家の人間が赦したものだ。
「なっ、莫迦とは何だ! かような時はな、礼くらい言うものだぞ普通は!」
びしり、と真っ直ぐに伸びた人差し指が保遠を指す。
むくれている晴明の顔は、普段よりも格段に幼く見えて。
つい、笑みが零れた。
「ふん、それもそうだな。すまなかった」
笑いながら、言う。
心から笑んだのは、久し振りであった。
「保遠、貴様――」
今度は、晴明が微笑む。
「笑っていたほうが、良いな」
「……ふ、惚れるか?」
「言っていろ、生臭坊主が」
顔を見合わせ、笑う。
穏やかな時であった。
母を手に掛けて以来、久し振りであった。
……否。
拒絶していたのやもしれぬ。
罪を犯した自分には赦されぬことだと、思っていたから。
「――何故、己を助けた」
「え?」
「己はあのまま死んでも良かった」
「知りたかったのだ、貴様の心を」
蜜色の瞳が、真摯な眼差しを保遠に向ける。
「貴様は、よく俺を殺すと言っておった。だがその言葉には貴様の心が感じられなかった。貴様の心はもっと別のところにある、と思ったのだ」
「魂が、こもっておらぬ、とでも?」
晴明が、深く頷く。
「俺たちのような者は、そのようなもののことを、呪と呼ぶのだ」
「呪、か」
懐かしい、と呟く。晴明が訝しげに目を細めた。
「蘆屋道満が、よく口にしていた」
「な」
晴明が大きく息を呑む音が聞こえた。
「貴様、道満殿を知っているのか」
「無論だ」
ふ、と目を伏せた。
「行く中てのない己に、法術を教えたのはそ奴だ」
遠い日の記憶が、ふと脳裏を過ぎる。
降りしきる雨の中、端整な顔立ちの法師が手を差し出していた。
『この道満と、共に来るか』
同じく京を追われ、同じ家から追い出された者だからだろうか。
その手を取るのにためらいはなかった。
「そう、か」
晴明が複雑な表情をして呟いた。
恐らくは、道満のことを考えているのだろう。
彼女の表情からはこちらへの気遣いが見て取れた。
「……案ずるな。奴は貴様に殺されたわけではない。奴は病に倒れ、死んだのだ。己の前でな」
「確かに、昨年平安京を攻めたのは道満殿の亡霊であった。滅した時、砂塵となりて消えてしまったからな」
滅却された妖や霊魂は黄金の砂塵となって空にかえる。晴明は砂塵となった道満を見て、霊魂であったのだと、気付いたのだという。
恨みそねみが強ければ強いほど、霊魂は生きたものに近づいてゆく。
陰陽師の彼等が霊魂であると気付かぬほどに、道満の想いは強いものであったのだろう。
「なれど、俺が貴様の師を滅したのは事実だ。殺したと同じことではないか」
すまぬ、と晴明は深く頭を下げた。
「謝るな、貴様はそれでも賀茂家の人間か。道満から京を守ったのであろう。堂々としておれば良い」
それに、と付け加える。
「長い間、奴は忠行への想いに苦しめられてきた。貴様のおかげで魂もようよう楽になれたのだ。道満は、貴様に救われたも当然のことよ」
「……有難う」
晴明の口元に、笑みが浮かんだ。
何故か照れくさくなって、おもわず保遠は視線を逸らした。
「――時に、貴様が知りたがっていた己の心とは何なのだ」
「ああ」
晴明は小さく頷き、保遠の傍に寄った。
「貴様、何か隠しておるだろう。俺を何故殺さないのだ」
「それは……」
言ってしまえ。
心の声が、囁く。
そのほうが、楽だ。
きっと、この人間ならば受け止めてくれる。
「己は――」
……どくん。
冷たい、血雨の記憶が心臓を抉った。
愛する母の身体に刀を突き刺した、記憶。
「ごほっ!」
視界が、歪んだ。
醜い、自分の心のようであった。
「保遠! 血が……!」
晴明の言葉に、ふと我に帰る。
吐き出した血が、衾を汚していた。
「く、薬師を呼んでくる!」
晴明が慌てて障子を開き、外へ向かう。
背中が、遠くなる。
ぐっ、と胸元を押さえた。
胸が、心が痛い。
けして、労咳の所為ではなかった。
切ない感情に、身体を侵されていた。
今、どうしようもなく、寂しかった。
「晴明!」
手を伸ばし、抱き締めた。
「行くな……っ!」
床においてあった桶に足を取られ、身体がよろめく。
二人は同時に床に転げ落ちた。
「や、保遠! 大丈夫か」
いち早く起き上がった晴明が心配そうに顔を覗き込んできた。
蜜色の瞳に、自分の顔が映っている。
気付けば、唇が自然に言葉を紡いでいた。
「好きだ、晴明」
晴明の顔が驚愕で固まった。
「な、に」
「好きだ、晴明。貴様を、愛しているのだ」
一旦溢れ出した想いは、もう止めることが出来なかった。衝動のままに、晴明を抱き寄せた。
「貴様に恋情を抱いてしまった故に、殺せなかったのだ」
罪を犯したあの日。
咎人として、生きていくことを決意した筈だった。たとえ、自分の肉親を殺めることとなっても。
それが、母へのせめてもの償いだった。
「己には、もう人を愛することなぞ出来ぬと思っていた。母上を手に掛け、賀茂家を裏切ってしまったのだからな」
声が、震えた。
込み上げてくる嗚咽を堪え、目を瞑った。
「何故、そうも嘆く」
静かな声で、晴明が呟く。
「貴様、母君が憎くて殺したのではないのか」
「――違う!」
晴明の肩を掴み、身体を離した。
「母上を、愛していたに決まっている!」
「では、何故?」
問いかけてくる声は、優しかった。
身体を包み込むように、暖かで、心地よい。
まるで、母のように。
「母上が、母上が……殺せ、と」
どもりながらも、言葉を必死で吐き出した。
過去の残像が頭を過ぎり、身体が震える。でも、やめようとは思わなかった。
吐露することで、楽になれるような気がした。
「母上が、己に殺せと言ったのだ」
「やめようとは、思わなかったのか」
「思った……なれど、病に苦しむ姿を見て、哀れになったのだ。実の息子に殺せと嘆願するほどの苦しみに、死ぬ迄耐えねばならぬのか、と」
「何故、保憲や忠行殿に言わなかった」
「言える訳が、ないだろう」
肩を掴む手に、力が籠もる。
搾り出すように、言う。
「母上が自分で死を選んだなどと、そんな残酷なことを。愛する者を亡くした者達に、言える訳がないだろう……。故に己は、母上を殺した業を一人で背負うことにしたのだ。さすれば、家族を亡くした悲しみ、怒り、全てを己にぶつけることが出来る。皆、自分を責めることが無くなる。そう考えたのだ」
母を亡くした瞬間、人ではなくなった。
血の雨を浴びた、悪しき羅刹へと化したのだ。
家族を愛するからこそ、そうせざるをえなかった。
たとえ、平安京を追われようとも。
憎まれようとも。
「今まで、数多の血を浴びた。再び羅城門を潜った時、己は、人の心を失っていた。たとえ、標的が兄の愛する人であろうと良かった。もう、己は人の道を歩んではおらぬのだからな。なれど、殺せなかった」
晴明の頬に左手を添えた、口角を微かに上げた。
笑顔とも、泣き顔ともつかぬ表情だった。
「晴明。お前だけは無理だった……!」
「そうか」
晴明の手が背中に回る。そのまま、抱き締められた。
「……辛かったな」
暖かな声が、脳内で半濁する。
込み上げた激情が、身体中から溢れた。
「うう……、あああああっ!」
赦されようとは、思っていなかった。
只、寄り掛かる場所が。
心を慰められる場所が、欲しかったのだ。
四.
がしゃり、と。
音を立てて、刀が落ちた。
「保遠……」
保憲は、刀を拾い上げることもなく、呆然と呟いた。
彼の視線の先には、御簾に映る二つの影があった。
保遠の、叫びのような慟哭が聞こえてきた。
――奴は、今何と言ったのだ。
耳を、両手で塞ぐ。
――母上は、自ら死を選んだ、と。言ったのか……?
「莫迦な!」
思考を断ち切るかのように、大声で叫ぶ。
「奴は確かに私に言ったのだ、母上を殺したと!」
「――それは、まやかしだったのじゃろうよ」
背後から、声がした。
振り向き、瞠目する。
「父上……」
忠行であった。
「全く、昼下がりに盗み聞きとは、趣味が悪いのう。保憲や」
かかか、と愉快そうに笑う。
「ま、わしも人のことは言えぬが」
忠行が右手を、虚空に翳した。すると、一羽の蝶が飛んできて、指先に止まった。
息を吹きかけると、瞬く間に紙きれに変わった。
式である。
「父上も、聞いて……?」
「うむ。御主と同じ考えであったからな」
かあ、と顔が赤くなるのを感じた。
保憲は、病人だからとはいえ、保遠と晴明を二人きりにするのが心配であった。故に、晴明の寝屋の直ぐ外で見張りをしていたのだ。
「――話は、聞いた」
忠行はふいに笑顔を顔から消し去り、此方を見つめた。
「確かに、信じられぬ話ではある。なれど、奴の言っていたことが正しければ、納得がいく。奴が紅華を手に掛けた理由、紅華がひたすら保遠の許しをこうていた意味がのう」
「なれど……」
「そうやって、いつまで逃げるつもりじゃ」
「な、に」
違う、と言い返そうとしたが、忠行の鋭い視線に阻まれた。
「わしも御主も薄々気付いていた筈じゃ。なれど、気付かぬふりをしておった。認めたくなかったのじゃろうな。紅華が自ら死を望んだことを」
忠行の唇が、微かに歪んだ。
はっ、と自嘲的な笑みが漏れる。
「……そしてわしらは、紅華を死なせてしまった後ろめたさや悲しみを全て保遠に向けてしまった。全て、保遠の思惑通りだったというわけだ」
「では、保遠への怨みは間違いであったと」
「そうじゃ」
保憲はきつく唇をかみ締めた。
やりきれない思いで胸が締め付けられんばかりに苦しい。
真実に気付かず、怨んでばかりであった己の浅ましさ――それ以上に。
「何故、奴は今まで私たちに真実を告げようとはしなかったのでしょうな。家族から怨まれて平気な訳がないであろうに」
「分からぬか?」
忠行が、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「家族を、愛しているからこそじゃ。だからこそ、鬼にも咎人にもなれる。人を愛するというのは、そういうことじゃ」
「はい」
ふっ、と瞼を伏せる。
雨の日の記憶が、蘇る。
血に塗れた童の頬から、涙が伝っていた。
狂気に満ちた笑い声を発しながら、泣いていた。
何故、忘れていたのだろう。
真実をしかと瞳に映していたというのに。
「保遠は、許してくれるでしょうか」
「――ああ」
忠行の優しい声が耳に心地よく響く。
「きっと、な」
「……親子水入らずのところ悪いのだが」
突然声を掛けられ、びくりと肩が跳ねた。
見ると、晴明が御簾の間から顔をのぞかせていた。決まり悪そうに、頬を指でかきながら、苦笑している。
「そう話し込まれていては、薬師も呼び辛いであろう。何より、保遠にも話が筒抜けだぞ」
「なっ」
「おうおう、すっかり忘れておったのう」
驚愕と恥ずかしさで固まっている保憲をよそに、忠行は豪快に笑った。
「どれ、保遠や。顔を見せてくれ」
「ち、父上!」
慌ててとめに入るが、遅かった。
御簾がはらりとなびく。
目に入ってきたのは、赤。
「ごほっ、がはっ」
口から血を流して、弟が床に転がっていた。
一瞬の沈黙。
その直後。
三人は、慌てて薬師を呼びに、寝屋を飛び出した。