血犬騒ぎ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふと魔が差してしまう瞬間、あなたにはありますか?
怖いですよねえ。はたから見ると、相手が豹変したというか、気でもふれてしまったのかと思うほど突拍子もない行動に出ます。
原因に関しては、おそらく本人でなくては分からない事情が積み重なったがためでしょうね。どうしても他人では知りきれない、触りきれないものがありますし、たとえ知ったとしても本人への影響度がどれほどかは実感できない。
同じ出来事でも、人によって心にどれだけダメージを受けるかは異なりますからね。いかに洞察力や直観力に優れていても、人付き合いは運の割合も大きいと思うんです。
そのはかりしれなさは、まさに悪魔のみぞ知り、悪魔のみが操ることができるレベル。そう考えたからこそ、魔が差すというたとえが生まれてきたのではないかと。
しかし中にはその、得体のしれない相手である「魔」を、ある程度コントロールできるものもいるのではないか……という事例も存在するみたいなんですよ。
私が少し前に聞いた話なのですけれど、耳に入れてみませんか。
父がまだ子供だったときのこと。
住んでいたところの近所では、俗に「血犬騒ぎ」なるものが起きていたのだそうです。
当時は犬を飼っている家は、その小屋を軒先などへ置くのが主流。そこで通りかかる人へ向かって吠えるなどし、昔ながらの番犬としての職務もこなしていたのですね。
今となっては、この人様へ吠えたてる行為が問題視される場合も多く、室内飼いも珍しくなくなってきているのが現状です。しかし、当時の彼らは家を守るセキュリティの最前線として、役に立っていたわけですね。
その飼い犬たちですが、朝になって家の人が確かめたところ、手や口元が赤く汚れていることが頻繁に確認されていたようです。
最初はけがを疑われましたが、外傷は見当たりません。血を吐いたりした、病気の可能性も疑われましたが、それもなし。そして付着していた血液は少なくとも犬自身や人間のそれとは異なる組成を持っているものだったとか。
――何者かがよそからやってきて、犬たちにけったいな何かを塗り付けている?
そう考えるのが、一番自然のように思えたそうですね。
あくまで飼い犬が対象であり、人間へ直接被害が出たわけではありませんから、どうしても緊急性には欠けてしまう事案。
引き続き、同じようなことが起こるようであれば……と注意喚起される程度にとどまっていたようです。
誰がこのようなことをしているのか。それに関しては、父が数少ない目撃者のひとりになりました。とはいっても、正体を突き止めたというには程遠いものですが。
父の家でも飼っている犬はいましたが、玄関先には住まわせず、裏庭につないでいたのだそうです。比較的、愛玩動物よりといったところでしょうか。
当時の父の家は平屋でして、トイレが縁側を渡った先にあるつくりでした。自然と窓を隔てて庭を横切る形になります。飼い犬の姿も見ることができるのですね。
このとき、父は家の明かりをつけず、ほぼ真っ暗な中を歩いていました。当然、外も夜でしたから光源はほとんどなく、頼りになったのは暗さに慣れた己の眼のみだったとか。
たいていは閉め切っている縁側の障子ですが、この日はほんのちょっぴりだけ、すき間が空いていました。横切らないと、トイレにはいけません。
いつもなら無造作に通り過ぎていましたが、縁側へ差し掛かったときにふと、耳を打つ別の音に父は気づきました。
土を掘るような、こするような音。靴のつま先を、とんとんと強く打ち付けたときのような小さな揺れを、父は足裏にも感じました。
誰か、あるいは何かが庭にいる。
多少の怖さを覚えながらも、それを上回る好奇心に背中押された父は、つつっと障子のすき間へ寄って、外をのぞいてみたのだそうです。
縁側と野菜を育てる庭との間には、二メートルほどの境が設けられており、その縁側近くの右手に、犬小屋がありました。
飼っている柴犬は小屋からわずかに身を乗り出し、組んだ前足の上へ頭を乗せたかっこうで、じっとしています。おそらく寝ているのでしょう。
そのすぐ前の地面。そこが輪郭だけでも、はっきりと分かるくらいに無数の土の影たちが飛び散っているのです。
父の想像した通り、何かの先端で土をえぐっているようでしたが、その道具も使っているものの姿も満足にとらえられません。
本来、そいつがいるなら遮られているだろう、遠方の信号機の光。その青色が問題なくこちらへ届いていましたから。作業して動いているなら、ちらついたり見え隠れしたりもありそうですが、それもなし。
作業のペースは乱れません。変わらず、飼い犬へ土をかけており、おそらくのぞいている父には気づいていないでしょう。
下手にトイレへ行こうとしたら、気づかれるかもしれません。やむなく、我慢を重ねる決意をして、その場は退いた父。どうにか30分ほど耐えて、再び赴いたときにはもう気配はなくなっていたらしいですね。
明け方を待ってから庭へ降りたところ、あのえぐられたように思えた土の部分は、なんともなかったのだそうです。
しかし、まだ眠りこけている柴犬の足先や口元などは、やはり赤く汚れていたのだそうですよ。土をまぶされたにしては、あまりに血を連想させてしまう彩りだったとか。
自分が夜中に見た、あの光景こそがほぼ間違いなく原因でしょう。
しかし、自分が想像していたような存在はそこにはいませんでした。少なくとも信号の光を遮らない背の高さ、および父の眼にもろくに映らない姿。
自分が見間違っていないのであれば、気味の悪い相手です。できれば、お近づきになりたくない。
そう考えているうちに、柴犬が起き出しました。今日は父も休みですし、お散歩を含めた朝の仕事を担当していました。
身支度を整え、例の汚れた足や口をきれいにしてあげます。がぶりと噛まれて、新しい化粧を施してしまうようなことにはならず、ひと安心ではありました。
しかし、それはこの場でのことです。
父の散歩コースはおおよそ決まっておりまして、その中でお互いに走ることなどをし、緩急をつけていくスタイルだったとか。
そして、犬を飼っている家が多いためにかち合うことも、ままありました。そのときは途中で学校の友達と会ったそうなんですね。同じ柴犬を飼っていて、お散歩中である友達と。
飼い主たちはともかく、犬同士も顔を合わせるといくらか声を掛け合うものですが……そのときは両者やけに激しい仕草を見せます。
お互いの顔を向けあって、きゃんきゃん、きゃんきゃん……そらしません。
父たちも不審に思いつつも、その場をすれ違おうとしたところで。
二匹が口と前足を、がっと前に繰り出しました。噛みつかんとする仕草でしたが、両者の間にはリードが伸びきっても、なお顔と顔の間には数十センチの猶予があります。ケガさせるには至らないはず。
二匹は同時に噛みつきました。虚空に。
それを見たとき、父の脳裏には夜の光景が浮かびました。飼い犬に何かをかけていながら、ろくすっぽ姿を見せていなかった、例の輩のことです。
二匹のかみ合わせは、手加減の感じられない真剣ぶり。しかも、その食いしばった空間からは確かに血らしき赤い液体が滴ってくるのです。
犬たちの歯ぐきからもたらされるような、自傷ではありません。確かに剥いた歯の先から、地面へ垂れ落ちていきました。
と、二匹がいきなり逆方向へ跳ね飛ばされて、父たちはその勢いの強さにリードを引っ張られかけます。ぐったりとしていた二匹は、ほどなく立ち上がりましたが、血を滴らせた犬歯の先端は、はっきりと分かるほどに削れて短くなっていたそうです。
先ほどの勢いもどこへやら。双方、落ち込んだ様子で鳴き声ひとつあげず、あとは散歩が終わるまでとぼとぼと歩くばかりだったそうです。
あとで聞きましたが、友達の犬もまた同じように「血犬」となっていた経験持ちだったとか。そして二人のケースは氷山の一角であり、それからも血犬たちはにわかに虚空へ向かって噛みつく仕草を繰り返し、ときに得体のしれない血液らしきものを流させたそうです。
いまだ、その正体はつかめていません。ただその噛みつきに何かしらの味を占めたのか、本当に人へ噛みついてしまう犬も増えてしまったようで。狂犬病の対策や、室内飼いの傾向に力を入れることになった一因でもあるそうです。
血犬たち、何に突き動かされていたのでしょうね。




