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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。

秘剣令嬢 水月

作者: ナハ子
掲載日:2026/05/02

 夜会の場には、四方から隙間なく歓談が上がっている。

 年頃の令息令嬢にとって、ここは将来の伴侶を見定め、あるいは見定められるための戦場だ。だが、ジェニファー・コノリーは、そんな熱を帯びた場に自分がいることへのぬぐい切れぬ居心地の悪さを覚えていた。

 両親からの見合い話を断り続け、当初こそ「せっかく騎士団にいるのだから、そこで早く相手を見つけなさい」とせっつかれていたものだが、近頃はそう言われる頻度も目に見えて減っていた。そうして未だに当てもなくいまま、世間で言うところの「行き遅れ」の境界線まで、彼女の足の先は踏み入れつつあった。

 ジェニファー自身、恋愛に興じるよりも、好き勝手に剣を振り回しているほうがよほど楽しく、充足感を感じられた。家の存続については兄弟たちがいる。このまま気儘に独身を貫いても構わない――そう思っているのだが、貴族に生まれた身として、その「特権」と引き換えに負うべき義務から逃げるわけにはいかないことも、また理解していた。


 これほどまでに浮いた話がないのは、なにもジェニファーの見目が悪いわけではない。

 ふわりと黄金色の髪を揺らす彼女の容姿は、むしろ注目の的だった。切れ長の目に筋の通った高い鼻。その涼やかで凛とした美貌は、多くの男性から――そして時には同性からすら――熱のこもった視線を向けられることも少なくはなかった。

 しかし、彼女は元来から男に対して苦手意識を抱いているかのような嫌いがあり、自ら男を遠ざけているのだった。幼いころから剣が好きで、現在も騎士団という男所帯に身を置いているため、そうして職務として普通に接する分には問題はないのだが、必要以上に近づかれると、どうも身構えてしまっていたのだ。

 というのも、かつて、言い寄ってきた男に不用意に腕を触られた際、背中のあたりにゾワリ、と大きく鳥肌が立ち、思わず相手を打擲(ちょうちゃく)してしまったことがあった。それ以来、ジェニファーは異性との触れ合いを半ば諦めてしまっていた。

 今までジェニファーに艶聞めいたものがなかったのはそのためである。言い寄る男こそあれ、彼女自身が寄せ付けなかったのだ。元より剣という色気のない趣味を持っていたのもあり、男女の機微を理解するにはあまりにも鋼に近い性質なのだと、誰よりも彼女自身が悟っていた。


 ゆえに彼女は今日も、こうして冷やかし半分に社交の場に赴いては、酒と菓子を目当てに時を潰している。噂話に耳を傾け、興味を引かれる話題ならばこそりと聞き、たまにかかる男からの声は柳の様に受け流して、気ままな独身を謳歌する――それが彼女の選んだ夜会の歩き方だった。


 ジェニファーは目敏く新作の菓子を見つけると、躊躇なく手を伸ばした。

 ――今度の菓子は、いまいちね。

 見た目はきれいに見えた菓子だったが、いざ食べてみるとクリームが重く、胸が焼けてしまう。見栄ばかりで、中身の調和を欠いている。ジェニファーは内心でそう評価を下した。

 くだらない付き合いの夜会でも、菓子を摘まめるのだけは楽しみだった。大抵は期待外れに終わるのだが、その行為自体を楽しめばよいのだから、野暮は言わぬことにしていた。


「またお菓子でございますか、ジェニファー様」そうジェニファーに語り掛ける声は、呆れたような、非難するような、その中間をゆく絶妙な声色だった。

 声の主はフレデリカ・レイトン令嬢。

 ジェニファーと長く付き合いのある彼女は、貴族特有の勿体付けた言い回しを嫌い、判然とした物言いを好む女性だった。ジェニファーもその性質を好ましく思っており、お互い、繕わずに言い合える数少ない友人のうちの一人だった。

 ジェニファーは相手の姿を認めると、わずかに唇の端を緩めた。「フレデリカ様」

「折角の夜会だというのに、相変わらず花より団子ですのね」フレデリカは隠しきれない呆れを口調に乗せた。「このまま、お菓子と結婚でもなさるのかしら」

「言わないで頂戴な。わたくしはこのまま、独りで朽ち果てていくつもりなのですから」

「まぁ、もったいない」フレデリカはそう言うと、扇で口許を隠し、ほほほ、と上品に笑った。


 二人がお菓子を摘まみながら細やかな品評会を楽しんでいると、不意に、祝祭の旋律を引き裂くような男の怒声が響き渡った。男は、何やら一人の令嬢に対して怒っているようであった。

 男女の機微に疎いジェニファーは、普段ならこういった痴話喧嘩の類の揉め事には関わらぬよう、足早に立ち去るのが常だ。だが、今回ばかりは違った。ざわめきと共に人波が寄っていく方角へ、ジェニファーもまた歩みを進める。しかし、野次馬根性ゆえではない。耳を突いたその声が、聞き覚えのある不快なものに似ていたからだった。

 騒ぎの渦中に立つ男の姿を認めると、果たして、その声の主は自身の予想通りであった。ジェニファーは思わず、苦虫を嚙み潰したように眉を(ひそ)め、予想が(あた)ったことを恨んだ。


「キャサリーン! 貴様とはこれまでだ!」

 なおも吠え続けている男は、マイルス・リチャードソン。このホワイトウィックを治める王の一族、その傍系に連なる血筋であり、ジェニファーにとっては母方の親戚にあたる男である。

 そのマイルスが殊更に大切そうに肩を抱いているのは、この夜会の場には到底そぐわない女だった。白粉を塗りたくった顔に、過剰に引かれた紅。けばけばしく派手な格好は、どうも不作法で下品に見える。貴族の邸宅よりも、下町の路地裏のほうが似合うほどに。

 ジェニファーの目には、その不自然なドレスの着こなしや、重心の定まらない歩き方は、彼女が貴族ではないことを雄弁に物語っているように映った。

 ジェニファーの記憶にある限りでは、マイルスの正統な婚約者はキャサリーン・フェザーストーンで、今まさにマイルスが腕に囲っている女がキャサリーンでないことは明白だった。

 ジェニファーは冷めた瞳で周囲を見渡し、一人の令嬢を捉えた。マイルスの対面に一人、孤高の静寂を纏って佇んでいる真の美女を。純粋のように白い肌と、月の色を纏った長い櫛――彼女こそが、キャサリーンであった。


 元より、ジェニファーはマイルスという男に対して良い感情を抱いてはいなかった。

 剣の腕は確かに並ではない。何度かその太刀筋を見たことがあるが、才気溢れる巧妙な剣を振るうのは認めざるを得なかった。見目も悪くはない。剣の腕、涼しげな見目、高い家格と、さぞや女性たちの耳目を集める、優れた男子に見えたことだろう。ただし、"大人しくしていれば"、と頭に付け足せば。

 その中身の方は、とてもそれに伴っているとは言い難かった。家柄を笠に着、権威をもって下位の者を威圧する居丈高な振る舞いなどは、ジェニファーにとって、見ていてどうも()()()()()()男の筆頭に思えた。


 そして、その感覚も間違いではなかったようだ。たとえ二人の仲がどれほど破綻していようとも、このような公衆の面前で辱めるように破談を言い出すのは、騎士道にもとり、ましてや貴族としての礼節すら欠いた蛮行だ。

 相手の名誉にも癒えぬ傷をつける、あまりに短慮で、品位を欠いた手段だった。


 ――見ているこちらまで、吐き気がするほど不快ですわ。

 ジェニファーは内心で冷たく毒づいた。

 キャサリーン・フェザーストーンとは、親戚の婚約者として何度か顔を合わせた程度の関わりしかない。だが、ジェニファー個人としては、同世代の美しく聡明な彼女に秘かな関心を抱いていた。だが、如何せん、彼女に時機は味方をせず、深く付き合うほどの縁もないまま今日に至ってしまった。

 だが、その縁の薄さを差し引いても、目の前で愚行をさらけ出す己が親戚には、こんこんとした憤りを感じずにはいられなかった。


 それは当事者たちにしても同じなのだろう。キャサリーンと彼女を囲む友人たちは、射抜くような鋭い視線をマイルスと傍らの女に向けている。

 しかし、当の本人はそれに気づいていないのか――あるいは気づかぬふりをしているだけなのか――不遜な笑みを崩そうとはしない。

 マイルスに肩を抱かれた女は、怯えてキャサリーンの顔色を窺うふりこそしているが、その瞳に浮かぶ喜色を隠しきれていなかった。夜会の明かりに浮き出る過剰な化粧と、部を弁えぬ煌びやかなドレスは、その卑しさを際立てる逆効果にしかなっていない。


 マイルスは、己の権威を絶対的なものと過信しているのだろうか。

 キャサリーンの実家であるフェザーストーン家は、元来それほど高い家格を持つわけではない。現当主であるフェザーストーン男爵の才幹が領主ホワイトウィック公に認められ、重用さたことで、名家であるリチャードソン家のマイルスとの婚約が整ったのだ。

 家格こそマイルスに及ばぬものの、当人同士の資質を比べれば、これがどれほど釣り合わぬ婚約であったかは、社交界の誰もが知る公然の秘密となっていた。


 マイルスとは、ここまで愚かだったか。

ジェニファーは、ほとんど交流のない親戚の顔を改めて見上げ、その行動の醜悪な意図を拾った。

 彼は、初めからキャサリーンを辱めるつもりでこの場を選んだのだ。

 内々に話し合いを設けることもなく、あえて公衆の面前で断絶を言い渡すことで、キャサリーンの矜持と面子を傷つけようという算段なのだろう。マイルスの嗜虐的に歪んだ口許が、それを物語っていた。


 よほど、キャサリーンと比較され続けてきた日々が癪に障ったのだろう。

 マイルスのその胸中には、劣等感という、余程の滾るような修羅苦羅の炎が渦巻いていたに違いない。

彼にとって、キャサリーンは所詮、親によって押し付けられた義務でしかなかった。

 当初はそれでよかったのかもしれない。だが、キャサリーンは夫の影に隠れて殊勝に振る舞うような女ではなかった。彼女は家庭教師の教えを瞬く間に吸収し、天性の好奇心の強さにより、貪欲に知識を蓄えることを楽しめる性癖であった。そうなると、周りからの評価は高まり、自然と噂されることになる――「フェザーストーン家の子女は非常に優秀だ」、と。対照的に、腕っぷしだけが取柄であったマイルスは比較されることになる。それが「互いの欠けを補い合う良き相性」という方向に行けばよかったのだが、世間は、人という生き物は、どうしても美談を語るよりも残酷に噂をしたがるものである。

 マイルスの隣にいる女――あの娼婦は、男の心に生じたその劣等感を巧みに刺激し、寄生するように取り入ったのだろう。


 キャサリーンにとっても、粗暴な婚約者との間に健全に愛を育むなどと、端から望むべくもないことだった。婚約の解消そのものは、むしろ願ってもいない僥倖ですらある。ただし、それを切り出す時と場所を考えていたら、の話だが。

「このような場所でなさる話ではございませんわね」キャサリーンが慇懃に言った。「後日、また日を改めて場を設けましょう」

「必要なかろう。これより私と貴様は他人だ、その面を二度と見せるな!」

 取り付く島もなくがなり立てているマイルスに、キャサリーンは悟られぬように、ごく小さなため息を吐いた。そしてそれ以上何も言わず、マイルスに背を向けると、騒然とする観衆に向けて静かに頭を下げた。

「皆様、お騒がせいたしました。どうかわたくしのことはお気になさらず、お楽しみくださいませ」キャサリーンは恭しく述べると、完璧な礼節を保ったお辞儀を一つ残し、その場をやや足早に辞した。


「ジェニファー様」隣でフレデリカが、探るようにジェニファーの名前を呼んだ。

 無理もない、とジェニファーは思った。あのような醜態を見せつけられれば、祝祭の興など冷めきってしまう。他の客たちも一様に困惑し、苦々しい表情を浮かべていた。この場で平然とできるのは、当のマイルスたちだけである。

 ジェニファーは深く、重いため息を吐き出した。「わたくしも、これでお(いとま)致しますわ」

フレデリカに向けたその言葉には、言外に親戚の愚行への怒りが込められていた。


 扉をくぐり、人の目が届かなくなると、ジェニファーはドレスの裾を無造作に掴み上げ、歩を早めた。淑女としては()()()()()振る舞いだが、今はそのような体裁よりも、先ほど去ったキャサリーンのことがずっと気がかりでならなかった。

 ほどなくして、夜空に透けるような淡い金糸を捉えたとき、ジェニファーは思わず安堵の息を漏らした。

 ――良かった、まだいた!

「キャサリーン様!」思わず、ジェニファーは大きく声を張り上げていた。

 キャサリーンはわずかに驚いた表情を見せたのち、すぐにいつもの落ち着きを取り戻し、恭しく頭を下げた。

「ジェニファー様?」キャサリーンが言った。薄暗がりの中だったが、不思議と声の主はすぐにわかった。

 勢いで呼び止めたものの、いざ対峙するとジェニファーは言葉に困った。婚約破棄を突きつけられたばかりの女性に、どのような言葉をかけるのが正しいのか。己の恋愛経験のなさを恨んだ。そもそも、二人はこれまで深く言葉を交わしたことさえない間柄なのだ。


 ――皮肉だと、受け取られはしないだろうか。

 ジェニファーは悩んだ。

 不運にも、自分はマイルスの親戚なのだと。その愚かな親戚から辱めを受けたばかりの彼女からすれば、身内がわざわざ追いかけてくるなど、文字通り"追い打ち"を仕掛けにきたと思われても仕方がない。ジェニファーは、自分とマイルスが近しい血筋だったことを、これほど呪わしく思ったことはなかった。

「その、大丈夫でいらっしゃいますか?」悩みぬいた末に絞りだしたのは、平凡な気遣いの言葉だった。

「お気遣いありがとうございます。わたくしは平気です」キャサリーンは静かに微笑んでそれに返した。「それよりも、夜会の雰囲気が悪くなってしまったのではないですか?」

「それは、まぁ、そうですが」ジェニファーは言い淀んだ。キャサリーンの言う通り、あのような騒ぎのあとで、誰が心から楽しめるというのか――それを作った本人以外は。「ですが、あれはあの愚か者の従兄――マイルスの責です。キャサリーン様が気に病む必要など、露ほどもございませんわ」

 ジェニファーの慰めの言葉に、キャサリーンはゆっくりと首を振った。「わたくしも、婚約者としての務めを果たしていなかった自覚はございます。全ての原因がわたくしにあるとは思いませんが、わたくしの責でもございます」

「そのようなことは」ジェニファーは、ない、とは続けられなかった。

 二人が形ばかりの婚約関係に甘んじ、適切な交流を持とうとしなかったという事実は、ジェニファーも聞き及んでいたからだ。

 絵にかいたような政略結婚のなれの果てだった。キャサリーンは義務感以上にマイルスに対して感情を抱くことがなく、マイルスもまた、歩み寄る努力を怠り続けていた。

 お互いに冷え切っていたのだから、こうなった責を問うならば自身にも瑕疵はある――キャサリーンはそう言いたいのだろう。だが、ジェニファーは譲らなかった。

「いいえ、キャサリーン様。いかなり理由があれ、やはりあのような蛮行を許す道理などございませんわ」

 力強く言い切るジェニファーに、キャサリーンは鈴を転がしたような声で、くすり、と笑った。「ありがとうございます、ジェニファー様」

 目の前の令嬢は悲嘆に暮れるどころか、どこか晴れやかな様子でさえあった。かけるべき言葉を探してジェニファーが逡巡していると、それを察したようにキャサリーンが柔らかな笑みを向けた。

「ですが……正直に申し上げると、少し嬉しくもあるのです」

「うれしい、ですか?」

「ええ。これで自由になれましたのよ」キャサリーンは清爽せいそうな笑顔で続けた。「折角女に生まれた身ですもの。恋の一つもしなければ、その甲斐もありませんわ」

 その言葉を聞き、ジェニファーは小さく、ほう、と感嘆の息を漏らした。

 キャサリーンは強い。そして、心配するのもおこがましいほどに前向きだ。ジェニファーはその潔い人柄に、確かな興味を抱いた。そして、好意も。

「それでしたら、わたくしは少し残念ですわ」ジェニファーもくすりと微笑み返した。「遠縁とはいえ、キャサリーン様と身内になれるのを楽しみにしておりましたのよ?」

「まぁ。わたくしも、ジェニファー様にお近づきになれるとわかっておりましたら――」キャサリーンが悪戯っぽく笑う。「もう少し『婚約者らしく』振る舞いましたのに」

 それを受けて、ジェニファーも今度ははっきりと笑い声を漏らした。「では、身内は諦めて、友人になりませんこと?」

「それは素敵な提案ですわね」

「わたくしのことはジェンとお呼びくださいませ。親しい人はそう呼びます」

「ジェン」キャサリーンは、宝物をなぞるように名前の響きを確かめた。「わかりました、ジェン。でしたら、わたくしはケイティとお呼びになって」


 これが二人の真の出会いとなった。元より顔見知りではあったが、皮肉にもあの醜悪な夜会の騒動こそが、互いの心の深い場所を知るきっかけとなったのだ。


 キャサリーンは悩んでいた。

 それは何も、マイルスからの言い渡された婚約破棄を気に病んでいるわけではない。元より親同士によって勝手に決められていただけの仲であり、正式な婚姻にも至っていない相手だ。好いてもいない相手に袖を振られたからと言って、憤れば良いのか、傷ついてみせれば良いのか、あるいは――正直に喜んでも良いものなのか。これまで淑女として自分を律してきたキャサリーンにも、正解の判別がつかなかった。

 むしろ、彼女の周囲のほうが(やかま)しかった。父であるフェザーストーン男爵は、傲岸不遜(ごうがんふそん)なマイルスの振る舞いに烈火のごとく激怒し、母親はマイルスの連れていた女を忌々しげに嫌悪した。当の本人であるキャサリーンは、これ以上騒ぎを大きくしたくない一心で、必死に両親を窘める日々を送っていた。

 だが、彼女の最大の悩みは、両親の機嫌でも、社交界に広まった噂でもなかった。

――新しく出来た友人を、どうやってお茶会に誘おうか。

 そんな、春の蕾が膨らむような可愛らしいものだった。あの日、マイルスから受けた仕打ちはキャサリーンにとっても決して気分の良いものでは無かったが、ひとつだけ――そしてその仕打ちなどどうでもよくなるくらいの――思わぬ幸運が降り注いだ。ジェニファー・コノリーという稀有な令嬢とお近づきになれたのは、キャサリーンにとって、すべての帳尻が合う以上の、あまりに眩しい贈り物だったのだ。


 キャサリーンがジェニファーを初めて見たのは、数年前の騎士団の合同訓練をたまたま目撃したところだった。

 ホワイトウィックには白波の騎士団と呼ばれる騎士団が存在する。常に蛮族の脅威に晒されている辺境に位置し、荒々しい海と共に生きてきたホワイトウィックの民は、しばしば他国から、「ホワイトウィックの赤ん坊は、うぶ声の代わりに鋼の音を立てる」などと半ば皮肉を、もう半分は賞賛を籠められ揶揄される。それほどストイックに剣と共に生きてきた者たちばかりだった。白波の騎士団はその中でも指折りの騎士たちが集う、最上位の騎士団だった。ジェニファーはその白波の騎士団に所属する、歴代でも珍しい女性騎士だった。

 男性が大半の騎士団において、女性であるジェニファーの存在は際立っていたと言えよう。巨躯の男ばかりの中にいて、その細く小柄な身体は何故だか埋もれてはいなかった。

 通りすがりに眺めた訓練だったが、キャサリーンは思わず足を止めてその光景に見入っていたのを思い出した。

 自分のよりも二回りも大きい男からの攻撃をいなし、そのしなやかな四肢を踊るように跳ねさせながら、悠々と一つ、また一つと取っていた。これが実際の戦場であったなら、彼女は間違いなく英雄と呼ばれていただろう。


 ジェニファー・コノリー令嬢――あんなに素敵な女性をキャサリーンは知らなかった。花も恥じらい、月もその顔を隠すほどの美人とは、まさにジェニファーのような者を指すのだと知った。それから彼女の噂話にはよく耳を傾けるようになった。

 やはり彼女に憧れている令嬢は少なくなかった。騎士を目指す女性にとっても憧れの的であった。女性ながら、騎士団で唯一秘剣を教わった人物であるという話もあった。

 キャサリーンにとっては密に憧れていた人物。いつか知り合える機会があれば、と望んでいたが、持ち前の運の悪さからその機会は中々巡ってくることはなかった。このまま一生機会がないままなのではないか、元より出会う運命ではなかったのではないかと、半ば諦め交じりでいたほどだった。それが、先日のマイルスの騒動により、思いがけず縁が繋がったのだった。それ自体はよかった。キャサリーンにとってそれは、掛け値なしに喜ぶべき幸運だった。

 しかし――

 キャサリーンは大きくため息を吐いた。聡明な彼女ではあったが、その時ばかりは自分の不甲斐なさを悔やんだ。友人をお茶会に誘うという、それだけの行為に躊躇してしまっていた。机の上には、すでに数枚の高級な便箋が無残に丸められ転がっていた。手許にあるまだ無事な便箋には、何度かペン先に叩かれたような黒点がいくつもついている。

 キャサリーンはまた大きなため息を吐いた。

 ――なんと書けば、あの方に届くのかしら。

 目を閉じて、瞼の裏にあの日見たジェニファーの姿を映した。

 もっと普通に誘えばよい――いや、あの日のお礼にお菓子を用意した、と書けばいいだろうか――いや、それではお礼がなければ誘わないように思われたりはしないだろうか――いや――と、頭の中では延々と堂々巡りが続いている。


 そんなキャサリーンの悶々とした思考を打ち切るように、2度、木を叩く気持ちの良い澄んだ音が部屋の中に鳴り響いた。

「失礼いたします」扉の外から侍女の声が聞こえてきた。

「どうぞ」

「お客様がお見えになっております」侍女が礼を取って言った。

 キャサリーンは訝しんだ。先日のような騒動があって、自分を訪ねてくるなど、碌な用件でないと思った。

「どなた?」キャサリーンはそう言ってから、自分で思っていた以上に、声に不快感が籠ってしまったことに気が付いた。

 何も関係のない侍女を徒に畏怖させるものではないと、無理矢理明るく振る舞おうとしたのだが――

「コノリー家のご令嬢です」

 侍女のその言葉で、キャサリーンは繕う必要もなく気持ちが明るくなったのを自覚し、弾んだ声で答えた。「すぐに向かいます」

 姿見に自分を映して、細かいところまで乱れていないか確認すると、早足気味に応接室へと赴いた。扉に手をかけた所で少し深呼吸して、気持ちを落ち着かせてから中へと入った。そこにはジェニファーがいた。以前見かけたのは夜会だったのでより華美なドレスに身を包んでいたが、今はそれよりも少し落ち着いた、動きやすそうな装いをしている。しかし、それでもやはりキャサリーンは、目が奪われるほどに綺麗だと思った。透けるような金の髪も、空を丸く切り取ったような青い瞳も、計算されつくしたようなしなやかな体躯も、何も損なわれていなかった。

「ごきげんよう、ケイティ」ジェニファーは笑顔を見せて言った。「たまたま、近くへ寄ったので、ご挨拶をと思いまして」

 この期に及んで、未だキャサリーンは夢を見ているような心地だった。ほんの数刻前まで、頭の中で想像していた人物が自分に笑いかけている。その事実が、くすぐったく夢と現を曖昧にしてくる。

「ごきげんよう、ジェン」キャサリーンは、努めて普段通りに笑った。

「先触れもなしに、申し訳ございません」ジェニファーが気遣わしげな視線を送った。

「いいえ、お気になさらないでください」キャサリーンは目の前で手を振って言った。「わたくしたちは、その――友人なのですから」そして、くすりと笑ってみせた。「それに、ただ部屋で考え事をしているだけでしたので、かえって丁度良かったですわ」

「あら、考え事の邪魔をしてしまいましたか?」

「いいのです。その考え事も――」ふふ、と、羽を撫でるようにキャサリーンが笑って言った。「ジェン、あなたのことを考えていましたから」

「まぁ!」ジェニファーが手を叩いて喜んだ。「それは、すごい偶然ですわね」

 キャサリーンも微笑んでそれに答えたが、内心ではその偶然を否定した。キャサリーンにとって、ここ数日、ジェニファーのことを考えていない時間の方が少ないのだから。

「ジェン、この後、急ぎの用事などはございますか?」キャサリーンは言って、いたずらっぽく目を細めた。「まさか、このまま挨拶だけなんて、そんな()()()は言いませんわよね?」

「もちろんですわ、ケイティ」ジェニファーはそう言って、大きく頷いた。


 キャサリーンが侍女に命じ、二人は場所を陽光の差し込む庭園の東屋へと移した。フェザーストーン邸のよく手入れされた庭園は、辺境の荒々しい風土に抗うように咲き誇っており、ジェニファーの目から見ても見事なものであった。彼女は思わず感嘆の吐息を漏らす。


 ジェニファーは、侍女が差し出した椅子に座る際も騎士らしく洗練された動きでドレスの裾を捌いた。厚手の生地が空気を切る、その何気ない動作がキャサリーン目には新鮮に、とても鮮烈に映った。しばらくその"機能的な美"に見惚れて言葉をなくしていたが、ジェニファーの涼やかな声に、ようやく現実へと引き戻された。

「噂に聞いていた通り、素晴らしい庭園ですわね」ジェニファーは視線をあちこちに動かしながら言った。

「我が家の、数少ない自慢ですもの」

 キャサリーンは侍女が運んできたティーセットを預かると、琥珀色のお茶で満たされたポットを、小鳥の羽を扱うかのような軽やかさで持ち上げた。心地の良い水音を響かせ、カップが満たされていく。磁器特有の硬い音を立てることなく、ソーサーがジェニファーの前へと差し出された。

 微かにベルガモットの香る湯気が鼻腔をくすぐると、ジェニファーにははっきりと理解ができた。キャサリーンの指先には、長年の教育が染み付いた整然とした美が宿っている。ボーンアッシュの滑らかな白さと競い合うような彼女の指先は、騎士として生きてきたジェニファーの目には、何よりも尊く守るべきものに見えた。

「いえ、フェザーストーン家の一番の自慢は、きっとあなた自身ですわ」ジェニファーが熱のこもった声で言った。「ケイティよりも美しい令嬢なんて、きっとオルドヴィア中を探しても見つかりません」

「まぁ!」キャサリーンは口許に手を当てて大げさに驚いて見せたが、すぐにくすりと小さく笑い、冗談めかした口調で返した。「誰にでもそんなことを言っているの?」

「まさか!」ジェニファーは慌てて言った。「ケイティだけですわよ。先ほどのお茶を入れる一連の所作、本当に美しくて見惚れてしまいましたわ」

「ジェンにそう言っていただけると、あのつまらない花嫁修業も、決して無駄ではなかったと思えますわ」キャサリーンが控えめに笑い、伏せていた視線をゆっくりとジェニファーへと移した。「わたくしも、先ほどからずっと、ジェンの動作ひとつひとつに見惚れていましたのよ。騎士だからかしら――ひとつひとつ、すべての動作に無駄がなく、研ぎ澄まされた刃のように美しいわ」

 ジェニファーの頬が、わずかに赤く染まった。「そんなこと、初めて言われました」

 互いに互いを褒め合い、心地よくも甘酸っぱい空気が二人の間に流れる。

 ジェニファーの小さな笑い声が沈黙を崩した。「もし聞いてよければ、先ほど、わたくしのどのようなことを考えていらしたの?」

「ええ、もちろん」キャサリーンが頷いた。「本当に偶然なのですが、どのようにあなたをお茶会へ誘うべきか、独りでずっと、便箋の山を作りながら悩んでおりましたの」

「本当に?」今度はジェニファーが目を丸くした。「わたくしも、ずっとそれを悩んでいました。誕生パーティーが近かったのは、本当に僥倖でしたわ」

「まぁ」キャサリーンがくつくつと笑った。「わたくしたち、存外、似た者同士なのかしら?」

「そうかもしれませんわね」ジェニファーも同じように笑った。


 しばらく二人のゆったりとした談笑はしばらく続き、やがて空に鮮やかな赤みが差し始めた頃、期せずして開かれたお茶会もようやくお開きとなった。

「本日は急な立ち寄りにもかかわらず、おもてなしありがとうございました」ジェニファーが背筋の伸びた動作で、恭しく頭を下げた。

「いえ、こちらこそ」キャサリーンも柔らかな微笑を返した。「あなたのおかげで、これ以上ないほど楽しい時間を過ごせました」

 玄関ホールでジェニファーを見送るキャサリーンだったが、その内心には潮が引くような一抹の寂しさが残った。あけ放たれた扉から聞こえてくる馬の蹄の音と、御者の低い声、冷たい風の音。それらすべてが、彼女に殊更それを感じさせた。

 ジェニファーが片方の手袋を指先から丁寧にはめこみ、もう片方も手に取ったとき――その動きを遮るように、キャサリーンの指先がそっと彼女の手首に触れた。

 指先に伝わる鍛え抜かれた拍動を感じながら、キャサリーンは遠慮がちに視線をあげ、おずおずと、相手の顔色を伺うように言った。「またすぐに会いたいと言ったら、困らせてしまいますか?」

「いいえ!」ジェニファーが、弾かれたように強く否定した。「ケイティさえよろしければ、すぐにでも会いたいですわ」

 その言葉に、キャサリーンは安堵のため息を漏らした。

「では、次は、夜に――なんて、はしたなくお思いかしら」また心配そうに言ったが、縋るような早口で付け加えた。「ですが、我が家の庭園は、昼だけでなく、夜の帳が下り、月光の差し込む影の世界になった時間こそ最も幻想的な美を表すのです。それを見ていただきたくて」

「はしたないだなんて、とんでもありませんわ」ジェニファーの声も、わずかに上気したように熱を帯びる。「是非とも、見てみたいです」

 手首に触れるキャサリーンの手は、驚くほど熱を持っていた。それが、自分自身の高揚によるものなのか、ジェニファーの体温からくる熱なのか、今の彼女には判別がつかなかった。冷たい秋風が吹き込んでいるはずのホールで、そこだけが灼けるように熱かった。

「では、必ず近いうちに招待いたしますわ。是非、お越しくださいませ」


 キャサリーンはジェニファーを正式にディナーへと招いた。以前のお茶会から、ほどなくしてのことだった。キャサリーンの家族――フェザーストーン家――を交えたディナーでは、マイルスの親戚ということで敵視されないかと心配していたジェニファーだったが、キャサリーンがあらかじめ話していたのか、そんな様子は微塵もなく、温かく迎えられたことに安堵した。ジェニファーは、キャサリーンが家の許で十分に愛されて育ったのを感じ取った。

 やがてディナーを終えると、二人は約束していた通り、夜の庭園へと向かった。外に出れば、銀髪海から流れる冷たい秋の夜風が二人の頬を撫でる。キャサリーンは夜風を防ぐためにマントを羽織ってきたが、ジェニファーは部屋用のドレスしか着ていなかった。

「だから、寒いと言いましたのに」キャサリーンが苦笑いをした。

「申し訳ありません」ジェニファーは寒さに少しだけ声を震わせた。「わたくしの認識が甘かったです」

 キャサリーンはくつくつと笑うと、羽織っていたマントを広げ、ジェニファーの背後から回し、包み込んだ。

「すこし狭いですが」ジェニファーが言った。「風邪をひくよりはまし、ですわね」

「ありがとう、ございます」ジェニファーはそう呟くと、うっとりと目を閉じ、吸い込まれるようにキャサリーンの温もりへと身を寄せた。「温かいですわ、ケイティ」


 雲が流れ、満月が暗い庭園を青白く照らすと、穏やかな庭園に月光が大きな一つの影を作った。

「見て、ジェン。月がとても綺麗ですわ」

 キャサリーンは時折、こうして月を見上げるのが好きだった。特に今の頃、中秋の夜空は空気が澄み、殊更よく見える。風に揺れる柳の葉が、さあさあ、と静かに泣く音を聞きながら、それを見ていると日々の厭な出来事もその間だけは頭から綺麗に消し去ることができた。

「まぁ、本当。こんなに明瞭に見えるものなのですね」

 暗い夜空を見上げるキャサリーンに、釣られたようにジェニファーも視線を上へと上げた。まばらに星々が煌めく中に浮かぶ盈月は、一層際やかに真円を描いてその姿を見せていた。

「今は月が綺麗に、よく見える時期なのです」

「月なんて普段はあまり見ないけれど、こうしてゆっくり眺めるのも、良いものですわね」ジェニファーは目を細めて月を眺めた後、キャサリーンへと視線を移した。「隣にケイティがいるからかしら?」

キャサリーンは目を細め、拗ねたように口を尖らせて言った。「ジェン、あなた、本当にわたくし以外にそういうことを言っていないのでしょうね?」

「まさか! 言いませんわよ」ジェニファーが慌てて言った。「格好をつけてみたけれど、内心では緊張しているますのよ」

「本当かしら」キャサリーンが訝る視線を向けた。

「本当ですわ。ほら、確かめてみて」

 ジェニファーがキャサリーンの手を取り、自分の左胸へと強く押し当てた。掌に伝わるの荒波のような鼓動だった。それがジェニファーの心臓によるものなのか、それとも自分自身のものなのか、もう判別がつかなかった。

「わかりました」キャサリーンは声が震えないよう、気を付けながら言った。「信じますわ」

 ジェニファーはそれを聞き、掴む手を離した。キャサリーンの自由になった腕は、まだそこに熱を残しながら、名残惜しそうに空を切った。


「そういえば、ケイティ、お聞きになりましたか?」ジェニファーは――誰が聞いているわけでもないが――柳の葉の泣き声に紛れ込ませるように、声を潜めて言った。「例のお花売りが"お隠れあそばした"そうですわ」

 例のお花売り――マイルスが血迷って夜会に同伴させた娼婦――は、マイルスの実家にとってもはや生かしておける存在ではなかった。それも無理からぬことであり、マイルスの実家、リチャードソン家は代々その血筋に誇りをもって生きてきた高貴な家系。そんな一族が一介の娼婦に誑かされるなどと、あってはならないことだった。当主のリチャードソン卿の怒りはすさまじく、その元凶である彼女は、身の程を弁えぬ羽虫を潰すかのように、音もなく処断された。

 キャサリーンは息を呑み、その後にゆっくりと、苦々しく口を開いた。「そう、なのですか」

 キャサリーンにとって、娼婦に思うところがないわけでは無いが、彼女にしても元を正せば仕事でマイルスの相手をしただけだろうに、その行き着く先が死というのは――いくら身の程というものを取り違えた結果とはいえ――どうにも後味の悪さを感じてしまう。

「ケイティ、気に病む必要はありませんわ」ジェニファーが気遣わしげに言った。「これはリチャードソン家の業であり、マイルスの選んだ結末です。もはやあなたとは関係のない、泥の中の出来事なのですから」

「ええ、ありがとうございます」キャサリーンは言った。しかし、その声色は重く沈んでいた。

「……こんな時に、話すことではありませんでしたわね」ジェニファーは言った。沈んだ声で。「申し訳ございませんでした」

 この月夜を汚したような心地になり、騎士として、人の死に慣れすぎた自分を秘かに悔いた。

「いえ、ジェンが謝ることなんてありませんわ」キャサリーンは首を横に振って、言った。「知れて、よかったです。時折、自分がこうして自由に生きているのも、誰かの犠牲のもとに成り立っているということを忘れそうになりますもの」

 しばらく、重たい沈黙が場を支配した。風に泣く柳の音だけが、鎮魂歌のように響く。

「お部屋に戻りましょうか」キャサリーンが言った。「風邪をひくといけませんもの」

「ええ」ジェニファーは頷いた。

 二人は一つのマントに包まれ、寄り添い合ったまま、暗い庭園を後にして屋敷の中へと消えていった。


 翌朝、陽光の差し込むホールには、昨夜の月光の下の静寂が嘘のように明るい活気に満ちていた。

「ケイティ、本日はお招きいただきありがとうございました」ジェニファーは慇懃に礼をとった。「次回は、ぜひわたくしの家――コノリー家にもいらしてくださいませ」

 見送るキャサリーンにとって、別れ際の寂しさというものは決して慣れるものではなかった。むしろ、共にする時間が長い分だけ、余計にその名残惜しさは強まっていく。

「ええ、もちろん」キャサリーンが言った。努めて明るく、寂しさを悟らせない声色で。「また、すぐに誘ってくれるのでしょう?」

「ケイティ、その、実は――」ジェニファーはふと視線を泳がせると、意を決したように懐から一通の封筒を取り出した。「渡したいものがあったのです」

「まぁ、なんでしょう」

「実は、その、こちらを」ジェニファーは伺うように言うと、封筒をキャサリーンの前に差し出した。

 キャサリーンはそれを受け取り、ジェニファーに視線を向けた。「今、伺ってもよろしいですか?」

 静かに頷きを待って、キャサリーンは封のされていないそれを開け、中身へ目を通すと、そこにはコノリー家の紋章と共に、彼女の誕生パーティーへの招待が記されていた。

「まぁ、お誕生日パーティー?」

「はい。この間、夜会であんなことがあったばかりなのにお誘いするのも、気が引けるのですが」

「いえ、ぜひお祝いさせてくださいませ!」キャサリーンは強めに言った。「寧ろ、大事なジェンの誕生日を祝えなかったら、恨んでおりましたわよ」

 ジェニファーは安心したように息を吐いた。「ありがとうございます、ケイティ」そして、少女のような笑みを見せた。「家族と、本当に仲の良い友人だけの小規模なパーティーですから、あなたに無遠慮な視線を送るようなものがいないことは保証します」

「まぁ」キャサリーンが口許を抑え、喜んだ声で続けた。「そのような場にわたくしもご招待いただき、ありがとうございます」

「それで、ええっと、ケイティ」ジェニファーが口ごもったように言って、すこし逡巡し、口を開いた。「もし、迷惑でなければ――その、誕生日の前夜、また伺ってもいい、かしら?」

「ええ、構いませんが」キャサリーンは言った。「どうして前夜なのですか?」

「それは、その」ジェニファーが逃げていた視線を戻し、キャサリーンの瞳を射貫いた。「ケイティに、だれよりも先に誕生日を祝ってほしくて」

 それを見て、キャサリーンは自分の胸にいかづちが走るような心地を覚え、抱きしめたい情動に駆られる。それを淑女の嗜みによりどうにか抑え込むと、ジェニファーの両手を取り、優しく握りしめた。

「ええ、もちろん」あふれるような笑みがキャサリーンの唇からこぼれた。「あなたのお誕生日、わたくしが世界で一番最初にお祝いいたしますわ」




 誕生日の前夜、ジェニファーは約束通り、キャサリーンの許を訪れた。

 再び訪れた夜の庭園。遠くの街にある大聖堂の鐘が、夜風に乗って微かに十二の音を運んできた。

「ジェン、お誕生日おめでとうございます」キャサリーンは、重厚な鐘の余韻が消えるか消えないかのうちに、一歩歩み寄って言った。

「ありがとうございます、ケイティ」ジェニファーが優雅に礼をした。「わたくしのわがままに付き合っていただいたことも」

「何をおっしゃいますの」キャサリーンが笑みを零し、ジェニファーの許へ、さらに一歩近づいた。「わたくしだって、ジェンのお誕生日をお祝いできるのが、何よりもうれしいのですわ」

 ジェニファーからも、さらに一歩近づいた。ベルベットのイブニング・マントが擦れ合い、柔らかな石鹸の香りが混じり合った。ほとんど触れ合いそうな、体温を感じられる距離まで近づくと、キャサリーンは用意していた包みを差し出した。

「色気のない贈り物になってしまいましたけれど、受け取ってくれますか?」

 キャサリーンが布を解くと、中に現れたのは、鞘に至るまで華奢な装飾の施された、緩やかに湾曲する細身のサーベルだった。ヒルトやガードにも繊細な食刻がなされており、細部までこだわって作られたのが見て取れる。

 キャサリーンは、ジェニファーがその瞳を爛々と輝かせているのが、この薄暗がりの中でもわかった。やはり、剣が好きなのだろう――この贈り物を選択したことに安堵したが、同時に、あれほど彼女の視線を奪う剣に嫉妬のような感情も抱いた。

「色気がないなんて」ジェニファーが声を弾ませた。「とても嬉しいわ、ケイティ!」

 

「ねぇ、抜いてみてもいいですか?」

「もちろんです」

 ジェニファーは少しキャサリーンから距離を開けると、柄に手をかけ、それをゆっくりと引き抜く。氷の割れるような金属音が静まり返った闇夜に鋭く響いた。月光を吸い込んだ白刃が、袖口を彩るレースの白さをいっそう際立たせている。

「本当に素晴らしい剣ね、ケイティ!」ジェニファーは子どものような無邪気さで言った。「気高くて、慈愛に満ちた剣……まるで、あなたのようよ」


 その言葉を聞きながら、キャサリーンは、月影の下で清かに映し出され、優々と剣を携えるジェニファーの姿に心を奪われ、息をするのも忘れて見惚れていた。光を透かすその髪は、まるで淡く光を湛えているかのように輝き、まさに戦の女神を描いた美しい名画の如く完成されていた。

「本当に綺麗」キャサリーンが熱を含んだ吐息を零した。「まるで月の女神の生まれ変わりのようだわ」

「そんなことを言ってくれるのは、ケイティだけだわ」ジェニファーは照れたように言った。

「みんな、見る目がないのね」キャサリーンはくつくつと笑って言った。

 

「強い剣には、名前があるものですわ」ジェニファーが言った。剣を手にしたまま、キャサリーンへ視線を向けた。「この剣は、なんという名前なの?」

「わたくしが名付けてもいいのかしら」

「ケイティに名付けてほしいのよ」

 キャサリーンはしばらく逡巡した。そして、「アリアンロッド」ぽつりとつぶやいた。月の女神の名前を。古代オルドヴィア語で"銀の輪"を意味する名前を。キャサリーンにとって、ジェニファーがそうであるように。

「その剣の名前は、"アリアンロッド"です」キャサリーンは言った。ゆっくりと、大切な言葉を言うように。「あなたは、わたくしの"銀の輪"なのよ。あの日、あなたに声をかけられたときから、ずっと――ジェンがわたくしを照らしてくれるお月さまなのだわ」

「アリアンロッド」ジェニファーがキャサリーンの言葉を反芻するように呟いた。アリアンロッドの刀身と、その送り主の顔。交互に視線を送り、やがて、意を決したように目を瞑ると、再び開かれた瞳には、迷いのない光が宿っていた。

「決めたわ」ジェニファーが言った。微笑みの清々しさを月光が照らした。「私、ケイティの騎士になるわ」そして、もう一度、力強く、「白波の騎士団なんてやめて、あなただけの騎士になる」

「白波の騎士団を抜けるですって?」キャサリーンは目を見張った。「あそこはあなたの誇りじゃない」

 ジェニファーは静かに首を振った。「白波が、月の引力に逆らえると思う?」月明かりが二人を照らした。冷たさを含んだ明かりが石畳に二人の影を作った。「あなたは私をお月さまと言ったけれど、私にとっても、あなたはお月さまなのよ」


 ジェニファーがアリアンロッドを差し出し、手に取るように促した。「さぁ、騎士の叙任を――」

「ねえ、わたくしの騎士で満足?」そう言ったキャサリーンは、悪戯っぽく唇に手を当てた。

 ジェニファーは少しだけ考え込む仕草をした後、悲しそうに目を伏せた。「ええ、それ以上、なんて」そのまま、キャサリーンから目を逸らしたまま言った。「私が殿方に生まれていれば、ケイティを幸せにできたのに」

「あら、そこは『女同士でも幸せにしてみせる』と言うところではなくて?」キャサリーンはくすりと笑って言った。

 ジェニファーのこういった本質的な真面目な部分をキャサリーンは好意的に思っていたが、今はそれを取り払ってほしかった。形式ばった叙任のやり取りを求めるところなどはその最たるものだが――

「剣で肩を叩くよりも、もっと確かなものを与えるわ」キャサリーンはそう言って、再びジェニファーに一歩近づいた。

 キャサリーンがジェニファーの顔を覗き込んだ。少しずつその唇を近づけていく。白い吐息が混ざりあい、溶け合いそうな距離。ジェニファーが拒絶しないことを確かめると、その柔らかな唇を押し当てた。

 やにわに宿った熱が、冬の枯れ野に放たれた火のようにジェニファーの身体中へと広がっていった。澄んだ夜風がもたらしていた寒さも、最初から存在しなかったかのように。

 ただ、その感触が愛おしかった。感じる熱が愛おしかった。この瞬間が永遠に続けばよいと思ってしまうほどに。かつて、男性に触れられた際の氷のような嫌悪感とは正反対の、魂が溶け出すほどの熱情。人との触れ合いがこれほど心地よく、魂を震わせるものだったのかと、ジェニファーは失っていた鮮やかな感覚を、その唇から注ぎ込まれる熱によって思い出していた。


 月には魔力が宿るという話をジェニファーは思い出した。

 古来より月を眺めていると気を病むとも言われている。

 ならば、キャサリーンは正に、ジェニファーを惑い狂わす為に現れた、月の女神ではないだろうかなどと、突飛な考えさえも浮かんできた。

 最初は側に居たいと願うだけだった筈が、何時しか片時も離れたくないと思うほどになっていた。まだほんの数回顔を合わせた程度で、ジェニファーのキャサリーンに対する想いは、加速度的に膨らんでいった。


「月には魔力が宿るって、本当だったのね」ジェニファーが言った。

「魔力?」「だって、ケイティをずっと見つめていると、おかしくなりそうだもの」ジェニファーはキャサリーンの手を取りながら言った。その瞳はわずかに潤んでいる。「ずっとそばにいたいし、いつも触れていたい。あなたに求められたい……誰にも、たとえいずれあなたと結婚する人にだって、あなたを渡したくないの」

 先ほどまでの剣を携えた凛々しさはどこへいったのか、今のジェニファーは愛を乞う子どものように脆く、愛おしかった。

「ジェン」キャサリーンは優しく名前を呼んだ。「月の魔力の所為にしてしまいましょう」

「いいの?」

「ジェンとなら、ね」

 それを聞き、ジェニファーは誘うようにそっと瞼を閉じた。

 二人の唇が再び重なる。今度は先ほどよりも深く、刻みつけるような口づけだった。甘い香りが神経の奥まで入り込み、氷が市のように触れれば溶ける柔らかな感触。キャサリーンは、重なり合う吐息の中で、自身の鼓動を一つ、二つと数えていく。

 やがて、いくつか数えた時、どちらからともなく唇は離された。

 吐息を震わせ、潤んだ瞳でお互いに見つめ合う。そこに残されたのは、僅かな背徳感と、それを上回る渇望だけだった。

 ――もう一度。

 どちらからともなく、濡れた唇は再び彷徨い、名残を求め、触れ合った。

 ジェニファーの熱を帯びた手のひらがキャサリーンの頬を包み込み、その間に再び唇を落とされた。啄むような接吻を重ね合わせると、唇から伝わる僅かな震えが、心地よさを感じさせる。そして、再びの口付け。次はジェニファーからキャサリーンの唇を塞いだ。一度、二度――お互いに見つめ合い、唇を求めて静かに触れ合わせる。静寂に満ちた庭園で、ただ月光だけが、重なり合う二人の影を見下ろしていた。


「淑女失格かしら」そう言ったジェニファーの表情は、まるで悪戯を仕掛けた子供の様に、どこか無邪気そうな楽しみが湛えられていた。

「そうだとしても、見ているのはお月様だけだわ」キャサリーンがくすりと笑った。

ジェニファーも同じ笑顔で返した。「では、私たちとお月様だけの――秘密の時間、ですね」

 

 ジェニファーは何時になく歩を急いでいた。キャサリーンに会えると考えると、それだけで意図せず身体が動き出すような心地だった。時折自分の唇に指の腹を当て、キャサリーンと交わした口付けの感触を思い出していた。貴族らしからぬ仕草だが、その様な体面よりもキャサリーンとの思い出に浸る方が正しかった。

 ジェニファーは頭の中に、オルドヴィアの歴史に名を刻んだ、孤独だが、気高く生きた先達たちの名前を並べていく。ジェニファーの両親は結婚について煩く口を出してくるわけではないのだが、いつまでもそうとは限らないと彼女は案じていた。お見合いを強行された時に備えて、いくつかの()()を用意しているのだ。


 同じころ、フェザーストーンの屋騎士で、キャサリーンは先日の破婚の最後の話し合いをするため、父と共にリチャードソン親子の来訪を受け入れていた。

 再び正式に話し合うため、お互いの父親を――フェザーストーン男爵とリチャードソン卿を――交えて、顔を合わせていた。キャサリーンとフェザーストーン男爵の親子は破婚の意思が固く、リチャードソン親子の方でも同様かと思われた。リチャードソン公は息子の不出来をひたすら謝罪していたが、マイルスは話し合いの最中一言も声を発さず、何度もリチャードソン卿に怒鳴られていた。リチャードソン卿としては、是非婚姻させたいと思っていたものであり、最後に一度2人きりで話し合い、それでも少しも心が動かなければ破婚を認める、という旨の提案をした。

 フェザーストーン親子は当然、話にならぬと断り、その席を立とうとしたが、リチャードソン卿もそこは譲らず、必死で頼み込んだ。それでも断り続けたフェザーストーン男爵だったが、我が家よりも高い家格を持つ者に頭まで下げられ、ついには居た堪れなくなり、次第に了承してしまった。それが――


 2人が別れて数刻後、辺りに響いたのは耳を劈くような金切り声だった。

「ケイティ!」フェザーストーン男爵が愛娘の名を叫び、駆け出した。

 後に続くリチャードソン卿と共に、2人のいたはずだった庭園に付けば、そこには、人の身体から流れ出たとは思えないくらいに鮮やかな朱で染まったキャサリーンが倒れていた。傍らに立つマイルスの右手には剣が握られており、刃は赤に濡れていた。

 男爵は再び名前を叫んで、キャサリーンの傍へと駆け寄った。父親の腕に抱かれながら再び動くことのない、眠っているかのように見える冷たい身体は、男爵がいつも見ている姿そのものだった。桃色に結ばれた唇も、今からでも「お父様」と、言葉を紡ぎだすのではないか――しかし、それはもはや空気を震わすことも叶わない。まるでキャサリーンの魂が、赤い血と共に流れ落ちていったかのようだった。

 リチャードソン卿は信じられないようなものを見るような目でその様子を見ていた。彼も当然この様な事態は予見していなかった。息子の狂気がここまで深いものだとは想像もしていなかった。剣を手にしたまま返り血に濡れている息子の姿を認めると、そこで矢庭に意識を取り戻し、騒ぎを聞きつけて集った衛兵と騎士達にマイルスを捕縛するように命じた。

「馬鹿な女だ! 私を見下すからこうなるのだ!」そう狂ったように笑い、辺りの視線に構うこともなく、マイルスは尚もけたたましい笑い声を上げ続けた。誰しもが、決して正気ではないと確信できるほどに異様な様子だった。重い足音と甲冑を鳴らしながら衛兵たちと、騎士が一人なだれ込んだ。現場の様子を確認するや否や、騎士が抜剣し、マイルスの捕縛を命じた。まだ浮き足立つ現場のさなか、マイルスは動いた。その愚かな性根と、享楽的な生活とは裏腹に、その速度は速かった。真っ先に踏み込んできた衛兵の喉笛を一閃すると、返す刀で隣の男の腕を跳ね飛ばした。

 マイルスはこれまでにあらゆるものを捨ててきた。幼いころに学問は肌に合わぬと捨て、婚約者も、ついには気位も家名さえも捨てた彼だったが、その身に刻まれた剣の才能だけは決して手放さず、この状況において更なる冴えを見せた。相対する騎士の一瞬の隙をついて、その剣を受け流すと、再び地面を駆け、庭園の深い茂みの中へと突っ込んでいった。

 互いの父親の叫ぶような声を背に、マイルスはその場から逃走した。


 数刻後――

 フェザーストーン邸の門をくぐったジェニファーを待っていたのは、祝祭の続きではなく、死の臭いが立ち込める静寂と、獣のような男爵の慟哭だった。つい先日、二人で過ごした月光の下で銀色に輝いていた庭園が、今や見るに堪えない朱色に塗りつぶされていた。柳の葉が立てる「さあさあ」と泣く音さえ、今は不吉で残酷な音に聞こえた。

 行くべきではないと心の奥底に浮かんでくるのを押し殺し、ゆっくりと歩を進める。乱れる呼吸の中、彼女は騒乱の中心を見た。横たわるひと際赤く染まった肢体を。動かなくなった、よく知る顔を。

「嘘よ」ジェニファーの喉から、かろうじて掠れた声が漏れ出る。

 指先が冷たくなっているのを自覚する。あの時、触れ合い、熱を分け合った身体は完全に冷え切っていた。

 渦巻くのは様々な疑問と、後悔だった。キャサリーンの騎士になるなどと放言して、守れなかった己への慙愧の念も。あらゆる感情を涙として流したのち、声にならない声で泣いた。


 ジェニファーは、僅か数日前に知り合ったキャサリーンと出会う前の自分がどのようにあったか、よく思い出せないでいた。普通に生きて普通に過ごしていた自分が、まるで信じられなかった。自分の姿を見せたい相手は既にいない。

 最も大事な部分を、そのまま失くしたかのように、何を想えばいいのかわからなかった。

 身を焼くほどに怒れば良いのか。それとも裂くほどに嘆き悲しめば良いのか。

 ただ、自分で知るよりもキャサリーンを大切に思っていたのだと、否が応でも思い知らされるばかりで、その先へと感情が進むことはなかった。

 慟哭に身を任せ、ただひたすらに涙が枯れるまで潸然と泣き腫らすことができればどれ程良かったろうか。しかし、泣きたいと思っても涙は出ず、ただ虚無感だけがその身を支配した。ただ空虚に、それまでの人生までも失ってしまったかのような喪失感が身を責め苛んだ。

 キャサリーンを一つずつ知っていくことに幸せを見出していたこと、泣こうが、怒ろうが、再びキャサリーンに会うことは叶わず――あの月光の下で語り合うことも、もうないのだという事実が、ひたすらにジェニファーを空しくさせた。


 それから数日、ジェニファーは実家に引きこもると、ただ徒に毎日を過ごした。何をしても、しなくとも、時間がジェニファーの空虚を埋めることはなかった。

 ある日、白波の騎士団がマイルスの捜索をしているという話を侍女にされた。そして、ジェニファーの父、ショーンがフェザーストーン男爵と共にその捜索に協力していることも。それを聞き、ジェニファーは悩んだ。もちろん、それに参加し、自らの手でマイルスを討ちたいという気持ちはあった。しかし、マイルスを殺したところで、キャサリーンが生き返るわけでもない。もしキャサリーンが返ってくるのならば、何度だろうとマイルスを討ち、仮にリチャードソン家を滅門にすることとなっても厭わないという気持ちだった。だが現実はそうではない。何をしても、キャサリーンは二度と帰ってこない――それが、ジェニファーをより一層空虚にさせた。


 ジェニファーは騎士団にも顔を出さず、自室に籠り、1人で何をするわけでもなく、ただ無為のままに過ごした。そうするしかなかった。キャサリーンと出会う以前の自分を忘れてしまったので、他に何も出来なかった。

 ジェニファーが自室の窓際で月を眺めていると、父ショーンと、フェザーストーン男爵が揃って玄関口の広間へと入っていくのが見えた。何を話しているのかは聞こえなかったが、フェザーストーン男爵は項垂れた様子を見せていた。捜索は難航しているのだろう。その面持ちには娘を失った父親の悲哀が感じられた。

 ジェニファーが侍女から聞いた話では、マイルスは国境を越えたと思われており、他国領に逃げられては大々的な捜索も難しく袋小路の様相を呈しているのだという。

 ショーンがフェザーストーン男爵を慰めているのが見える。ジェニファーがその様子をぼうっと眺めていると、ふと、暗闇だったはずの外が妙に明るいことに気が付いた。

 ――綺麗な月。ケイティが好きだった。

 格子状に切り取られた月は、それでもその美しさを十分に表現していた。

 かつては――キャサリーンが隣にいるときは――ジェニファーも月を見上げては、その美しさに心を揺り動かされていたものだった。

 ――しかし、今は。

 自分の心がこんなにも乾ききったものであると否が応でも自覚してしまうのみだった。

「ケイティ」ジェニファーはかつての記憶を想起しながら、想いを馳せていた者の名を呟いた。その小さな呟きは果たして誰にも拾われることもなく、空気と消えた。

 寡黙に浮かび続ける月が、ジェニファーに見つめられるまま風に揺られる叢雲に身を隠した。

 ――愛していたのよ、彼女を。

 宝石を触れるような手で優しく私に触れる指先が好きだった。天鵞毛よりも滑らかな肌が好きだった。影を落とす長いまつ毛が、その下に深い碧が煌めいている瞳が好きだった。ゆるく波を描く髪が、優しく私を呼ぶ声が――

 かつて諦めていた恋愛というもの――ジェニファーにとって、恋心など自分とは縁遠いものだった。彼女自身もさして必要と思わず、なくとも生きていけるものだったはずだった。しかし、キャサリーンと出会ってから、彼女を想っていたその気持ちが恋心だと自覚してから、それはどうしても手放せないものになっていた。出会ってから、実際に逢瀬を交わした時間はそう長くはない。しかし、既に出会う以前の自分に戻ることも叶わない。キャサリーンが存在しなかった、以前の日常は、ジェニファーにとって、最早考えられないものとなっていた。

 ――愛する人の仇も取らずに、何の為に私は剣を学んでいたの?

 静かに自問する。きっと、この先も以前には戻れないと自覚しながら。


 ジェニファーは気が付けば、部屋を飛び出していた。部屋用の薄いドレスのまま、冷たい廊下を駆ける足音も気に留めない。彼女はノックもなしに応接室の扉を押し開ける、驚き目を見張る父と男爵の前に立った。

「わたくしにやらせてくださいませ」ぴん、と張り詰めた弦を弾くような声が響いた。

「ジェニファー?」ショーンが椅子から立ち上がり、呆然と愛娘の名を呼んだ。

「マイルスを確実に討てるのは、秘剣を賜ったわたくしだけです」ジェニファーが言った。滔々と。「騎士団にも、わたくし以上の適任者はおりません」

「しかし、レディ」やつれた顔でフェザーストーン男爵が気遣うように言った。「娘の親友に、そのようなちな血生臭いことは」

「お願いいたします」ジェニファーは深く頭を下げ、男爵の言葉を遮った。「ケイティの仇を、わたくしに討たせてくださいませ」

「頭をあげてください、レディ・ジェニファー」男爵は少しの間黙って、頷いた。「確かに、あなたより相応しい者はいないのかもしれません」

「では」

「わたくしの代わりに、娘の無念を晴らしてください」

「ありがとうございます」ジェニファーが再び頭を下げて言った。

「ジェニファー、本当に……できるのか?」ショーンが心配そうな視線を娘に向けた。

 彼女はその問に言葉ではなく、代わりに静かで重い頷きを返した。その瞳にはかつて月光を愛でていた柔らかさは消え、再び鋼の力強さが宿っていた。

 愛娘のその様子を見て、ショーンは安心したような、あるいは諦めたような、様子を見せた。

「今しがた、マイルスは国境を越え、隣国アイアンフェルの古びた廃砦に潜伏しているとの情報をつかんだ」ショーンはそういうと、家令に視線で合図を出した。「案内人を出そう。ほかに必要なものは?」

「見届け人代わりに、何人か騎士を」ジェニファーが答えた。「多くは必要ありません」

 ショーンはそれ以上は何も言わず、コノリー家の中でも指折りの精鋭三名を手配した。


 ジェニファーは一度自室に戻ると、部屋用のドレスを脱ぎ捨て、白銀の装飾の施された戦装束へと着替えた。もっとも着慣れた、白波の騎士団の制服に。

 そして、大事にしまってあった剣を――アリアンロッドを――手に取った。華美な装飾があしらわれた鍔は見た目にも美しい剣――しかし、見た目だけでなく、よく研がれており、よく切れる、業物であった。彼女が決して伊達や腰かけだけでなく、真摯に剣の道を歩んでいること知っていて、また、飾りだけではない実質を重んじるキャサリーンの想いを体現したかのような剣だった。

 そして、ジェニファー自身もまた、己の鍛錬を怠ったつもりはなかった。いずれ嫁に行くのだからと親に止められたことも少なくはない。それでも彼女にとって、剣は最も信頼できるものの一つであった。


 ジェニファーは馬を走らせながら、頭の中ではマイルスと討ち合った記憶を想起していた。マイルスは、斯様に性質としては信ずるに値しない人格であるが、それを抜きにして、剣の腕だけは確かに見事なものだった。正面からの討ち合いになれば、ジェニファーも敵わないほどに。先導する騎士の後姿を見詰めながら、自分の剣術について思いを馳せた。

 日が没してから幾らか経っている刻に差し迫っていたが、不思議と夜道はそう暗くはなかった。暗闇を照らし、道行く人々を先導する――月の光は十分にその役割を果たしていた。

 しばらく走ったところ、マイルスが潜伏している古い砦へと辿り着いた。もう何年も前に使われなくなり、朽ち果てた砦だった。ジェニファーはその中で、一応は形を保っている小屋を見つけた。ぼろい小屋だった。リチャードソン家の動物小屋よりも粗末とも思えるほどに。おそらくは番小屋か何かとして使われていたものなのだろう。それまで華美な暮らしをしてきたマイルスにとって、この様はとても我慢できるものでは無いはずだった。

 ジェニファーは騎士達に周辺を包囲させると、愛馬を降り、静かに歩を進めた。一歩、また一歩と朽ち果てた石畳を踏みしめるたび、腰に帯びたアリアンロッドが熱を帯びた気がした。

 扉を蹴破った衝撃に、番小屋で古い埃が舞い上がる。湿っぽい薄暗闇の中で、マイルスもまた抜身を携えており、獣のように目をぎらつかせていた。

「お前か」マイルスが舌打ちをしてから言った。

「外へ出てください。ここでは狭いでしょう」ジェニファーの口調は、彼女自身でも驚くほどに凪いだものだった。

「賢しい女が」マイルスが歩を進め、忌々しげに言った。「秘剣を授けられたからと、なんだと言う!」

 ジェニファーはそれには答えなかった。何も言わず、ただマイルスが小屋から出てくるのを待った。もはや、マイルスが何を言おうが、その心を微かにでも揺らされることなど能わなかった。言葉を交わす代わりに、月に抱かれながらそっと剣を青眼に構えた。


「あの闇夜に映える玉輪こそ、あなたの引導代わりです」静かに、じっとマイルスを見つめながらジェニファーは言った。

 マイルスはにわかに気色ばみ、怒声と共に剣を振るった。

 その鋭い一撃を、ジェニファーは剣で受けた。激しい痺れが骨まで伝い、押し返そうにも、マイルスはそれ以上の力でさらに押し打った。

 マイルスの筋は正に剛毅の剣だった。ジェニファーにとっては凌ぐだけが精々の防戦一方となった。鉄が鉄を打つ音が力強く響き、それが周囲に控えている騎士たちを不安にさせた。一方的に押され、返す糸口もなく、精々受け流すのが精いっぱいのジェニファーに対し、マイルスは己の優位を感じ取ったか、揚々と構えを上段に移した。苛烈さを増す打ち込みをひたすら耐えるように足を送るジェニファーだったが、やがて、その足の運びが少しずつ奇妙なものへと変わっていった。それを激しい打ち込みによる疲弊と捉えたマイルスは、確かにその動きの中に隙を見た。ジェニファーの足は次第に地面で円を描くように揺らいできている。マイルスは討ち合いの終わりを確信すると、無防備に見える面を目掛け、上段から剣を振り下ろした。

 ――しかし、果たして、マイルスが刃越しに感じた感触は肉を断つものではなく、霞を斬ったような虚無だった。確かに取ったと思ったジェニファーの面もそこにはなく、打ち下ろした刀の後方でジェニファーが構えを上げているのが見えた。奇妙にも見えた変幻の足捌きは、見事にマイルスの認識を狂わせていた。

 ジェニファーはその隙を逃さず、ひらり、と一息に敵の懐まで入った。そして、流れるように刃を振るうと、白刃に月が煌めいた。頸部に入ったアリアンロッドの先端は、その傲慢な生命を吹き消すに、あまりに鋭く、あまりに静かな一閃だった。マイルスが最後に見たものは、月を背負うジェニファーだった。


 水面に映る月の如く、実体を掴ませぬ剣。それこそが秘剣水月の極意だった。

 それまでの応酬を見守っていた騎士達は、マイルスが倒れた後も声を出せずにいた。

 目の前の、まだ少女と言える年頃の娘が振るう剣はあまりにも美しく、そして強かだった。それぞれが畏敬と憧憬の入り混じった目をジェニファーに向け、ただ時が過ぎるのを待った。

「後のことは、お願いいたします」

 その事務的で淡々とした声で現実に引き戻された騎士たちは、急いで後処理を始めた。

 ジェニファーは己の手の中の剣を見た。キャサリーンの形見となってしまった剣を。二人でアリアンロッドと名付けた剣。朱色に染まったそれを汚れることも厭わず自身の制服で入念に拭き取る様子を、騎士の一人がいたわし気に見つめていたが、やがてジェニファーがそれを鞘へと収めた。

 すでに不帰となった死屍には一瞥も与えず、護衛も拒み、彼女は独り、夜の闇へと歩み去った。


 ジェニファーは自分でも意図せずしてか、墓地まで来ていた。そこはキャサリーンの眠る場所だった。縋るように、そっと墓石を撫でた。

 月明かりの中、手向けに花を供えると、ジェニファーの目からは抑えようがなく涙が溢れてきた。


 オワリ

・ホワイトウィック王国

 オルドヴィア大陸にある7つの王国のうちのひとつで、ホワイトウィックは王都より北に遠く離れた辺境にあり、代々クリスティ家によって統治されてきました。領地の大きさこそ諸王国に勝りますが、北部は銀髪海と呼ばれる海に面し、他方は山に囲まれた、半ば"陸の孤島"と貸しています。

この王国最大の特徴として、剣術を単なる技術や戦いの術としてだけでなく、心身を鍛える修行、人間形成のための"道"とみなし、それが文化として根付いています。

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