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悪役令嬢ですが、婚約破棄の“保険”で王都を黒字化します  作者: 妙原奇天


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第6話「黒塗りの次の頁」

 朝は刃、昼は秤、夜は紙。

 王都の掲示板に赤い紐が一本増えて、〈裏の倉・仮差押え〉の札が風に揺れた。紐の色は、血の色ではない。手順の色だ。私は扇を閉じ、掲示板の前で笑顔の角度を二度だけ深くした。安堵を見せすぎると、ほころびが増える。


「油屋、西門の外で足を滑らせた」

 リヒトが歩み寄る。外套に朝の冷気が縫い付いている。

「運河下の水抜き槽から出て、湿地に踏み込んだ。荷は捨てている。金の筋は——伯爵家へ伸びる」

「貸付金庫の裏口ね」

「三重登記の三つ目。——聴聞の手順に入る」

 彼は視線だけで問う。

「来るか?」

「もちろん。梯子は見届けるために立てるものですもの」


 ——伯爵家の応接。

 窓は広いのに、空気は狭い。黒檀の長机の向こうに、伯爵家代理の家令が座り、左右に法務顧問と会計人。

 リヒトは必要最低限の礼を尽くし、私は扇を机に置いた。笑顔の角度は三度浅く。

「仮差押えの通知は受領済みだ」

 家令の声はよく研がれている。

「しかし当家は保管のみ。油屋の逃亡は遺憾だが、求償の梯子を家門へ立てるのは過剰だ」

「梯子は過剰だと高い所しか届きませんの」

 私は求償の車輪の頁を開く。

「保管には注意義務が伴う。鍵管理簿、巡回記録、異常通知。油屋の過積を見逃していれば、外形は二つ揃う」

 法務顧問が眉を寄せる。「未必の重過失を言いたいのだろうが——」

「いいえ。ここで問うのは過失以前の手順。巡回は何刻ごと? 鍵は誰の指に?」

 会計人が帳面をめくり、緩慢に答える。「週に二度。鍵は家令の保管箱」

「週二」

 チーノが小さく繰り返し、持参の注意義務表の該当欄に印を置く。

「可燃物保管の最低基準は日次。週二は不足。——外形一」

 私は扇で机の端をとん、と叩く。

「異常通知は?」

 家令の目が僅かに泳ぐ。「油の匂いは——感じていた。増えたとも。だが納期が重なって——」

「重なりは言い訳に向く単語。通知に置き換えると誇りになります」

 私は通知簿の提出を求め、白紙の頁を見つけてそっと閉じた。

「外形二。回収手続開始。——ただし帰順減免は開いておく。協力の度合いで軽くなる」

 家令の眼差しが硬く、やがて折れる。

「協力しよう」

「資料提供を。油屋への貸付の出納、紹介者、手数料」

 会計人が “紹介者”の所で筆を止め、視線がわずかに右へ。

 右隣、法務顧問の胸元。そこに、小さな王室徽章のピンが光った。

 冷気が、室内にひとすじ通る。

「——王太子室の顧問?」

 リヒトが声を落とす。

 法務顧問は微笑を直線にして、深く一礼した。

「兼任です」

 兼任という語は便利だ。境界を曖昧にする。曖昧はだいたい温度が高い。私はミントを舌で転がし、氷室の空気を思い出す。

「兼任のままでは、待機が要りますの」

「待機?」

「風説冷却の第一段。四十八時間、あなたは王子にも伯爵家にも助言しない。照合はこちらで。訂正の必要が生じたら——そのときに」

 法務顧問はしばし逡巡し、徽章を外して懐に入れた。

「四十八時間」

「承りました」


 応接を出ると、回廊の窓辺にラモナがいた。蜂蜜は控えめ。

「二役のピン、見たわね」

「見ました」

「記事にできるわ」

「待機を置きましょう」

 ラモナは肩をすくめた。「冷蔵庫の時代ね」

「氷室の時代でもあります」

「砂糖は固まるけれど?」

「舌が守られますの」


 ——王都広場。

 午後の鐘が二つ鳴った頃、王太子の会見が再開された。私信取扱い指針に基づく第二回。

 王太子は以前より紙を見た。顔でなく紙を見ることは、責任の最初の練習。

「……本件につき、私の未熟がありました」

 短い。けれど黒塗りの向こうの一行と同じ語が入っていた。

 未熟。

 会場のざわめきが、拍に変わる。拍は、罵倒より手順に近い音だ。

 質問が飛ぶ。「破棄の正当事由は?」

 王太子は目線を上げ、まっすぐに答えた。

「疎明できません」

 会見場の空気が、一段冷えた。誰も凍えなかった。冷えは、熱の偏りを直す薬になる。

 私は配信の公開立会枠で、要件だけを字幕に起こす。感想は載せない。要件は人の心に、遅れて効く。


 会見が終わる直前、王太子は机上の紙を一枚だけ重ね直し、マイクにわずかに寄った。

「寮費基金に、私費を拠出します」

 額は控えめ。けれど手順に沿った形で、撤回権と用途限定の文言がついていた。

 私は画面越しに頷き、メイに小声で言う。

「黒塗りの次の頁に、小さな本心が活字になった」

「活字は長持ち」

「活字は責任に強い」


 ——夕刻。

 運河の浅瀬で、油屋が捕縛された。逃げ道が水だと、最後は冷える。

 留置の前に短い聴聞が設けられ、私は帰順減免の条文を持って立ち会う。

「資料を差し出し、協力すれば、減免がある」

 油屋は頬の泥を拭かずに、目だけ私に向けた。

「助けてくれるか」

「橋は、あなたの背には立てない」

 彼はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。

「鍵は伯爵家の保管箱。紹介者は、王子室の顧問。——手数料は一割」

 筋は足りた。梯子は、金庫に届く高さになった。


 ——夜。

 事務所では、メイが広報板に今日の三行を貼った。

〈本日の手順〉

・仮差押え実行/裏の倉の鍵は赤紐に。

・王太子会見:疎明不能の明言/寮費基金へ私費拠出。

・油屋帰順:紹介者と鍵の所在の供述。

「三行は安心の単位」

 私は頷き、チーノの机に身を寄せる。

「引受余力は?」

「一・四八倍。寮費基金への拠出で、庶民プランの枠を二割拡張できる。求償の回収見込みは七割」

「睡眠の見込みは?」

「四割」

「仮眠条項を発動しますわ」

 メイが笑い、湯気の立つプリンを皿に移す。

「冷蔵庫から出したばかり」

「氷室では?」

「広告が嫌うので」

 三人で笑って、三口だけ甘い時間を食べた。甘さは刃を丸くする。丸くした刃は、朝にまた研げばいい。


 配信の反論窓口に、王太子室から短い連絡が入った。


『本日の会見で用いた表現に不備があれば、訂正の場を設けたい』

 私は即座に返す。

『四十八時間の待機を置き、照合ののち公開訂正の段を』

 冷蔵庫の扉は、多くの人が扱える高さにしておく。特権の棚は高すぎる。届かない人が落として割る。


 ——深夜。

 机の上に**『約款の約款』の束。第五章の余白に、一行を加える。

『冷却と訂正は敵対ではなく共同である。勇気の節約のために置く』**

 勇気は資源だ。怒りは燃えるが、勇気は燃やしすぎると足りなくなる。訂正の手順は、勇気を節約する。


 窓を叩く音。魔鳥が足に小さな札を結わえて戻った。

 開くと、ラモナの短文。

《冷蔵庫、効く。明朝、手順連載の第二回**。黒塗りの意味を、生活の例で》**

 私は「承りました」と書いて戻し、扇を閉じた。


 ——眠りの前。

 ミナが机の端で針山を撫でている。

「工房、明日から仮復旧です」

「三杯半ね」

「……二杯半で我慢します」

「我慢は手順の前提じゃありませんの。欲は見積に入れる」

 ミナはふっと笑い、背伸びをした。

「王子、ちょっとよかったです」

「未熟の言葉?」

「はい。黒塗りより生きてる感じ」

 私は頷き、紙の角を親指で整えた。

「活字になった本心は、責任に変わる。——恋も契約も、同じ温度に近づくと、人が楽になる」

「こわやさしい」

「やさこわい、くらいで」

 窓の外で夜警笛が一度鳴り、止んだ。風説は今日、冷えを覚えた。火は梯子で囲われた。橋の向こう側に、明日がいる。


 私は笑顔の角度を一度深くし、明朝の刃に手を伸ばす。

 紙は夜に乾く。刃は朝に研げる。

 そしてその間に、誰かのご飯は——三杯から三杯半へ。


———次回予告———

第7話「橋の先の朝—寮費基金と三本の梯子」

 伯爵家の協力が半歩、王子室は待機に。求償の車輪は金庫に噛み、寮費基金は申請殺到。三本の梯子(保管者・供給者・融資元)に軋みが走り、相互扶助の分配会議で美談が骨になる。——そして、王太子が四十八時間を明けて訂正の場に現れる。恋と言い、責任と書く、その書式の形。

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