第5話「火の後で――求償の車輪」
朝の刃はよく研げた。
私は扇を閉じ、机の上の素案に黒い帯を引く。見出しは簡潔に——
『求償の車輪(第一次案)』
一、差押えの順番/二、連座の範囲/三、逃亡時の代替財(供給者・融資元・保管者)/四、帰順時の減免。
紙は夜のうちに乾き、角はすこし上を向いている。上を向く紙は、押さえればよく働く。
「王弟殿下へ、朝一で持っていく」
リヒトが外套の襟を正し、素案を受け取った。
「油屋は、城外の運河倉へ抜けた可能性が高い。荷車の車輪痕が、裏の倉の前で消える」
「消える輪は、記録で追う」
「もう一つ」
彼は声を落とす。
「融資元に、宮廷の縁故が絡んでいる」
「梯子は、高いほど長く、軋む音も大きいですわ」
彼は短く頷き、出て行った。扉が閉まると、メイが両手を腰に当てる。
「レティ、朝ごはん」
「うちの相互扶助は、胃袋から」
湯気の向こうで、ミナが照れ笑いした。
「四杯目は、まだ無理です」
「では今日は二杯半。統計は、階段を一段ずつ上がりますの」
——王弟殿下執務室。
石の壁に、朝の光が薄く差す。殿下は文机に手を置き、私の素案を黙って読んだ。指が一度だけ、章の境目を叩く。
「順番から始めるのは良い」
声は乾いて、温かい。
「被害者の生活を先行させ、加害側の財に梯子をかける。逃亡時の代替財として、供給者・融資元・保管者を挙げたのは大胆だが——秩序は大胆を必要とする瞬間がある」
殿下はリヒトに目を向ける。
「裏の倉の所有権は?」
「三重登記。表は匿名組合。裏で油屋と、さらに裏で伯爵家の貸付金庫」
殿下は息を短く吐いた。
「梯子が三本必要だな。——レティシア嬢、君の冗談は好きではないが、書式は好きだ」
「冗談も書式にすると、わりと安全ですわ」
殿下の目尻に、砂粒ほどの笑いが浮かぶ。
「求償の車輪、試行二十日。裏の倉、仮差押え。融資元には聴聞。帰順減免は半分から始めて、協力度で変動」
「承りました」
私が扇を軽く倒すと、リヒトが耳打ちした。
「蜂蜜が手順記事に転向した。『火災のあとにやるべき七つのこと』」
「七つは、心が覚えやすい個数」
「八にすると?」
「縁起が良すぎて油断しますの」
——運河沿い。
裏の倉は、昼でも夜みたいに暗かった。扉に残る油の匂いは、鼻に甘い。蜂蜜ではない甘さ。
門番の時刻印、荷車の受領札、運河通行の水門記録。筋は思ったより静かに揃う。
「車輪痕、ここで急に細くなる」
チーノがしゃがみ込み、指で石をなぞる。
「荷を降ろして身軽になった痕跡。抜け道は、運河下の水抜き槽」
「逃げ道に水を使うの、嫌いじゃない」
私が言うと、メイが首を傾げた。
「冷却ですか?」
「ええ。熱は水で落ちる」
私は扇を半分開き、倉の壁に貼られた古い掲示に目を止めた。
《倉庫の保管者は、保管物の危険に対して相応の注意を払うものとする》
古い保管約款の一節だ。すり減っているが、読める。
「保管者も、梯子に含まれる」
「三本目の梯子、発見」
チーノが立ち上がる。
「保管者責任で攻めるには、注意義務の外形が欲しい」
「巡回記録、鍵の管理簿、火除けのお札の更新印」
私は扇で指折り、メイが走り書きをする。
「油屋本人は?」
「運河の浅瀬で、荷を捨て、西門へ」
リヒトが外套の内側から粗末な紙片を出した。
「密偵の報。だが——」
紙片の端に黒塗り。情報源の保護。氷室の匂い。
「——追うべきは、人より金」
私は紙片を扇に挟み、微笑んだ。
「金の通り道は黒塗りにならない」
午後。
王都融資組合の事務室は、蜂蜜の瓶のように整頓されていた。
帳簿は背表紙の色で年代が分かれ、書字は書式に従って真っ直ぐだ。
受付に扇を置いて名乗ると、組合書記は驚くほど速く会釈をし、驚くほど遅く言った。
「聴聞の準備は、承っております」
会議室。融資元代理の男は、髭に糊を利かせ、口に砂を含んだみたいな声で言う。
「裏の倉の登記に当組合の貸付金庫が関与しているのは事実。だが、逃亡は借り手の意思であり、当組合に求償される筋合いは薄い」
「薄いは、ゼロではありません」
私は笑顔の角度を五度落として、紙を一枚出す。
『求償の車輪:代替財手順』
「貸付金庫は保管者でもある。鍵管理、巡回、異常通知。油屋の過積を見逃したなら、注意義務違反の外形が立つ。梯子は、あなたの金庫にも立ちます」
男の眉が、糊の下で僅かに動いた。
「協力した場合?」
「帰順減免。半分から始めて、資料提供と回収協力で減らす」
私は扇の骨を鳴らし、横に風説冷却手順も置いた。
「世間は騒ぐでしょう。——待機、照合、訂正。四十八時間で温度を落とします。あなたがたの名誉は、手順で守る」
男はしばらく黙って、指で机の木目を数え、やがて短く頷いた。
「協力しよう」
協力は、いつも一語だ。長い協力は、手順に換算される。
廊下に出ると、メイが小さく跳ねた。
「手順記事、評判いいです。蜂蜜のコメント欄、“冷蔵庫助かった”が流行語に」
「冷蔵庫が流行?」
「はい。“熱い鍋は置いて、蓋をして待つ”が刺さったみたいです」
私は笑った。可笑しさは、秩序を続ける燃料だ。
「では次は氷室の比喩を——冬まで取っておきましょう」
——夕刻。
下町の炊き出しは、湯気と笑いで満ちていた。仮払いで買った炊き出し米は、鍋の底を見せる暇がない。
ミナが器を抱え、数える。
「一杯、二杯、二杯半、三杯……」
「三杯目」
メイが親指を立てる。
「備考欄に**『三杯』と記載」
チーノが真顔で書き込み、皆が笑った。
笑いの隅で、私は黒塗りの手紙を広げた。王太子側が指針に従って公開した私信だ。公益性に関わる行数だけが見え、愛や嘆きは黒で覆われている。
その隙間**に、一行だけ残っていた。
「君の自由に、私の未熟が追いつかなかった」
私は紙を畳み、扇の内側にしまった。
骨に触れると、温度が変わる。恋の温度ではない。責任の温度だ。
そのとき、王都掲示板に黒地の札が新たに灯った。
《裏の倉、仮差押え》
《油屋の資金移動、融資組合が協力**》**
《求償の車輪、試行開始》
人々のざわめきは、今度は熱ではなく拍になった。拍は歩調を揃える。歩調が揃えば、転ぶ人が減る。
夜。
私は机に戻り、帰順減免の条文に小さな余白を残した。
『帰順とは、“逃げる足”を戻す手順である』
戻るには、道が要る。道には、標識が要る。標識は、紙でできる。
扉が控えめに叩かれた。
「ラモナです」
蜂蜜は今日は最小限。彼女は椅子に腰掛け、罫線の入ったノートを出した。
「連載を手順に切り替えた。炎上は、冷蔵庫に弱い」
「冷蔵庫は広告にも優しい」
「そう。解凍のタイミングが測れるから」
彼女はノートを閉じ、視線で扇を示した。
「王子の手紙、読んだ?」
「黒塗りの隙間を」
「隙間に人柄は出る。あなたの**“こわやさしい”の隙間にも、優しさが出る」
「優しさは条文**にすると長持ちしますの」
ラモナは微笑し、立ち上がった。
「甘いもの、ある?」
「プリン。冷蔵庫に」
「氷室じゃないのね」
「広告が嫌うので」
彼女は小さく吹き出し、帰った。背中がほんの少し軽く見えた。
——深夜。
求償の車輪は、紙の上でゆっくり回り始めた。
差押えの順番は、保管者→供給者→融資元。被害者は常に外側。
連座は、故意と重過失に限定。軽過失は教育へ回す。再発防止講を相互扶助で持つ。
帰順は、資料提供と損害回復への実働で減免。逃げ続ける足には、梯子。戻る足には、橋。
私は最後の頁に、小さな詩のような一行を添えた。
——泣く人の数を、回転で減らす。
詩は、手順の隣で静かに生きる。飾りではない。呼吸だ。
ミントを噛むと、葉の苦味がすっと広がる。窓の外で、夜警の笛が二回、間を置いて鳴った。
メイが机に顔を伏せて眠り、チーノは算具に頬をくっつけている。仮眠条項は、実地に効いている。
私は扇を閉じ、笑顔の角度を一度浅くした。疲労は公平の副作用。副作用には対策。甘いものは冷蔵庫。紙は夜。刃は朝。
明朝、王弟殿下は求償の車輪を掲示し、裏の倉の鍵は仮差押えの赤い紐で縛られるだろう。油屋はまだ逃げる。金は逃げにくい。書式は逃げない。
そして、おそらく——王太子は、黒塗りの次の頁で、もう少し正直になる。
———次回予告———
第6話「黒塗りの次の頁」
裏の倉の鍵は赤紐に、求償の車輪は王都へ。油屋は西門の先で足を滑らせ、金の筋は伯爵家へ伸びる。黒塗りの次の頁に書かれた、小さな本心と、大きな責任。“こわやさしい”の隙間で、恋と契約が同じ温度になる瞬間が来る。




