第1話「婚約破棄は事故です——まずは仮払いから」
楽団が三拍遅れて黙った。
香の焔が揺れ、壁の鏡が人々の顔を幾枚にも複製する。王太子の声は装飾天井の金箔に弾かれて、会場の隅々まで均一に届いた。
「本日をもって、レティシア・エルノアとの婚約を破棄する!」
扇が止まり、誰かが嗤い、誰かがため息を飲み込む。私は階段の上段に立ったまま、掌の上で懐中時計を一度だけ跳ねさせた。秒針が九を指す。記録の合図。左手で魔導録音機の紐を引き、事故発生の刻を固定する。ここまでが事故発生の瞬間。
深呼吸。
「承りました」
自分の声が驚くほど落ち着いているのを、私自身が一番驚いていた。
「本件は〈婚約破棄包括補償〉約款第七条に基づく重大事故として受け付けます。被保険者レティシア・エルノア。事故時刻は今。仮払い七十二万クレドを請求いたします」
ざわめきは、最初の嗤いよりも粗い。誰もが知らない単語に反射して首が揺れる。——仮払い。
「な、何を言っている」
王太子の側に控える法務補佐官が青ざめて前へ出た。
「そのような契——」
「約定はここに」
私は扇の骨を二本、軽く引いた。骨の内に仕込んだ金具が音もなく解け、婚前契約書の原本が扇の中腹から滑り出す。封蝋には王室印。魔封印は私の指紋に反応して淡い青を返した。
「婚前契約は愛を縛るための縄ではなく、損失を有限にする枠ですの。愛は自由、損失は有限。これが文明ですわ」
私は宣言を終え、懐中時計を三短二長で跳ねさせる。社内コードで“重大事故・仮払い請求”。階段下、幼なじみの侍女サラが小さく頷いた。彼女の耳には事務所とを結ぶ極細の魔線が触れている。
「チーノ、起きてらして?」
扇で口元を隠し囁く。
『いつでも』
耳朶に若い数理官の声が落ちる。
『発生率一二%、重大事故判定。仮払い可能域七十〜八十万。支払い余力一・六倍。受付番号を』
「受付番号七・九・九・零。王太子の公開宣言、録音済み。外形要件は満たします——ええ、立証責任の転換を発動」
私は王太子に向き直った。笑顔の角度は四十五度。嘲笑を誘わず、弱さに見えない黄金比。
「ご安心ください、殿下。訴えられるのは、そちらですわ」
法務補佐官の顔から血の気が引く。楽団が一節だけ奏で、すぐ止む。音はもう社交のためではなく証拠になってしまったから。
——事務所に戻ったのは深夜。
旧い倉庫を改装した〈破棄保〉は、小さな箱だ。壁の事故件数ダッシュボードには魔石の光点が灯り、王都の嘆きが地図の上で瞬いている。
チーノは銀縁の丸眼鏡を押し上げ、発生確率・期待支払・引受余力の紙束を並べた。数字は冷たい。けれど冷たさは公平の別名。
「仮払いは朝までに行ける」
「告知は?」
「**“泣かない広報”**の出番」
メイが頷く。孤児院出の十六歳、うちの広報担当だ。私は渡しておいた短いコピーを指さす。
泣く暇があれば、請求書。
「殿下側が先に声明を出したら?」
「先手は数字。仮払い実行通知が灯れば、相手は攻めを一つ減らす。私は泣かない。請求するだけ」
窓外で夜警笛が遠く鳴る。
「ところでレティ」チーノが言う。「さっき階段の上で、よく笑ったな」
「笑顔は契約の油。摩擦は減り、刃の切れ味は増す」
「怖い比喩だ」
「可愛いと言ってくださる?」
咳払いで逃げられた。現実的な男である。
印章を押す音が小刻みに続く。赤い印泥が乾く前に、メイが掲示板送信用の魔鳥に札を結んだ。
「仮払い実行、送ります」
黒い羽が夜に溶け、紙片は王都の主要掲示板へ飛ぶ。これでざわめきは、こちらの都合で始まり、こちらの都合で収束する。
扉が二度、控えめに叩かれた。
「閉店よ」メイが言う。
それでも入ってきたのは、閉店に頓着しない顔の少女。布のエプロン、糸くずのついた指。
「夜分失礼します」
胸の小箱をぎゅっと抱きしめたまま、彼女は言った。
「駆け落ちの婚約破棄なんです。わたし、縫製工房の見習いで……相手は徴募に行くからって置き手紙を——」
チーノとメイが目を合わせる。
「庶民案件だ」
新聞にならない涙ほど、乾くのが早い。私は少女を中へ招いた。
「お名前は?」
「ミナ」
「ミナ。あなたの涙の価格を一緒に見積もりましょう。庶民プランは噂ではなく生活が基準。婚前にあなたが払った寮費・布地・工具……全部、数字に変える」
「でも、保険料なんて払ってなくて」
「相互扶助基金があります。寄付と、今夜の仮払いからの拠出で動く小さな車輪。私の“ざまぁ”は、あなたの晩ごはんにもなる」
メイが温いハーブティーを置く。
「殿下のこと、怒ってないんですか」ミナが問う。
「怒りは燃料にならないの。燃えるのは証拠と手順。泣きたい夜もあるけれど——泣く暇があれば、請求書」
メイが胸を張った。自分の台詞のように。
チーノは新しい帳面を開き、細い字で書き始める。“庶民案件—一次査定”。
「レティ、君の敵は誰だ」
「仕組みの欠陥」
即答だった。
「王子でも恋敵でもない。無過失を罰し、有責を逃がすルールこそ敵。だから私は約款を書く。世界の書式を書き換える」
メイの目が輝き、ミナがカップを強く握る。
そのとき、魔鳥が戻った。足の返書札には不格好な字。
《王太子側、明朝に記者会見》
「早いな」チーノが眉を上げる。
「予想どおり」私は微笑む。
「先に出るのは数字。どれほど麗しい言葉でも、支払われた現金には勝てませんわ」
扉がもう一度叩かれた。今度は節度ある二打。
「わっ」覗き穴を覗いたメイが小さく声を上げる。
「王弟殿下の執務官です」
「開けて」
黒い外套の男が立っていた。冷たい目が室内をひと撫でして、まっすぐ私へ。
「レティシア・エルノア嬢。王弟殿下の命により、〈破棄保〉の約款一式を提出願いたい」
「理由は?」
「王都秩序に影響する仕組みだからだ」
私は扇で口元を隠し、笑った。
「望むところ。秩序を守るとは、泣く人の数を減らすこと。条文でお話ししましょう」
男は僅かに口角を上げた。
「明朝、宮廷法務局で」
扉が閉まる。静寂。
私は引き出しから赤インクの小瓶を取り出す。
「準備を。第七条の解説資料、立証責任の転換の先例、仮払いの社会的費用。それから——」
「それから?」チーノが顔を上げる。
「笑顔の角度を三度、浅くする。宮廷は笑いを嫌うから」
メイが吹き出し、ミナがようやく笑った。夜はまだ長い。請求書は何枚でも書ける。
そして私は知っている。明朝、宮廷法務局の冷たい石畳の上で、最初の“ざまぁ”が合法的に響くことを。
――――――
次回予告:第2話「宮廷法務局、約款に敗る」
王弟派の執務官と条文討論。立証責任の転換に怯む官僚、噂で稼ぐゴシップ商会の介入。机上で火花を散らすのは、恋と契約。