第5話:君の匂い、僕の記憶
夜の薬房は静かだった。窓の外には月明かりが差し込み、棚に並ぶ薬罐が淡く光る。香袋の匂いを嗅ぎ分け、旧処方の痕跡を整理していると、心の奥に微かな違和感が芽生えた。誰かの意図、そして隠された真実――匂いは全てを語るが、完全ではない。
「杏……また香袋の匂いを嗅いでいるのか」
蔵六が静かに立っていた。いつも通りの穏やかな声だが、目は鋭く光る。
「はい。今回は、匂いだけでなく、記憶も呼び覚まされるような香りです」
香袋を鼻先に近づけると、鉄のような金属臭、甘い薬草の香り、そして微かに硝子の匂い――これらが、私の過去の記憶と重なる。禁忌の薬と関わったことのある過去――それは、私の嗅覚が匂いとして教えてくれたものだった。
夜遅く、私は瑠璃の部屋に向かう。香袋の成分と匂いの順序から導き出したのは、事件の核心――誰が香袋を置き、なぜ瑠璃に届いたのか、そしてその裏にある後宮の陰謀だ。
「杏様……どうして、分かるのですか?」
瑠璃はまだ不安げに布団の中で震えている。
「匂いは嘘をつかない。人も、薬も、香りも……全てを物語る」
私は香袋を手に取り、匂いの順序を改めて確認する。甘い香りが示すのは警告。鉄の匂いは危険を示す。古い薬の痕跡は過去の秘密を示す。そして、硝子の匂いは、誰かの記憶――つまり、この香袋を作った人物自身の意図が混ざっていることを告げていた。
「これは……師匠の……?」
蔵六は微笑むように頷いた。「いや、私ではない。この香袋を作ったのは、後宮の高位官吏。だが、意図は悪意ではない。瑠璃を守るための警告だ」
私は驚きと安堵が入り混じる。悪意ではなく、保護のための香袋――匂いは、警告者の心も示していたのだ。
「つまり、事件は陰謀ではなく、保護のための策だったのですね」
「そうだ。しかし、瑠璃が知らなければ、警告は危険になる」
蔵六の言葉に、私は納得する。香袋の意図を理解できる者がいなければ、香りはただの毒や恐怖となる。
夜が深まる。私は瑠璃に薬を手渡し、匂いを嗅ぎ分けながら説明する。警告を受け取ったのは、瑠璃自身が狙われていたからではなく、後宮内での権力争いから彼女を守るためだということ。匂いは警告であり、保護であり、そして真実を示す証拠だった。
「杏……あなたのおかげで、安心できました」
瑠璃の瞳には、涙と微かな笑みが混じる。私は微笑み返すが、心の中では次の不安がよぎる。後宮はまだ完全に安全ではない――匂いで真実を嗅ぎ分けても、未来の陰謀は予測できない。
窓の外、月明かりに照らされた庭から微かに香りが漂う。鉄と甘さ、古い薬草の香り……匂いは、これから起こる出来事の予兆を私に告げていた。
「……次は、誰の嘘を嗅ぎ分けることになるのだろう」
小さく呟き、私は薬罐を抱え、夜の後宮へと歩みを進める。香りが示す真実の先には、まだ知らない秘密が待っている――後宮薬師として、私はその全てを嗅ぎ分け、守るべき者を守るために進むのだ。
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