表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

相月

作者: 水縒あわし




月のない夜ではなかった。



むしろ、そこにはありったけの月光が降り注いでいた。




それは、獣の気配すら呑み込むかのような、あまりにも清澄な光だった。


道と呼ぶには心許ない、ただ人が踏み固めただけの細道。



その両脇に茂る草木は、月の光を受けて青白く浮かび上がり、昼間とは全く異なる相貌を見せていた。




風もなく、ただ重たい静寂だけがその場を支配している。





その静寂の真ん中に、二つの影があった。





それぞれが道を挟み、互いに僅かな距離を置いて立っている。



まるで最初からそこに置かれていた石像のように動かない。




しかし、石像にはない張り詰めた空気、剣呑な気配が、彼らの間には満ちている。



それは、肌を撫でる風がないのに肌が粟立つような感覚。


風景は静かでありながら、彼らの立つ場だけが、世界の理から切り離されたかのような異常な密度を持っていた。




互いの顔は見えない。


いや、見ようともしないのかもしれない。





闇の中で、彼らは視覚以外の全てを研ぎ澄ませているように感じられた。



足音は全くしない。息遣いすら聞こえない。


ただ、そこに「在る」ことの重圧だけが、月光の下に沈殿していた。






しばらくの時が流れた。





それは秒針の音一つない部屋で、ただ壁の染みだけを追っているかのような、無限にも似た静けさだった。







やがて、そのうちの一人が、ごく緩やかに、腰に差した刀の柄に手をかけた。



その仕草には、急ぐ気配は微塵もない。



まるで、これから行う儀式の一部であるかのように、静かに、丁重に。


鞘鳴り一つさせず、白刃が抜き放たれた。





それは、月の光を集め、その輝きを百倍にも増幅させたかのような、息を呑むばかりの煌めきだった。





刀身を伝う光は、まるで生き物のように揺らめき、見る者の目を釘付けにする。





もう一人の男も、同じように静かに刀を抜いた。二つの白刃が、呼応するかのように光を放ち、月夜の闇に浮かび上がった。






言葉は全くない。




しかし、刀身が放つ光が、互いの心を映し出しているかのようだった。



その美しさは、血腥い争いとは無縁の、ただ純粋な金属と光の織りなす芸術。



もし、この場で互いに命を奪い合う定めがなければ、この輝きを飽かず見ていられただろう。



刀を握る手は微動だにしないが、彼らの内側では、見えない闘気が静かに渦巻いている。



それは、月光の下で冷え切った大地の下に、熱い血が蠢いているのに似ていた。




彼らは互いの素性を知らない。




どのような過去を持ち、なぜこの場にいるのか。



全くの異邦人同士であるはずなのに、ここに至るまでの経緯に一切の疑問は湧かない。




まるで、この月夜の細道で相まみえることが、遥か昔から決められていた宿命であるかのように。



あるいは、今、この瞬間に、この場が生み出した得体の知れない力によって、互いに引き寄せられたとでも言うべきか。



理由は分からない。



ただ、目の前の相手と対峙することだけが、自らに課せられた唯一の役割であると、理屈抜きに理解していた。



月光が刀身を滑り、地面に落ちる影を長く伸ばす。



風が、いよいよもって吹かない。


草木は直立したまま、静寂の一部となっている。





重たい沈黙が、再び空間を満たした。





互いに構えをとっているわけではない。

ただ、そこに立ち、刀を手にしている。




その姿勢は、見る者があれば、思わず息を詰めてしまうほどの、張り詰めた「静」だった。



どちらも、自分から動こうとしない。

いや、動けないのかもしれない。



この神聖なまでの静寂を、自らの手で破ることを躊躇しているのか。




どれほどの時間が過ぎたのだろうか。



体感としては永遠にも等しく、しかし現実にはほんの刹那であったのかもしれない。




ふいに、森の奥から、遠い獣の鳴き声が響いた。



それは、静寂を破るというよりは、静寂の中の一つの「区切り」であった。

その瞬間、張り詰めていた空気が、僅かに揺らいだように感じられた。





まるで、その獣の鳴き声が合図であったかのように。





どちらからともなく、ごく僅かに足が動いた。



にじり寄る。


音もなく、地面を滑るようにして距離を詰める。



動きは最小限。


しかし、その一歩一歩が、この静寂を壊さぬよう、細心の注意を払っているように見えた。



距離が縮まると、一人の男は刀を高く掲げ、上段に構えた。


もう一人は、刀を低く構え、下段の構えをとる。




二つの影は、互いの間合いを図るように、円を描くようにゆっくりと動き始めた。


その動きもまた、激しさとは無縁の、まるで能の舞のような静かな弧だった。





しかし、そこに剣戟の音は響かない。





再び、動きが止まった。




上段の刀。




下段の刀。




互いの呼吸、筋肉の微かな動き、瞳の奥に宿る光。



全てを読み取ろうとしている。





そして、同時に、相手に自らを読ませまいとしている。


再びの膠着。このまま、どれほど時が過ぎるのだろうか。




その時、先ほどとは違う、冷たい風が、彼らの間を吹き抜けた。




草木がざわめき、彼らの袖を揺らす。

それは、停滞を打ち破る、もう一つの合図であったかのように。



 



風が通り過ぎた直後。

 




これも、どちらからともなく、一歩が踏み出された。




静かに。





そして、交錯する。




剣戟の音が響く。



キン、と月の光を弾くような鋭い音。


それは、先ほどの張り詰めた静寂を切り裂くが、しかし、すぐにまた静寂に呑み込まれる。




数度の打ち合い。



激しい連撃ではない。


一撃、二撃。




間合いを測り、相手の出方を探るような、抑制された打ち合いだった。





鋼と鋼がぶつかる度に、火花が散り、すぐに消える。


その火花の儚さだけが、この場の現実を物語っているかのようだった。




数度の打ち合いの後、上段に構えていた男が、静かに左手を刀から離した。



そして、その手を腰の鞘に伸ばす。

鞘を握り、ごくゆっくりと、刀が収まっていたはずの鞘を引き抜き始めた。




男には理解できない行動だった。



刃を交えている最中に、刀ではなく鞘に手をかけ、それを抜き取るなど。



しかし、さらに理解できないことに、その男は抜き放った鞘を片手に持ったまま、くるりと背を向けたのだ。


月光を浴びる、その背中。



それは、剣士にとって最も無防備な姿勢である。



理屈では考えられない。




しかし、相手が背中を見せたならば、それは襲いかかる以外の選択肢はない。 




本能がそう叫んでいた。




背を向けた男に向かって、残された男は迷わず斬りかかった。




その刹那。





背を向けた男の影となり、手にした鞘が投げられた。


それは、狙い澄ましたかのような軌道で、襲い来る刃と衝突した。





切り弾く。


 



鋼と鞘がぶつかり、弾かれる鈍い音。



そして、その音が耳に届くより早く。






煌めく白刃が、男の身体を通り抜けた。






それは、斬られたという感覚ではなかった。




月の明かりを宿した一条の光が、ただ自分の中を通過しただけのような、あまりにも静かで、あまりにも滑らかな感触。




剣筋は、確かに一つの線にしか見えなかった。光の線が、闇の中に描かれた一瞬の軌跡。


斬られた男が、最後に見たもの。


それは、地に伏す間際、仰ぎ見た夜空に浮かぶ、月明かりに映る、あまりにも美しい一本の線の煌めきだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ