相月
月のない夜ではなかった。
むしろ、そこにはありったけの月光が降り注いでいた。
それは、獣の気配すら呑み込むかのような、あまりにも清澄な光だった。
道と呼ぶには心許ない、ただ人が踏み固めただけの細道。
その両脇に茂る草木は、月の光を受けて青白く浮かび上がり、昼間とは全く異なる相貌を見せていた。
風もなく、ただ重たい静寂だけがその場を支配している。
その静寂の真ん中に、二つの影があった。
それぞれが道を挟み、互いに僅かな距離を置いて立っている。
まるで最初からそこに置かれていた石像のように動かない。
しかし、石像にはない張り詰めた空気、剣呑な気配が、彼らの間には満ちている。
それは、肌を撫でる風がないのに肌が粟立つような感覚。
風景は静かでありながら、彼らの立つ場だけが、世界の理から切り離されたかのような異常な密度を持っていた。
互いの顔は見えない。
いや、見ようともしないのかもしれない。
闇の中で、彼らは視覚以外の全てを研ぎ澄ませているように感じられた。
足音は全くしない。息遣いすら聞こえない。
ただ、そこに「在る」ことの重圧だけが、月光の下に沈殿していた。
しばらくの時が流れた。
それは秒針の音一つない部屋で、ただ壁の染みだけを追っているかのような、無限にも似た静けさだった。
やがて、そのうちの一人が、ごく緩やかに、腰に差した刀の柄に手をかけた。
その仕草には、急ぐ気配は微塵もない。
まるで、これから行う儀式の一部であるかのように、静かに、丁重に。
鞘鳴り一つさせず、白刃が抜き放たれた。
それは、月の光を集め、その輝きを百倍にも増幅させたかのような、息を呑むばかりの煌めきだった。
刀身を伝う光は、まるで生き物のように揺らめき、見る者の目を釘付けにする。
もう一人の男も、同じように静かに刀を抜いた。二つの白刃が、呼応するかのように光を放ち、月夜の闇に浮かび上がった。
言葉は全くない。
しかし、刀身が放つ光が、互いの心を映し出しているかのようだった。
その美しさは、血腥い争いとは無縁の、ただ純粋な金属と光の織りなす芸術。
もし、この場で互いに命を奪い合う定めがなければ、この輝きを飽かず見ていられただろう。
刀を握る手は微動だにしないが、彼らの内側では、見えない闘気が静かに渦巻いている。
それは、月光の下で冷え切った大地の下に、熱い血が蠢いているのに似ていた。
彼らは互いの素性を知らない。
どのような過去を持ち、なぜこの場にいるのか。
全くの異邦人同士であるはずなのに、ここに至るまでの経緯に一切の疑問は湧かない。
まるで、この月夜の細道で相まみえることが、遥か昔から決められていた宿命であるかのように。
あるいは、今、この瞬間に、この場が生み出した得体の知れない力によって、互いに引き寄せられたとでも言うべきか。
理由は分からない。
ただ、目の前の相手と対峙することだけが、自らに課せられた唯一の役割であると、理屈抜きに理解していた。
月光が刀身を滑り、地面に落ちる影を長く伸ばす。
風が、いよいよもって吹かない。
草木は直立したまま、静寂の一部となっている。
重たい沈黙が、再び空間を満たした。
互いに構えをとっているわけではない。
ただ、そこに立ち、刀を手にしている。
その姿勢は、見る者があれば、思わず息を詰めてしまうほどの、張り詰めた「静」だった。
どちらも、自分から動こうとしない。
いや、動けないのかもしれない。
この神聖なまでの静寂を、自らの手で破ることを躊躇しているのか。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
体感としては永遠にも等しく、しかし現実にはほんの刹那であったのかもしれない。
ふいに、森の奥から、遠い獣の鳴き声が響いた。
それは、静寂を破るというよりは、静寂の中の一つの「区切り」であった。
その瞬間、張り詰めていた空気が、僅かに揺らいだように感じられた。
まるで、その獣の鳴き声が合図であったかのように。
どちらからともなく、ごく僅かに足が動いた。
にじり寄る。
音もなく、地面を滑るようにして距離を詰める。
動きは最小限。
しかし、その一歩一歩が、この静寂を壊さぬよう、細心の注意を払っているように見えた。
距離が縮まると、一人の男は刀を高く掲げ、上段に構えた。
もう一人は、刀を低く構え、下段の構えをとる。
二つの影は、互いの間合いを図るように、円を描くようにゆっくりと動き始めた。
その動きもまた、激しさとは無縁の、まるで能の舞のような静かな弧だった。
しかし、そこに剣戟の音は響かない。
再び、動きが止まった。
上段の刀。
下段の刀。
互いの呼吸、筋肉の微かな動き、瞳の奥に宿る光。
全てを読み取ろうとしている。
そして、同時に、相手に自らを読ませまいとしている。
再びの膠着。このまま、どれほど時が過ぎるのだろうか。
その時、先ほどとは違う、冷たい風が、彼らの間を吹き抜けた。
草木がざわめき、彼らの袖を揺らす。
それは、停滞を打ち破る、もう一つの合図であったかのように。
風が通り過ぎた直後。
これも、どちらからともなく、一歩が踏み出された。
静かに。
そして、交錯する。
剣戟の音が響く。
キン、と月の光を弾くような鋭い音。
それは、先ほどの張り詰めた静寂を切り裂くが、しかし、すぐにまた静寂に呑み込まれる。
数度の打ち合い。
激しい連撃ではない。
一撃、二撃。
間合いを測り、相手の出方を探るような、抑制された打ち合いだった。
鋼と鋼がぶつかる度に、火花が散り、すぐに消える。
その火花の儚さだけが、この場の現実を物語っているかのようだった。
数度の打ち合いの後、上段に構えていた男が、静かに左手を刀から離した。
そして、その手を腰の鞘に伸ばす。
鞘を握り、ごくゆっくりと、刀が収まっていたはずの鞘を引き抜き始めた。
男には理解できない行動だった。
刃を交えている最中に、刀ではなく鞘に手をかけ、それを抜き取るなど。
しかし、さらに理解できないことに、その男は抜き放った鞘を片手に持ったまま、くるりと背を向けたのだ。
月光を浴びる、その背中。
それは、剣士にとって最も無防備な姿勢である。
理屈では考えられない。
しかし、相手が背中を見せたならば、それは襲いかかる以外の選択肢はない。
本能がそう叫んでいた。
背を向けた男に向かって、残された男は迷わず斬りかかった。
その刹那。
背を向けた男の影となり、手にした鞘が投げられた。
それは、狙い澄ましたかのような軌道で、襲い来る刃と衝突した。
切り弾く。
鋼と鞘がぶつかり、弾かれる鈍い音。
そして、その音が耳に届くより早く。
煌めく白刃が、男の身体を通り抜けた。
それは、斬られたという感覚ではなかった。
月の明かりを宿した一条の光が、ただ自分の中を通過しただけのような、あまりにも静かで、あまりにも滑らかな感触。
剣筋は、確かに一つの線にしか見えなかった。光の線が、闇の中に描かれた一瞬の軌跡。
斬られた男が、最後に見たもの。
それは、地に伏す間際、仰ぎ見た夜空に浮かぶ、月明かりに映る、あまりにも美しい一本の線の煌めきだった。