大きな鯉の物語
庭園や観光地、学校で飼育する鯉って、風流を感じますよね。丸い唇をパクパクさせて餌を求めて水面に上がってくると、思わず餌をやりたくなってしまいます。そんな愛らしい鯉が飼育委員の女子高生に恋をしました。小さな(?)鯉の物語です。
飼育委員を務めて3か月、帰国子女で柳瀬高校2年生の神崎愛は、裏庭の池の鯉の餌やり係を担当している。新学期が始まり、クラスで委員を決めるときに、飼育委員に立候補した金城要を見て、自分も手を挙げた。金城要とは、宇宙とか神秘とかのマニアックな情報に長けたオタクで、決して恰好よくはないが、優しい雰囲気と大きな体とよく笑う声に魅力を感じていた。
昼休みに毎日裏庭の池に餌を持って池に行くと、鯉が水面に群がって口をパクパクさせる。その中に、ひときわ大きな鯉がいた。灰色と黒の縞模様で、やたらと大きく垂れた目、鯉にしては短いヒゲ、口角が上がった口、ちょっと愛嬌のある顔をしていた。愛はその鯉に「シマシマ」と名付けた。シマシマは愛が来ると一番に水面に上がってきた。
「いくよ、シマシマ」
愛がシマシマに向かって餌を撒くと、ほかの鯉も寄ってきた。ところが、シマシマが全部食べてしまう。
「神崎さん、ほかの鯉にもやらなきゃだめだよ」
要もやってきて、シマシマが独り占めしないように遠くのほうに餌を投げた。すると、シマシマは食べずにほかの鯉がバクバク食べた。
愛はあらためて池の鯉を眺めた。愛のそばから離れないシマシマは、口をパクパク、というより、キスでもするかのように口をすぼめて水面から顔を出している。
「きっと、シマシマは神崎さんが好きなんだね」
「えへへ」
恥ずかしそうに照れる愛に、要は、少し声を小さくもそもそとつぶやいた。
「鯉はいいなあ、正直で」
「え?何?」
愛は聞き返した。
「何でもないよ」
「何でもなくない、金城君、何か言った」
「何も言ってないよ、忘れて」
「たしか、鯉はいいなあ、とか」
「う、うん、そう言ったけど」
「正直だとか…」
顔をまじまじと見られ、要は顔を真っ赤にして横を向いた。
「俺だって、正直になりたいよ」
「金城君は正直だよ」
「いや、そうじゃなくて…」
要は愛から一歩引いた。
「神崎さんが好きなんだ」
愛は要を振り返った。うんと頷き、笑顔を隠すように下を向いて、要の大きな体に肩を寄せた。
「実は、私もなんだよ」
そして顔を上げてまっすぐに要を見た。
「私も、正直じゃなかったね」
「俺たち、恋人どうし?」
「うん」
愛は要に全身を寄せて、要も愛の背中に手をまわして抱き寄せた。
シマシマの体は日に日に大きくなっていく。愛が餌をやりに来るとものすごい勢いで飛び跳ね、池から飛び出してしまうこともあった。そうなると愛一人では池に戻せず、要に手伝ってもらっていた。
たまたま餌をやりに来て、あまりにも大きくなったシマシマを見た委員長は、要を呼び出した。
「この池の大きさじゃシマシマには小さすぎる。今度時間があるときに川に放そうと思う。手伝ってくれるかな」
「はい、いつでもいいっすよ」
「じゃあ、早いほうがいいから、今日の放課後でもいいかな?」
「了解っす」
その日の放課後、要は愛と一緒に裏庭へと向かった。委員長はすでに網とバケツを用意していた。
「神崎さんも来てくれたんだね、ありがとう」
「シマシマは神崎さんになついているから、彼女がいるほうが運びやすいと思って」
「OK。じゃあ、金城、網でシマシマを捕まえて」
委員長は網を要に手渡し、バケツを持って構えた。愛も手伝おうとしたが、少し離れているようにと要に目で合図をされ、一歩下がって見守ることにした。
委員長と要は息を合わせて手際よくシマシマを捕獲した。が、シマシマはとにかく暴れて、バケツから飛び出しそうになり、二人だけでは手に負えない。
「愛、来て」
要が叫んだ。愛はシマシマの傍に来て頭を撫でた。
「いい子、いい子」
するとシマシマはきゅうに暴れるのをやめておとなしくなった。
愛が後ろから見守る中、委員長と要は両側からバケツを持ち、三人は川へと向かった。
川のほとりに着き、一旦バケツを置いて手を休めてから、再度バケツを持ち上げた。
「せーの!」
一気にシマシマを川に放った。シマシマは勢いよく川の中へと飛ばされ、一面に水しぶきを上げたが、シマシマはすぐに浮き上がり、川面から何度も跳ね上がった。
そばにいた釣り人や散歩中の親子はその光景を眺め、
「すげー」
「でかい鯉だなあ」
「鯉こく何人前作れるかな」
などと口口につぶやいた。
「これでシマシマはゆったりできるね」
委員長が言った。
「神崎さんに会えなくて寂しがるかもね」
要が言うと、委員長は要の耳元に顔を近づけた。
「金城は神崎さんと付き合ってるんだろ?」
「い、いや、そんなわけないじゃないですか!」
要は真っ赤になってむきになった。
「隠さなくたっていいだろ。さっき、神崎さんのこと『愛』って呼んでたじゃん」
「あ、あれは…、はい」
「神崎さんも、金城のこと大好きみたいだし、頑張れよ」
委員長は要の背中を叩いた。要は照れながら愛を見た。
「シマシマ、元気でね」
愛は川面に向かって大きく手を振り、三人は学校へと戻っていった。
翌日、愛と要は裏庭の池で餌やりをしたが、愛はちょっと寂しげな様子だった。
「今度の日曜日、川に行って、シマシマがいるかどうか見てみようよ」
要が言い出した。
「うん、行く」
愛は笑顔になった。川に餌を撒くと、今までは餌をあまり食べられなかった小さめな鯉が思う存分餌を食べていた。
そして日曜日、愛と要は川のほとりを散歩した。世間話をしながら手を繋いで歩き、笑い合った。
愛は何度も要の顔を見て微笑むが、要は恥ずかしがって愛の顔を見ない。そしてついに目と目が合ったときだった。
「要ちゃん、好き」
「俺も好きだよ、愛」
二人は向かい合ってキスをした。
そのときだった。川面に大きな影がユラユラと横切っている。
「なんだ、あれ」
「鯉こく1000人前作れるかな」
「ばかっ、何が鯉こくだよ、早く川から離れろ」
釣り人たちが騒ぎ出した。愛と要がキスをやめて騒ぎのほうへと視線を向けると、川面の大きな影は二人を追い越していた。そして、バッシャーっと勢いよく大きな物体が水面から飛び上がった。川の水が全部なくなるくらい大量の水しぶきが辺り一面に吹き上がった。土手に乗り上がったのものは、家ほどある大きな怪魚だった。怪魚は体を翻し、要と愛に向き直った。それは大きく変貌したシマシマだった。周囲には愛と要以外は誰もいなくなった。
「シマシマ」
愛が叫んだ。
「愛、逃げろ」
要はシマシマから目を離さず、愛にそう耳打ちした。愛は走り去った。要はシマシマと目を合わせた。
「シマシマ、戻れ」
「アイチャンハシマシマノモノ、ダレニモワタサナイ」
野太い声が轟いた。
「愛は人間だ。鯉とは住む世界が違う」
「シマシマ、アイチャンガスキ」
「お前は鯉である以上、愛とは恋人にはなれない。今度生まれ変わったら、愛と同じ人間に生まれ変わるんだな」
「ニンゲンニウマレカワル…」
シマシマは大きな体を丸めて考え込んだ。その間も、要は視線をそらさなかった。
「ニンゲンニウマレカワル…」
シマシマが何度も何度も繰り返しつぶやいているときだった。
「そんなの無理だよ」逃げていた愛が太い木の枝を持って静かに歩いてきた。「だって私、要ちゃんが好きなんだもん」
「シマシマ、ウマレカワッタラカナメニナル」
シマシマは力強く言った。
「俺?」
要は困惑したが、愛とシマシマの間に挟まれ、おろおろしている場合ではない。シマシマから目を離さないように注意しながら愛を自分の背中に隠した。すると、愛は要の手に太い木の枝を握らせた。
「要ちゃん、これでシマシマの頭を一撃して」
「えっ」
振り返りそうになったが、シマシマに集中した。
「おデコのあたりを、思いっきりね」
そう言われて、要はうなずいて木の枝を握った。
愛はシマシマの前に少しずつ歩み寄った。
「シマシマ、私を好きになってくれて、ありがとね」
「アイチャン、コイツナンカヨリシマシマヲスキニナッテヨ」
シマシマが愛に甘えて隙を見せた。その瞬間、要は棒を振り上げ、鯉の頭を力いっぱい叩いた。シマシマの目が白くなり、気を失った。巨体は徐々に川のほうに傾いた。ザバーっと川に落ちていき、ブクブクと泡を立てて、ゆっくりと沈んでいった。
愛と要は、要の部屋に向かった。
「せっかくの一張羅がビショビショだよ」
要はびしょ濡れになった服を脱いだ。愛はバスタオルを巻いて要のベッドに座った。要もバスタオルを撒いて愛の隣に座った。
「棒で頭を叩いて気絶させるとは、よく考えたね」
「子供の頃、ドイツのハンブルクに住んでいたとき、クリスマスは鯉を食べる風習があったの。それでね、鯉を買うとき、魚屋さんが水槽から鯉をすくって、まな板の上で鯉を抑えて頭を棒でコンって叩くと動かなくなるの」
「さすがだね、愛は賢いや」
要が上半身裸のまま愛に抱きつこうとしたときだった。
「きゃっ」
愛は小さく悲鳴を上げた。要の胸元に鯉のような魚の形の模様があったのだ。
「それ、あざ?」
愛が聞き終わらないうちに、要は愛に抱き着いて、口を丸くすぼめてパクパクさせた。魚の形のあざのようなものは、徐々に体中に広がり、要の体全体を覆いつくした。
「アイチャン、アイシテルヨ」
愛の恋人要に生まれ変わったシマシマ。念願叶ったシマシマはこの先幸せになれるのでしょうか。大きな鯉の物語でした。