廃棄人形
ホラーというよりは気味が悪いとか気色悪いとか気持ち悪いとかそっちの系統かなと思います。
怖くは多分ない。
ワタシは、師匠に拾って貰えて幸運だったと思っている。
ワタシは何も覚えていないまま、そこにいた。ワタシが誰なのかさえ覚えていない。そこがどこなのかもわからない。何も分からないから特に困ったとも思わないまま、そこに座り込んでいた。立つ、とか、歩く、とか、人里を目指す、とかそういうことすら思わなかった。
今となって思い返せば、あれは山の中の森だった。辛うじて道端だったけれど、どう見ても不審者でしかない。ワタシはただそこに座り込んで、空を見上げていた。どれくらいそうしていたのかもわからない。
時計がないから分からないという規模ではなく、何日そうしていたのかすら、その時のワタシには分からないのだ。もしかしたら数分だったのかもしれないし、数年だったのかもしれない。……それなりに人通りがあったのなら、数日ということはなさそうだけれど。
師匠はワタシの手を引いて立ち上がらせ、ついてくるようにと言った。だからワタシは師匠について行ったし、今もついて歩いている。まるで鳥の雛が初めて見たものを親だと思ってついて歩いているようだと、師匠は笑ってよく言う。笑っているから問題はきっとない。
その日は、町にあるお風呂屋さんに行った。国の公共事業として、お風呂屋さんがあるのだ。勿論私設のお風呂屋さんもあるし、そこには補助金が出ているという。だから小さな村にもお風呂屋さんはあるそうだ。
それなりに大きな町だと色々なお風呂屋さんがあるという。男女別、混浴、子供用。打たせ湯かけ流し露天。それぞれがどういうものなのかはよく分からなかったけれど、まあその内分かるだろうと聞いておいた。
暖簾をくぐってお店に入る。番台と呼ばれる、少し高い場所に座る人に二人分のお金を師匠が払って、ワタシは師匠にくっついて入った。
ここは、女性向けのお風呂屋さんだという。だから番台にいたのも女性だ。
お店の入り口に戸はなく、暖簾をくぐってすぐに番台。上がり框があって、下足箱があって。
ここには下足番さんがいないから、気を付けるようにと番台の女性が注意をしてくれた。どう気を付けるのかと言われれば、脱いだ下足を中に持って行ったり、まとめてくくったりするという。
一番多いのは窃盗ではなく間違い。みんな似たような履き古した草履だったり雪駄だったりだから、間違えてしまうのだと師匠が教えてくれた。
引き戸を開けるとそこは脱衣場。籐網の棚がずらりと並んでいて、そこに籐網の籠がたくさん置かれている。棚に伏せて籠が置いてあるのが未使用でそこから選んで使うのだという。
ちらりと近くの籠を覗き見れば、脱いだ着物が畳んで置かれているようだった。
師匠や近隣の籠を手本にして、着ていた着物を脱いで畳んで、籠へと仕舞う。手拭いを師匠の真似して持って、風呂場へと入っていった。
師匠が言うには、風呂屋には風呂屋の作法があるらしい。作法があるならそれに従うのは当然だとワタシは思う。より正確に言うと、わざわざその作法に反対するほどの思想をワタシは持ち合わせていない。以前のワタシは持っていたかもしれないけれど、今のワタシには何もないのだ。師匠が教えてくれることを、ひとつひとつ、ワタシのものにするしかない。
洗い場で体を洗ってから、浴槽へと入る。このお風呂屋さんの浴槽は、四角い。師匠が言うには、色々な形の浴槽があるそうだ。次は別の町の、別のお風呂屋さんへ行こうと師匠が言う。ワタシはただ頷いた。師匠がそう言うのなら、そうなのだろう。
浴槽には先客がいた。どちらもヒト族だ。種族によっては、このお風呂屋さんを好まないという。なんでも砂を浴びる種族もいるそうだ。そういう種族向けのお風呂屋さんも、ちゃんと補償の対象で。この近くで営業していると、同じ浴槽に浸かっているヒト達が教えてくれた。
そのヒト族のお客さんの他に、ふたり、異様な風体の先客がいた。彼女たち、おそらく彼女たちでいいだろう。このお風呂屋さんは、女性専用のお風呂屋さんなのだから。
彼女たちは、その顔に、体に、見える場所全てに色が塗られていた。顔は上に、さらに顔を書き足されているように見える。輪郭線に沿って、黒い線。鼻筋にも、眉にも、瞼だろうか。そこにも黒い線が描かれている。ファッションタトゥーの類ではない。術士がその身に呪文を刻み込んだものとも違う。
じっと見つめるのは失礼にあたるだろうから、視線を逸らす。とはいえあまり広くない浴槽内の事で、どうしても視界に入ってしまう。それに、なぜか視線がそちらに吸い込まれるようになってしまうので逸らすのに苦労した。
片方はまるで緑色の詰襟の服を着ているかのようで、もう片方は丸襟の青い服を着ているかのようだった。
誰もが早々に浴槽もお風呂屋さんも後にした。ワタシも師匠に促されて、早々にお風呂屋さんを出ることになった。それでも彼女たちはまだ、浴槽に浸かっていた。気持ちよさそうには見えなかった。
「あれは、廃棄人形といってね」
師匠が口を開いたのは、宿に戻ってからだった。お風呂屋さんを出た後は目の前の露店でフルーツ牛乳なるものを買い、舐めるように飲んだ。次は師匠の買ったコーヒー牛乳にしてみようと思う。
それから今日の夕ご飯と、明日の朝ご飯とお昼ご飯と、これから先しばらく旅暮らしになるための細々としたものを買い込んだ。ワタシの服に靴、下着に外套。旅をするために必要なものを全てだ。支払いは師匠。ワタシはまだ金の稼ぎ方を知らないから、それでいいらしい。
出世払いで返せばいいと、師匠に言われてしまった。何をすればいいのか分からないけれど、出来ることからやっていこうと思う。まだ何も出来ないけれど。
「例えば奴隷や犯罪者に、脱走癖のあるものがいたとしてね。そいつの足に色を塗りこむんだよ。そうすると、所定の場所から逃げ出せないようになる。ある範囲の中では普通に歩けるけれど、そこを出ようとすると、ぴたりと足が動かなくなるんだってさ」
それが本当の事がどうかはさておいて、そういうものなのだ、と師匠はキセルの煙を吐き出しながら言った。ワタシはふんふんと頷いておく。よく分からないけれど、そういうものもあるのだろう。なぜそれがあんなに子どもの塗り絵みたいになるのかは分からないが、師匠が分からないのだから分かるはずもない。
今師匠の吐き出しているキセルの煙は、前に内緒話をすると言って吸っていたのと違うにおいがするから、これはきっとみんな知っている話なのだ。誰に聞かれても構わない。
ただ、あの場でする話ではなかっただけなのだろう。もしかしたら、落ち着いてからしたかったのではなく、単に買い物を優先させただけかもしれない。
けれどワタシが知識として持っていないのもおかしいからと教えてくれたのだろう。
「あの子らが、何をしてあんな風になっちまったのかは分からないけれどね」
師匠はぐ、と眉間に皺を寄せた。
「腕だけとか、足だけとかじゃなくね。あんなに体中塗りたくられていたら、もう何もできやしないのさ」
廃棄された人形。ではなく。廃棄されて人形になってしまった。
そういう意味らしい。
犯罪者はともかくとして、奴隷は財産である。あんなことにはならない。財産をつぶすようなものだからだ。
犯罪者であってもああは早々ならないと師匠は言う。その前に潰してしまえばいいからだ。
だから、何があったのか分からないという。
あの塗り絵の練習台なのかもしれないと思って師匠にそう言ったら、多分違うと言われた。廃棄人形と呼ばれる彼女らは、それなりに見かけるらしい。
あんたはそうはならないように気を付けな。
師匠がそう結んだので頷いた。どうすればああなるのか分からないから、どうすればいいのかもわからないけれど。師匠がならないように、というのであれば、ならない方がいいのだろう。
夢で見たんですよ。
この、温泉に何か変なのがいる夢を。
数日経っても脳みそにこびりついて忘れられなかったので、諦めて書き起こしました。
夢をメモしたりすると狂うって言いますけれど、忘れららなかったんだからしゃあない。
無事忘れら増した。よきかな。