ねこは春風に乗って
まったく、なぜ俺がこんな仕事をさせられにゃならんのだ。
俺の名前は鳥越俊35歳。雑誌記者だ。雑誌といっても名の知れた週刊誌とかではない。弱小出版社の刊行している『月刊ねこっぴ』というくだらん雑誌に記事を書いている。
俺は全然猫好きではないし、そもそも動物を愛してなんかいない。仕事をさせてもらえるなら何でもいいと飛び込んだが、正直後悔している。スタジオで猫の写真をノリノリで撮りながら「はい、可愛いでちゅね~」とかキモい声を出す編集長のオッサンを見ているだけで鳥肌が立ち、溜息が漏れるのだ。
〇〇町のバス停付近に鼻唄を歌うねこが出現するらしい。
それを取材して来いとの編集長命令だった。
勘弁してくれ。そんなもんいるわけないだろ。猫の世界に歌があってたまるか。
一般女子高生からの依頼らしいが、そんなもの信じる編集長はどうかしている。そんなまだ夢見がちな年頃を脱していないやつの言うことなんて、ファンタジーに決まっている。
どうせ歩くたびに声が出てしまうおかしな癖のある猫とかに決まっている。
歩くたびに震動かなんかで『るっ、るっ、るっ』とか声が出てしまい、それが鼻歌に聞こえるだけだ。
いや……、考えてみたら、そんな猫ならネタにはなるな。
とりあえず俺は現場に行ってみることにした。
バスを降りると、薄紫色のトレーナーの襟から若い素肌を自慢げに覗かせたショートカットの女子高生が待っていた。
「あー、林檎崎ももさん?」
「あっ、はい! 月刊『ねこっぴ』の方ですか?」
はいはい。かわいい、かわいい。自分のかわいさをよくわかっているのか、林檎崎ももちゃんはガキのくせに紫色のシャドウとつけまつ毛をした大きな目を蠱惑的に笑わせて見せた。
どーでもええわ。俺はガキには興味ないんじゃ。大体、なんだ、その名前。林檎なのか桃なのかはっきりしろ。
花粉症も辛いし、早く取材済ませて家に帰って金髪外人姉ちゃんのエロい動画を見て寛ごう。
彼女に名刺を渡すと、俺は聞いた。
「鼻唄を歌うねこはどこです?」
すると彼女はにぱっと笑った。にぱっとしか形容しがたい笑顔であることが、マスクをしているにも関わらずわかった。
「もうすぐやって来ますよ。あの子、いつも決まった時間にここを通るんです」
俺は待った。林檎崎さんの後ろに立って、ひたすらそいつが現れるのを待った。
待ちながら、どうしても目が彼女の襟から大きく露出した素肌を見てしまう。
ニキビが浮いてはいるが、綺麗な小麦色の肌だ。
なんかいい匂いもして来た。
は……
はうっシュ!
いかん、いかん。あぁ、春ってのは嫌な季節だ。花粉のせいでクシャミは止まらんし、頭も少しおかしくなる。ギリギリ自分の娘でもおかしくないガキに何妄想した、今?
くだらん仕事済ませたら早く家に帰って金髪外人姉ちゃんのエロい動画を見ながらッシュ……! ううッシュ! く、クシャミが止まらん。……ちっシュ!
「あっ! 来た!」
林檎崎が跳ねるように伸びをすると、嬉しそうな声を出した。
「来ましたよう! パンジーちゃんだぁ!」
彼女がぴょんぴょんしながら指さすほうを見ると、確かにねこが歩いて来ていた。背中にパンジーみたいな変な縞のある、白いとこのやたらと春らしく白いねこだった。
「あれが鼻歌を唄うねこ?」
「はい」
そう言って林檎崎は視線をねこに釘付けにして、ほこっと笑った。ほこっととしか形容できない笑顔だった。
かわいいな。
ガキのくせに、この俺を惹き付けやがって。
その時、春風が吹いた。
キラキラと黄色い粉をたっぷりと乗せたような、強い風だった。歩いて来ていたねこが、その風にふわりと浮き上がった。
俺はたまらずッシュ! クシャミがッシュ! 止まらんッシュ! くなッシュ!
ねこは春風に乗って、まっすぐこちらへ飛んで来た。魚が泳ぐようなスピードで。口がるん、るんっ、と歌を唄っていた。
空中で林檎崎とねこが見つめ合った。笑顔の林檎崎が腕を前に伸ばすと、ねこが幸せそうに笑う。
「ねこ!」
林檎崎がそいつの名を呼んだ。
「るる~」
ねこが林檎崎の名を呼んだ、たぶん。
ふたりは足を地面から1メートル浮かせてがっしりと抱き合うと、竜巻に乗るようなスピードで空へ舞い上がって行く。スカートの中に桃がたくさんプリントされたパンツが見えた。
なんだこれはッシュ!? 俺はどうしたらいいんだッシュ!? 誰に助けを求めたらいいんだッシュ! 警察か? それともヒーロー協会か? あたりには咲き誇ってる梅ッシュ!
「助けなんか呼ぶ必要はないでちゅよ」
突然、背後でしたそのキモイ声に振り返ると、編集長が立っていた。小太りのそのオッサンは幸せそうに空へ昇って行く林檎崎とねこを見送りながら、ウンウンとうなずいていた。
「編集長!? なぜここに!? ……ッシュ!」
俺はクシャミをしながら声が裏返ってしまった。
「あれは何なんです!? 何が起こったんです!?」
「君はねこのことを知らなすぎる」
編集長は平和な笑顔で言った。
「ねこは春風にも乗れば、歌も唄う。勉強になりまちたか?」
「林檎崎は!? 彼女はどうなったんです!?」
「あの子はねこの世界に行ったんだ。羨まちいよなあ……」
そんな……。そんな……!
知り合ったばかりなのに! そんな……
……いや違うだろ。ガキには興味ないはずだろ。人間が1人神隠しに遭ったんだぞ! これは大変な事件じゃないか!
俺がオロオロしていると、編集長が呑気に言った。
「あっ。戻って来まちたよ」
「えっ」
青い春の空を見上げると、編集長の言う通り、くるくると回りながら2人が戻って来るのが見えた。手を繋いでスカイダイバーのようにこちらへ降りて来る。
「受け止めねば!」
俺は高く上がったセンターフライを補球しようというようにオロオロした。夢だった。空から降って来る女の子をいつか受け止めるのが夢だった。
「大丈夫でちよ」
編集長がまた呑気に言った。
「春もねこも優しいでちからね。ふわりと降りて来ます」
編集長の言う通り、地面が近づくにつれて2人の速度は緩まり、まるでヘリコプターの着陸のように円を描き、砂煙を上げてゆうるりと着地した。
「林檎崎!」
俺は駆け寄った。
「大丈夫か!?」
「あっ、大丈夫です。楽しかった~」
口を開くなりそう言ったのは、ねこのほうだった。
林檎崎はすくっと立ち上がると、「るんっ」と、ねこのような声を出した。
「いっ……」
俺は思わず叫んでしまった。
「入れ替わってる~!? ッシュ!」
「どちらかひとりを君にあげまちょう」
何の権限があるのか、編集長が横からそんなことを言い出した。
「どちらかをお家に連れて帰ってもいいでちゅよ。さ、どっち?」
俺はねこを見た。パンジーみたいな3色の縞を背中に乗せたねこが、理性をたっぷり浮かべた目をして俺を見つめていた。
俺は林檎崎を見た。スカートから桃柄のパンツを丸見えにしてしゃがみ込み、トレーナーの襟は思い切り斜めにずれてブラが見えている。
俺はねこを抱き上げた。
「俺がお前の面倒見てやるよ」
ねこは嬉しそうににっこり笑うと、喋った。
「晩ご飯はたまごをたっぷり使った親子丼でお願いします!」
俺は散らかっている部屋を片付けると、玄関のドアを開けた。
「わぁ~、よくあるアパートの一室ですね」
そう言いながら外で待たせていた明るい色のねこが、鼻歌を唄いながら入って来た。
「ま、まぁ、適当に寛いでくれ」
俺はねこ相手に緊張していた。昼間に見た彼女の、トレーナーから露出した肩のラインを思い出していた。
ねこが部屋から部屋へと探検している間に親子丼を作った。一人暮らしが長いのでこれぐらい朝飯前だ。
猫舌だというので口でフーフーして冷ましてやった。食卓で向かい合って、というか林檎崎はテーブルの上に乗って美味しそうに俺の作った親子丼を食べてくれた。
「おいしい~! おいしい~! これこれ、こういうとろ~んとした卵のが食べたかったの!」
食べ進めるうちに林檎崎の口の周りが真っ黄色になるので、逐一ティッシュで拭いてやる。
「しかしお前の身体のほうは大丈夫かな。編集長なんかに預けたりして……」
「家に帰っても、お父さんもお母さんもいつもいないし、あの子ひとりじゃ何にも出来ないと思うから、かえって安心ですよ」
そう言って林檎崎ねこは明るく笑う。
「しかし……編集長のやつ、君の身体を弄んだりは……」
「大丈夫です。あのひとホモだから」
よく知ってるな。なぜ知っているんだろう、と思ったが、詳しくは聞かなかった。
「両親……いつもいないのか」
「はい。お父さんはいつも夜遊びしてますし、お母さんもそれをいいことに浮気してますんで」
「寂しいだろう」
「慣れてますから」
林檎崎ねこは明るくまた笑う。
「それよりどうしてあたしの身体よりねこを選んだんですか?」
「当たり前だろう。女子高生を連れ込んだりしたら近所からどんな噂を立てられるか」
「あっ、なるほど。それは確かにそうですね」
俺は咄嗟にうまい嘘をつけたものだと心の中で自分を褒めた。本当の理由は、林檎崎ももはこっちのほうだとしか思えなかったからだ。身体は彼女でも向こうは間違いなく、ねこだ。それに今、こうやって会話していると、こっちを選んでよかったと心から思う。相手の身体がねこなら、親子ほどの年齢差があっても気にする必要はない。遠慮なく彼女のことをかわいいと思うことが出来る。いや、何を考えているんだ、俺は。
ビールをぐいと飲んだら気管に入った。激しく咳をする俺に、林檎崎ねこがティッシュを口で引き抜いて、持って来てくれた。
「はい、お口拭き拭きしますね」
優しく両手でティッシュを持って立ち上がり、拭いてくれる。
「そういえばクシャミ、止まりましたね」
「あ、ああ……。ゴホッ。外は花粉だらけだからな。家の中に入れば大丈夫だ」
緑色のビー玉みたいな目が俺を見つめる。俺はなぜか顔が赤くなるのを感じていた。
彼女は毛繕いで済ますと言うので、俺1人で風呂に入り、ふたりでテレビを見ながら笑い合った。いつもは無言で見ているテレビが今夜はやけに面白く思えた。金髪外人姉ちゃんのエロい動画を見るのはおあずけになったが、まったく残念だとは思わなかった。
「ねぇ、俊」
彼女はあっという間に俺を下の名前で呼ぶようになっていた。
「寝る前にね、ブラッシングして欲しいな」
そう言うなり膝の上に乗って来て背中を差し出す林檎崎に、編集長から預かった猫用ブラシをかけてやった。彼女は気持ちよさそうにブラシにパンジー模様の背中を押しつけて来る。喉からゴロゴロという音が出ていて、それを聞いていると俺もなんだかとても癒される気持ちにさせられる。
「俊。明日もよろしくね」
布団に入った俺の鼻をぺろりとざらついた舌で一舐めし、林檎崎はそう言った。
「フン。かわいいやつめ。いくらでも面倒見てやんよ」
俺がそう言いながら頭を撫でてやると、林檎崎はとても嬉しそうに目を細めた。
「おやすみ」
「おやすみ」
ずっと1人だった部屋に林檎崎のかわいい寝息が立ちはじめた。たまに甘えた声で寝言を言うが、何を言ってるのかは聞き取れなかった。
とても平和で幸せな春の夜が、あった。
「編集長」
あくる朝、出勤するなり俺は言いたくてたまらないことを編集長に言った。
「ねこって……かわいいですねぇ……」
「ふふふ。やっとそれに気づいたでちか」
編集長が満足そうに笑うといつもはムカつくのだが、今朝は多幸感のせいでキモい声すら聞き心地がよかった。
「あの触り心地、ゴロゴロ鳴る喉、耳の動き、すべてが最高です! 今までは意地悪そうだとしか思っていなかったあの目つきの悪ささえ、今は愛しい……」
心を入れ替えたようにねこを語る俺のことを、編集長はうなずきながらニコニコと見つめていた。
「るんるんっ、るるるんっ♪」
林檎崎ももの身体に入ったねこは二足歩行で編集室内をうろつき回りながら、鼻歌を唄っていた。
「で、今日は彼女は連れて来なかったんでちか?」
「ああ。彼女はねこの身体で町を歩いてみたいと言って、散歩を楽しみながらこちらへ向かっているところですよ」
「なんでちって?」
編集長の顔色が変わった。怖いオッサンの顔になった。
「そんなことさせて、保健所に捕まったらどうするでちか!!」
「ああっ……!?」
気づかなかった。今まで猫に興味がなかったので、そんな想像力は持ち合わせていなかった。
「そんな……。林檎崎が……! 捕まって殺処分!?」
途端に今まで何とも思っていなかった保護猫捨て猫野良猫すべてへの憐憫の情が、俺の中から青いマグマのように湧き上がった。
ドアをノックする音がした。やたらと下のほうからだ。
「林檎崎!?」
俺が急いでドアを開けると、愛するねこの姿がそこにあり、無邪気に笑っていた。
「あー、楽しかった♪ ねこの目で見ると、いつもの町も一味違ってた」
「林檎崎ー!!」
俺は安堵して号泣しながら林檎崎を抱き上げ、ぎゅっと優しく抱き締めた。
「どうしたの、俊?」
かわいい声がすぐ耳元で、生きていた。生きていてくれた。俺は思わずそのピンク色の唇にキスをしようとして、思い切りクシャミをしてしまった。
「ッシュ!!!」
目を開けると、ショートカットの林檎崎の、人間の女の子の顔が目の前にあった。俺のクシャミを顔に浴びて、しかしそれを拭こうともせず、びっくりした顔で俺を見つめている。
「あれ……? 戻った!」
大きな目をさらに大きく見開いて、林檎崎はリップを塗ってうるうるの唇でそう言った。
ねこのほうを見ると、こちらもちゃんと猫に戻っていて、るるるん、と一声唄うと、開け放していた窓から楽しそうに飛び出して行った。
「林檎崎ー!!」
俺は思わず彼女の身体を強く抱き締めた。肉まんをマシュマロで作ったような胸の柔らかさが2つ、ねこのような気持ちよさで心の奥まで触れて来る。
「俊ー!」
林檎崎も俺の首に腕を回し、抱きついて来た。人間に戻れた喜びに潤んだ目を俺に向けて来る。俺は彼女の髪に手を入れると、その頭を引き寄せ、その唇に、キスをした。
もうガキだなんて思わない!
もう猫好きじゃないなんて言わない!
俺はこの春、最愛のものが2つも増えてしまった。
るん、るん、と窓の外で歌声が聞こえた。
林檎崎を抱き締めながら、その肩越しに見ると、パンジー模様を背中に乗せたかわいいねこが、春風にその身を乗せて、竜巻に巻上がるように、楽しそうな笑顔で空の向こうに飛んで行った。