ちょっとしたことで世界を滅ぼすお嬢様を、俺は今日も泣かせないために生きている
ちょっとしたことで、幸せにもなるの
この作品は、本編の後日譚となります。
本編
https://ncode.syosetu.com/n0877hm/
前日譚※甘くないので注意
https://ncode.syosetu.com/n1700hm/
お互いの心臓の音が聞こえるほど、近くにいる。
というより、俺はまだお嬢様に抱きしめられていた。
世界を滅ぼすほどの魔力を持つ公爵令嬢が、俺の服を両手で掴んで離さない。
その指先には力が入っているのに、肩は小さく震えている。
ラスボスというより、迷子の子どもみたいだった。
「……お嬢様」
「なにかしら」
「そろそろ動いてもよろしいでしょうか」
「駄目よ」
「即答ですね」
「貴方、目を離すとすぐ勘違いするもの」
何も言い返せない。
確かに俺は、彼女がここまでわかりやすく好意を示していたにもかかわらず、全力で良縁談を探していた男である。
鈍感の罪は重い。
「ですが、この体勢だと少し仕事に支障が」
「仕事?」
お嬢様が顔を上げる。
真紅の瞳が、じっと俺を見た。
「貴方の仕事は、私のそばにいることでしょう?」
「使用人としては、他にもいろいろあります」
「なら、主人命令よ。今日は私のそばにいなさい」
便利な言葉である。
俺が黙ると、お嬢様は勝ち誇ったように笑った。
けれど、その頬はまだ赤い。
どうやら勝っているのに照れているらしい。
面倒くさい。
そして可愛い。
じっと見ていると、お嬢様はさっと顔を逸らした。
「……なぜ見るの」
「お嬢様が可愛いので」
「っ、貴方!」
顔がさらに赤くなる。
面白い。
もう一度見る。
逸らされる。
こちらが向くと、また逸らされる。
数度繰り返すと、お嬢様はとうとう地団駄を踏んだ。
「もう、なんなのよ! 主人は私よ!? どうして私が逸らさなければいけないの!」
「では、次からはあまり見ないようにします」
「…………それは駄目」
お嬢様は扇子で顔を隠した。
「あなたが悪いのよ。急に、あんなことを言うから」
「あんなこと?」
「言葉にできないほど、私が大事だと」
扇子の向こうから、こちらを責めるような声がする。
照れたような声色が、可愛らしかった。
「お嬢様が、続けろとおっしゃったので」
「……次は、もっと早く言いなさい。私は待つのが嫌いなの」
「かなり待たせてしまいましたからね」
「本当よ」
言葉は怒っているのに、声はやわらかかった。
温室の花は、まだ咲いている。
さっきまで世界を滅ぼしかけていた黒い靄は、もうどこにもない。
砕けかけていた硝子も、空間の軋みも、全部、嘘みたいに消えていた。
代わりにあるのは、甘い花の匂いと、赤くなったお嬢様だけだ。
「本当に、よかったです」
「なにが?」
「お嬢様が笑っていることが」
口にした瞬間、自分でも驚くほど声が震えた。
お嬢様の表情が止まる。
「何度も戻って、そのたびに考えて、走り回って。正直、途中から何が正しいのかわからなくなっていました」
何をしても、最後にはお嬢様が泣いていた。
それだけは、どの繰り返しでも同じだった。
「でも、俺は笑顔で終わる物語が好きなんです」
視界が滲む。
「だから、諦めなくてよかった」
「……貴方、泣いているの?」
「泣いていません」
「泣いているわ」
「これは汗です」
「目から出る汗なんて聞いたことがないわ」
お嬢様は小さく笑って、俺の頭を抱き寄せた。
細い指が髪を撫でる。
その手つきは、さっきまで世界を滅ぼしかけていた人のものとは思えないほど優しかった。
「私は、そんな貴方が好きよ」
耳元で、静かな声がした。
「地味で、普通で、気の利いた台詞も全然言えなくて、ものすごく鈍感で、時々信じられないくらい見当違いなことをするけれど」
「それ、褒めてます?」
「褒めているわ」
お嬢様は俺の頭を撫で続ける。
「でも、優しくて、あたたかくて、まっすぐで。何度繰り返しても、貴方はそばにいてくれた」
「……はい」
「だから、私は救われたの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が詰まった。
俺は彼女を幸せにしたかった。
でも、そんなふうに言われる日が来るとは思っていなかった。
何度やり直しても、誰にも知られないと思っていた。
俺だけが覚えて、俺だけが抱えて、最後まで勝手に報われたつもりでいるのだと。
深く、深呼吸する。
名残惜しさを感じながら、そっと体を離した。
「恥ずかしいところをお見せしました」
「ふふ。本当にどうしようもないんだから」
お嬢様は楽しそうに笑っている。
幸せそうに。
その顔を見ながら、俺はまた一つ、自分の人生の目標を決めた。
「お嬢様」
「なにかしら」
「俺は、頭が良いわけではありません。特別な才能に溢れているわけでもない。洒落た台詞も言えませんし、気の利いたこともできません」
「知っているわ」
「即答しないでください」
「事実でしょう?」
「事実ですが」
俺は苦笑しながら、彼女の手を取った。
小さくて、白くて、細い手だった。
けれど俺は、その手が世界を滅ぼすほどの力を持っていることを知っている。
そして今は、その手が俺の指を握り返してくれることも知っている。
「でも、そんな俺を、お嬢様は特別にしてくれました」
お嬢様の表情が揺れる。
「貴方の泣き顔は、何度も見てきました。嫌になるほど見てきました。だから今度は、それに負けないくらい笑わせます」
彼女の指先が、俺の手を強く握った。
「この世の誰よりも幸せにします。俺にできることなんてたかが知れてるかもしれません。それでも、あなたのそばにいます」
「……」
「だから、どうか俺と一緒に、この先を歩んでくれませんか?」
お嬢様は黙っていた。
長い沈黙ではない。
けれど、俺にはひどく長く感じた。
やがて彼女は、ふいと顔を逸らす。
「そんなの、答えは決まっているじゃない」
「聞かせてはいただけませんか?」
「調子に乗らないで」
「では、手だけでも」
そう言うと、お嬢様は少し迷ったあと、俺の手に自分の手を重ねた。
それだけで十分だった。
お嬢様はわがままで、面倒くさい人だ。
全然素直じゃなくて、いつも回りくどい。
けれど、重ねられた手は、どんな言葉よりもわかりやすかった。
「リヨン」
「はい」
「私を幸せにすると言ったわね」
「言いました」
「撤回は許さないわ」
「するつもりはありません」
「なら、覚悟なさい」
お嬢様は俺を見上げて、悪戯っぽく笑った。
「私は、ちょっとしたことで不安になるし、ちょっとしたことで怒るし、ちょっとしたことで世界を滅ぼしたくなる女よ」
「最後だけ規模がおかしいですね」
「でも」
彼女は、少しだけ声を小さくした。
「ちょっとしたことで、幸せにもなるの」
俺は思わず笑ってしまった。
「では、毎日ちょっとした幸せを用意します」
「当然よ」
「紅茶の温度とか」
「それは大事ね」
「好きな花とか」
「もっと大事ね」
「可愛いと言うこととか」
「……それは、欠かさず言いなさい」
「はい。お嬢様は可愛いです」
「今すぐ言えとは言っていないわ!」
そう怒る彼女の顔が、また真っ赤になる。
その赤さが、さっきまで温室を覆っていた黒い魔力より、ずっと鮮やかに見えた。
俺の、俺だけのお嬢様は、やっぱり可愛い。
◆◆◆◆◆
その後、俺たちは温室で少し遅い茶を飲んだ。
俺が淹れた紅茶は、先ほどより冷めていた。
さすがにあれだけ大騒ぎすれば当然である。
けれど、お嬢様は文句を言わなかった。
カップを両手で包み、少しずつ口をつけている。
その仕草が妙に大人しくて、俺は不安になった。
「お嬢様。紅茶、冷めすぎていましたか?」
「いいえ」
「では、菓子が口に合いませんでしたか?」
「いいえ」
「それなら、何か考え事ですか?」
「……そうね」
お嬢様はカップを置いた。
白い指先が、皿の縁をなぞる。
「貴方、本当に後悔していない?」
「何をですか?」
「私を選んだことよ」
その声は、いつもの高慢なものではなかった。
小さくて、慎重で、怖がっているような声だった。
「私は、面倒な女よ」
「知っています」
「重いわ」
「知っています」
「……少しは、否定したら?」
「実際、世界の終わりを何度も見たので」
お嬢様が、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「私は、自分でも自分が厄介だとわかっているの」
「はい」
「貴方が今は私を選んでくれても、いつか嫌になるかもしれない。面倒になって、逃げたくなるかもしれない。誰かもっと普通の、優しい女の方がいいと思うかもしれない」
言葉が続くにつれて、彼女の指が皿から離れ、膝の上で握られていく。
俺は、その手に自分の手を重ねた。
「お嬢様」
「……なに」
「俺は何度も逃げる機会がありました」
お嬢様の目が揺れる。
「死に戻るたびに、屋敷を出ることもできた。もっと遠くへ行くこともできた。お嬢様とは関係のない人生を探すこともできた」
「……」
「でも、しませんでした。何度、繰り返しても」
彼女の指が、俺の手を弱く握り返す。
「俺は頭が良くないので、難しいことはわかりません。でも、自分で決めたことだけは、簡単に曲げないつもりです」
「自分で、決めたこと」
「はい」
俺は頷いた。
「俺は、自分で決めて、お嬢様のそばにいます」
お嬢様は何も言わなかった。
ただ、目を伏せた。
長いまつげが震えている。
「押し切られたわけでも、仕方なくでもありません。お嬢様が世界を滅ぼすから責任を取るとか、そういうことでもありません」
「なら、どうして」
「好きだからです」
言った瞬間、お嬢様が固まった。
わかりやすい。
本当にわかりやすい。
さっきまでの不安そうな顔が、一瞬で赤く染まっていく。
「……も、もう一度」
「好きです」
「ま、待ちなさい。心の準備が」
「お嬢様が言わせたのでは?」
「そうだけれど!」
お嬢様は扇子を開こうとして、手元にないことに気づいたらしい。
視線がさまよったあと、仕方なく両手で顔を隠した。
隠しきれていない。
耳まで赤い。
「貴方、急にそういうことを言うのは卑怯よ」
「毎日言えとおっしゃったので、練習を」
「練習台に私を使わないで!」
「本番もお嬢様ですが」
「そういうところよ!」
怒っているのに、声は弾んでいた。
やっぱり可愛い。
「それにしても」
「なによ」
「お嬢様は、ちょっとしたことで可愛くなりますね」
「……は?」
「さっきまで世界を滅ぼすかどうかの話をしていたのに、好きだと言ったら真っ赤になるところとか」
「リヨン」
「はい」
「貴方、少し調子に乗っているわ」
「初めて両想いになったので」
「……両想い」
小さく繰り返した声は、驚くほど柔らかかった。
お嬢様は顔を隠したまま、指の隙間からこちらを見る。
「そうね。両想い、なのよね」
「はい」
「私と、貴方が」
「はい」
「……ふふ」
笑った。
それは、普段の高慢な笑みではなかった。
勝ち誇るような笑みでも、誰かを見下すような笑みでもない。
ただ、嬉しくてたまらないものを、隠しきれずにこぼしたみたいな笑顔だった。
俺は、その顔を見て思った。
ああ。
この顔を見られるなら、何度やり直してもよかったのかもしれない。
「リヨン」
「はい」
「明日も、私の紅茶を淹れなさい」
「はい」
「花も選びなさい」
「はい」
「私を見なさい」
「はい」
「私と話しなさい」
「はい」
「私のことを考えなさい」
「はい」
「それから」
お嬢様は少し迷ったあと、目を逸らした。
「……毎日、好きだと言いなさい」
声が小さかった。
命令というより、お願いに近かった。
だから俺は、わざと真面目に頭を下げる。
「かしこまりました」
「使用人みたいに返事をしないで」
「使用人ですので」
「今は違うでしょう」
「では、なんと返事をすれば?」
お嬢様は、しばらく考えた。
考えて、考えて、耳を赤くしたまま、ぽつりと言った。
「……恋人みたいに」
破壊力が高かった。
俺は思わず口元を押さえる。
「リヨン?」
「すみません。致死量を超えました」
「効いた?」
「はい。かなり」
「そ、そう」
お嬢様は満足そうに背筋を伸ばした。
「なら、もっとうろたえてもいいのよ」
「ほどほどでお願いします。心臓が持ちません」
「私をあれだけ待たせた罰よ」
そう言って笑うお嬢様は、やっぱり少し悪役令嬢っぽかった。
でも、もう怖くはない。
彼女の黒い魔力も、真紅の瞳も、誤解を招く雰囲気も。
全部、俺がよく知っているお嬢様の一部だった。
「お嬢様」
「なにかしら」
「好きです」
「……本当に、貴方はどうしようもないわ」
そう言いながら、お嬢様は笑っていた。
俺の異世界生活は、思っていたものとはずいぶん違う形になった。
剣を取って魔王を倒すわけでも、国を救う英雄になるわけでもない。
毎朝、紅茶の温度に気を遣い、花を選び、世界で一番面倒くさいお嬢様の機嫌と照れ顔に振り回される。
けれど、たぶん。 俺には、これ以上ないくらいのハッピーエンドだった。
俺の異世界ハーレム物語は、始まる前に終わってしまった。
けれど、世界で一番面倒くさくて、世界で一番綺麗で、世界で一番可愛いラスボスお嬢様に、毎日振り回される人生も悪くない。
温室の花が、風もないのに小さく揺れた。
その中で、お嬢様は俺の手を握ったまま、肩を寄せてくる。
「リヨン」
「はい」
「私を幸せにしなさい」
「はい」
「明日も、明後日も」
「はい」
「その次も、そのまた次も……これから、ずっと」
俺は、彼女の手を握り返した。
「はい。ずっと、幸せにします」
お嬢様は満足そうに笑った。
その笑顔があまりにも可愛くて、俺はまた思ってしまう。
世界を滅ぼすほど不器用で。 世界を救えるほど、ちょっとしたことで幸せになる。
俺だけのお嬢様は、やっぱり、とんでもなく面倒くさくて――言葉では言い表せないほど、可愛かった。




