第8話 これは抱いてはいけない想いだから
キャデラン夫人の元で療養したレイラは、改めてもう一人の恩人コリーに礼をした。何も持っていないレイラにできるのは感謝の言葉を告げることだけだったが、以来コリーはレイラの年の離れた友人となり、週に一、二回、キャデラン夫人のもとで共にお茶を飲んだりゲームに興じる仲になった。
ボスは夫人の元で飼われることになり、レイラは夫人の紹介でカーティスのもとで働くことになった。アパートを借りるときは夫人から反対されたけれど、どうにか説得をした。
最初は人に会うこと、特に男性と接するたびに硬直していた時期もあるが、カーティスの部屋を訪れるのは本メイドのアニーだけ。最初に彼女に仕事を教わった後は、問題なしと一人にしてくれた。
お昼はアニーと食事をとり、慣れてくると彼女の夫でもある執事のチャドからの連絡なども直接受けられるようになった。
ガリガリだった体も程よく女性らしい丸みを取り戻し、以前のように誰とでも話せるくらい肩の力が抜けていく。
いずれカーティスのところを辞める日が来るけれど、彼の紹介状ならどこででも働くことができるだろう。そんな日が一日でも遅ければいいと思うくらい、レイラは幸せな日々を過ごした。
*
パーティーから十日が経った。
いつもと同じように、主人不在の間の家事をしてアニーと共に昼食を摂る。休憩時間に少しだけレコードを聴きながら本を読んで、カーティスの夕食と軽食を作って保管庫にしまい、すべての業務が終わったことを確認後帰り支度をする。
部屋のあちこちにカーティスを感じた。
あの日、レイラのことを気遣うように寄り添って肩を抱き、優しい沈黙を守ってくれた人。レイラのことをいつから知っていたのかは聞かなかったし、彼も話さなかった。
あの日、部屋に戻ってきたグレンは、ザッカルは招待客ではないことを教えてくれた。
「招待していた女性のパートナーとして来てるんだ」
彼の口ぶりからするに、その女性はザッカルの妻ではないのだろう。グレンもレイラのことを知っていることに、もう疑いはなかった。
ザッカルの顔も知っていることから、二人はあの断罪の広場を見ていたのかもしれないと半ば確信する。
このまま部屋にいれば顔を合わせることは絶対にないと、グレンは約束してくれた。しかしカーティスはレイラの顔を覗き込み、少しいたずらっぽい笑顔を見せたのだ。まるで「君は大丈夫だろう?」とでも言うように。
その笑顔につられ、レイラはクスッと笑いをこぼした。
「コソコソする必要はないですわよね?」
レイラはただのおまけなのに、カーティスを巻き込んで隠れるのは変だ。
そう言うレイラにカーティスは苦笑したけれど、
「堂々と楽しもう」
と、手を差し出してくれる。
そのままパーティーを楽しみ、やがてザッカルにバッタリ会ったときもレイラは自然な笑顔だった。
たくさんの嘘でレイラから色々なものを奪った男だ。
でも今のレイラには、不思議なほどどうでもよかった。
(どうしてこんな人に恋をしているだなんて思いこんだのかしら?)
きょとんと首をかしげるが、どうやらザッカルはレイラを見ても誰だか分からないらしい。
彼のパートナーはレイラと同じくらいの年頃で、カーティスにぼうっと見惚れている。
カーティスはレイラを引き寄せ、自分がレイラしか見えてないかのように、まるで彼がレイラのものだとでもいうように微笑んだ。
「可愛い人、知り合いかい?」
(え、演技が凝ってますわ!)
ドギマギしながらちらりとザッカルを見て微笑む。小さな男だ。覚えている価値もない。
(でも、あの美しく気高いアマリーが苦しむのは許せない)
この男にはもったいない女性だ。それでも彼女が彼を愛しているなら。そして今隣にいる女性がレイラのようになっては嫌だから。
「ザッカルさん、三人目のお子さんは大きくなったでしょうね」
そう一言だけ告げてカーティスと共に去る。
ザッカルが驚いたように手をバタバタさせるのが目の端に見えたし、バチンという音も聞こえたように思ったけれど、もう興味もなかった。
「すっきりしたかい、レイラ?」
少し離れたところで気づかわし気に顔を覗き込むカーティスに、レイラは心からの晴れやかな笑顔を見せた。
「ええ。カーティス様。すべて、覚えている価値もないことだとわかりましたわ」
一瞬彼が息をのむ音が聞こえた気がした。
少しかがんだ彼が、ハッとしたように慌てて身を起こして首を振るのをレイラは呆然と見つめた。
あの時間のことをどう考えていいのかよくわからない。
もしあのままカーティスからキスを請われたとしても、レイラは嫌じゃなかっただろうと考え、熱くなった頬を手で押さえる。
(私ったら何を考えているの。彼がそんなことするわけないじゃない)
唇へのキスは特別だ。レイラは誰にも許したことがない。
それでも今は、一度だけカーティスからキスをもらえたら、それだけで一生強く生きられそうな気がした。
(……お守り、みたいなものよね)
きっとそう。
彼のことを思い出すだけで胸が苦しくなるのは気のせいだ。
家事の一つ一つに、なお一層力が入るのは感謝しているから。
パーティーで一緒に食事をした時の会話を反芻しては頬が緩む。好きな本やゲーム、音楽の話。驚くほど好みがあって、とても前から一緒にいる人みたいだなんて。
こんなこと考えちゃいけない。考えてたら、きっと弱くなってしまう。
(やっぱりここを辞めなくては……)
今朝テーブルに活けられていた小さなブーケを見て、レイラは嗚咽を手で抑えた。
時々カーティスの部屋に、女性が好みそうなものが飾られたり置かれたりすることがある。レイラはそれを彼の恋人が訪れる日だと解釈し、いつも以上に念入りな掃除をし、香りにも気遣った。幸せな恋人が少しでも楽しい時間を過ごせるように心を砕いた。
でも今、以前のように置かれた花を見て、レイラの手が小さく震えている。
(きっと、あのパーティーに連れていくはずだった方よね)
何らかの事情で行けなくなったのであろう、彼の本当のパートナー。
彼がエスコートし、肩を抱き、共に笑い合うべき相手。
(もしかしたら奥様になられるのかも)
そのことに気づき、胸の奥が握りつぶされたように痛む。
彼が結婚をしたら、昼間はその妻の指示で働くことになるだろう。いや、その頃にはアニーが戻ってきて、きっとレイラに用はない。カーティスが雇い続けてくれるとしても、こんな気持ちを持ったメイドなんて側にいるべきではない。
以前恋だと思っていたものはすべて嘘と誤解だったが、はじめて感じるこの感情を、こんなにも苦しい想いを、今まで誰にも抱いたことなどないのだから。
誤解でも人々から糾弾されたのに、真実ならきっと彼の妻に嫌な思いをさせてしまう。
どんなに隠していても、これはいけない想いだ。でも消すことも忘れることも出来そうにない。
この街に来てから約二年。新年まで、もう何日もない。
(年が明けたら辞意を伝えよう)
次の人がすぐに見つかればいい。これはレイラの身勝手だから、もしカーティスが紹介状を書いてくれなくても仕方がないこと。
そう決めたことで気持ちが軽くなった。
ブラシをかけていた彼のスーツをそっと抱きしめる。
ここを去るその日まで隠し通すから。
だから今だけは、この気持ちを言葉にすることを許してください。
「カーティス様……好きです」