第6話 エメラルドは純潔と貞操のお守り
学園卒業後、レイラは住み込みの家庭教師になった。
スタンリー家のあるヨギーシャ地方はのどかな田園風景が広がる美しい土地だが、都市とは遠く離れている。
レイラは実家から汽車で十分程度にあるアッカー家に雇われていた。
アッカー家には六歳の娘リラがいて、彼女が学園に入学するまで、十年間務めるという約束だったのだ。
あの男――ザッカルは、アッカー家のあるサヒ村に定期的にやってくる男だった。仕事で来ているとのことだったが、今もレイラはそれが何なのか知らなかった。
ただ、なぜか顔を合わせる機会が日に日に増え、ザッカルはそのたびにレイラに甘い言葉をかけていく。
けっして美男子とは言えない。むしろ顔立ちだけなら醜い部類に入ったが、美しい歯の持ち主でいつも笑顔を絶やさないザッカルは、とにかくマメだった。
年もレイラの五歳上というには老けていたが、きっと髪が少なめなせいだろうと考えていた。
彼から一年以上口説かれ続け、アッカー家の主人からの口添えも有り、レイラは彼とパーティーなどに出かけるようになった。
「レイラ以上に綺麗な女の子なんてこの世にはいないよ」
何度もそう言うザッカルから、繰り返し「愛している」と囁かれた。
まわりからも公認の恋人だと思われていた。
しかし、今思えば違和感があったのだ。本能的に何かが違うと感じていた。
だから彼に恋をしていると思い込んでいた時期でさえ、必要以上に触れることも触れさせることもなかった。エスコートで手に触れる以外、まったく。
「そろそろキスを許してくれないか?」
彼から何度も何度も言われたけれど、どうしても頷くことができなかった。今思えば頭の奥で警鐘が鳴っていたのだとわかるが、当時は恋愛に対してレイラ自身が内気過ぎたのだと思っていた。
初恋なのだと信じていた。めでたすぎて涙が出てくる。
そんな日々が三か月ほど続いたある日。
レイラはザッカルに襲われた。そう。襲われたとしか表現できない。
彼は酒を飲んでいたのだろう。別人のように目をぎらつかせたザッカルは、レイラの部屋に忍び込んできたのだ。まだ寝支度をしただけで本を読んで過ごしていたレイラは、気配を消して忍び寄ってきたザッカルに押し倒された。床に頭を強かに打ち付け、一瞬意識が飛ぶ。
首筋に鋭い痛みを感じて覚醒すると、ザッカルがそこに口づけをしているところだった。唇にもされたのかもしれないがわからない。
意識を飛ばしたのはほんの数分だろう。もしかしたら一分にも満たないかもしれない。
ふらふらと身を起こしたザッカルの隙をついて逃げようとしたところ、腕を引っ張られてその胸に飛び込む。上げかけた悲鳴は大きな手で口をふさがれた。
甘い感情など微塵も浮かばなかった。
怖かった。ただひたすらに怖く、おぞましかった。
「おまえが焦らすから悪いんだよ。ちやほやしてればいい気になりやがって」
にたりと笑う顔は、見知らぬ化け物のようだ。
たまたま物音を聞きつけたらしいアッカー家の主人に助けられたが、タイミングの悪いことにそれがさらに誤解を生んだ。
しかも次の日、ザッカルの「妻」がアッカー家にやってきたのだ。
村人の証言から、レイラは姦通の罪に問われた。
レイラの首筋に色濃く残る複数の赤い点がその証しだと。
口づけさえ許したことがないのに、誰もそれを信じてくれない。それどころか、恩人であるアッカー氏にも疑いの目が向けられた。
ザッカルとの交際を勧めたことは周りの人々も知っていたことから、それはもともと、レイラとの関係をカモフラージュする為だとまことしやかに囁かれたのだ。
ザッカルは嘘の塊だった。
本当の年齢は五歳上どころか十二歳も上の既婚者だった。子どもが二人おり、さらに妻は三人目の子を妊娠中。
村の女性の中にはレイラを信じてくれる人も少なからずいた。
それでも小さな不信は大きな疑惑を呼び、面白おかしく事実とは反する話がまことしやかに囁かれた。口の上手いザッカルの言葉のほうが真実味があったのかもしれない。
一番悪いことにレイラの兄は、その嘘のほうを信じたのだ。
「レイラ、おまえはなんてことを」
ザッカルの妻のアマリーは、兄の妻ジルの親戚だった。兄は完全に顔に泥を塗られたと怒り狂い、レイラの話など聞いてもらえない。
次の週。本当だったら祭りがおこなわれる日。
重罪を犯した犯罪者のように、レイラは村の広場に立たされた。年に一度のその日、村の人口は旅行者で倍近くになる。
(あれは余興だった)
それが一番近かった。誰もが自分の正義に酔いしれ楽しんだのだ。
高貴な姫の罪。そんな名前で小さな即興芝居までできたという。
広場の中心にアマリーが大きなエメラルドを手に立っている。
乱暴に引き出されたレイラは、アマリーの大きなおなかを見、続いて燃えるような緑の目を見る。気性の激しい女だと聞いていたけれど、レイラには泣いているように見えた。
(夫を信じたいんだ……)
その想いが痛いほど伝わってきた。
「どうして」
小さく声が漏れる。
愛する妻や子がいるのに、どうして私に愛してるなんて言ったの。どうして独身のふりをしたの。どうして本当のことを言わないの。どうして、どうして、どうして!
「レイラ・スタンリー。あなたの罪を確かめます。このエメラルドをその手に取りなさい」
エメラルドはこの国ではありふれた宝石だが、古来より純潔と貞操のお守りとされている。赤ちゃんの拳ほどもあるエメラルドを手にしたアマリーは、はたから見れば完全な被害者であり正義だった。いや、事実そうだ。
彼女の裏で無表情で立つザッカルは何を考えていたのか、ぼおっとレイラが幽霊でもあるかのようにその向こうを見ているのが分かった。アッカー氏は怒りを堪えるように顔をこわばらせている。
兄は明らかにレイラに対して蛇蝎を見るような嫌悪の目を向け、ジルは何を考えているかわからなかった。
それでも。
(私は何も恥じるようなことはしていない)
綺麗に背筋を伸ばしたレイラが黙って手を差し出すと、そこにアマリーがエメラルドを慎重に乗せる。
もし不義があればこの石は砕け散る。
誰もが息をのみ、広場に異様な静寂が広がった。
「あ……」
小さく声を上げたのはザッカルの横に立つ、彼の小さな息子だ。
レイラの手のひらに置かれたエメラルドは輝きを増し、広場を覆うほどのきらめきが噴水のようにあふれ、やがて何ごともなかったように消えた。エメラルドは元のまま、傷一つついていない。
見物者たちの間にさざ波のように静かなざわめきが広がる。
目を見開いていたアマリーが息を吐き、レイラから石を取り上げた。
「あなたの無実は証明されました。あなたと夫の間には何もなかった。疑って申し訳ございませんでした」
明らかにホッとした笑顔で頭を下げるアマリーは、火のように激しくも、どこまでも誠実で美しい女性だ。
レイラも深々と頭を下げる。
こうしてレイラの無罪は証明された。――はずだった。